イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 代表 教育・哲学・社会学をテーマにブログ配信中。月一更新

視点

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曙橋

 

 『哲学』という言葉が「Philo+sophia」から生まれたことは前回ブログで触れました。この言葉は幕末から明治初頭に生きた哲学者、西周先生(以下敬称略)の翻訳によるものだったと言われます。

 西周の引用元は、西洋のウェブスター百科事典=エンサイクロペディア(原義は希臘語のエンキュロス・パイディア=子供を輪に入れる)であると『百学連関を読む』の著者、山本氏は示唆します。

 さらに「哲学」は、もともとは「希う(こいねがう)」という漢字を含めた「希哲学」だったそうです。

「希う」の動詞の漢字が残されていた方が、元のPhilo+Sophia(愛する+智)の意味に近づくので、この省略は重大なものだったと山本氏は指摘します。いつのまにか「希」が省略されたそうですが、理由は諸説あるようです。私自身も、なんとなくその理由に思い至る点がありました。

 というのも、知識や言葉が使い慣らされていく過程で、元々、その語句の背景にあった、動きや文脈は、失われやすい、と思うからです。「感謝」の意味に変わった「有り難い」や「治療」の意味に用いられる「手当て」もそうです。

 同時に、「動き」を含む語句は、その言葉を扱う人の観点によって、動きの分量や程度が変わるので、不特定多数の人がその語句を扱う場合は、概ね言葉の意味の中にある客観的で表面的な、名詞の部分だけが残されていく、と思うからです。

 例えば、『民主主義』という言葉も、躍動的な中身を意味するのか、客観的な制度の事を指すのか、結局は、多数決や代議員制の制度について意味するものだと大勢の人が誤解を生んでいく(ように思える)様子を見れば、腑に落ちます。

 失われても問題ないものもあれば、失われると一大事なものがあるように思います。

 

   この視点は、写真史の中でも指摘されてきた 写真家の習性と重なるものでもありました。上記のように、政治的な文脈にも頻出しますし、昨今、メディアで取りざたされるポピュリズムという即物的な手法をとっても、歴史的な背景や文脈の、積み重ねで育まれる寛容さを、削ぎ落としていく点で類似すると思います。

 この辺りは、持論になるので、割愛しますが。

 特に写真史にとっては、被写体の客観的価値が着目される中、絶えず何かを生み出そうとする主観的で動的な部分が、注目された時期がありました。

 その視点に触れる人物の言葉を引用したので、それをもって今回のブログを終わります。

 その人物とは、ジョン・シャーコフスキー(1925-2007)。スナップ写真で先駆的だったウジェーヌ・アジェを始め、歴史的写真家を次々に世に出したニューヨークMOMAの60年代当時の写真部ディレクターです。

 

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 アジェの時代の大半の写真家は、被写体は与えられたものであること、それが客観的で社会的な性質のものであると信じていた、あるいは感じていた、と人は言うかもしれない。

 大半の職業写真家たちは、このような客観的事物をできる限り明瞭に、そして正確に描写することが、彼らの仕事と感じていた。

 また、大半の芸術写真家は、芸術の原理ないし芸術的感受性の力にそれを服従させることによって、その対象のリアリティを巧みに扱う、あるいは変化させることが自分たちの役割であることと感じていた。

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 アジェについて言えば、芸術の原理ないし芸術的感受性によっているとは思われない。ただ、カメラの前にあるものを、それがどんなものかをクリアに正確に写し取ろうとしているだけのように思われる。ただ、目の前にあるものは、確実で客観的なものとは思われず、不確かで、暫定的相対的なもので、絶えず新しい何かが生まれ出る可能性を持っているもののようだ。

 アジェの最もよく考え抜かれた画像においてでさえ、その見た目の完璧さは、一つの経験が、ダンサーが跳躍の頂点で静止する瞬間のように、はかないものだということを示している。

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 (アジェの)写真は、まるで我々が期待したものではない。それらは感情による影響が全く処理されていない。矛盾がそのままになっているのだ。それらには、私心がない。つまり、甘えがない。それらは、写真家が見た以上のものは何もない(と我々は確かに感じる)という意味で、大胆不敵である。

 

John Szarkowski (『ウジェーヌ・アジェ写真集 』 2000、岩波書店

 

 

ウジェーヌ・アジェ写真集

ウジェーヌ・アジェ写真集

 

 

「百学連環」を読む

「百学連環」を読む

 

 

 

誰でも持っているもの

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 今日は誰もが持っている、『哲学』について書きたいと思います。

 

 哲学は知恵を愛することとも言われます。というのも語源はPhilo-sophia。 

 古代ギリシャで4つに分類された愛(Agape, Eros, Philia, Storge)のうち、友愛を示すフィリア(Philia)と、知恵を意味するソフィア(Sophia)の合成語だからです。*Agapeは人類愛, Erosは恋愛, Storgeは家族愛と言われます。

 

 そうなると周囲のなんてことない事に疑問を抱いたり、親近感を抱いたり、創意工夫に思いを馳せたりすることも、語源からすれば哲学なんですね。難しい哲学書を読むことではありません。

 

 ところで、かつて啓蒙の時代と呼ばれた18世紀後半に世界でほぼ類を見ない規模で30年にわたってディドロダランベールを中心に百科全書が編纂されました。ここで哲学の定義は上記と、少し違う解釈でした。

 

哲学という名称の意味を確定して、それに適切な定義を与えることを問題としよう。哲学することとは、事物の理由を与えること、少なくともそれを探究することである。『百科全書』(1751-1780,ディドロダランベール)(1974、桑原武夫訳、岩波書店

 

 完結です。物事の理由を見つけること

 

 人からみれば難しいことも、その人なりに説明ができれば良い。と言われることもありますが、説明できる(理由を与える)ことは、そのまま哲学。という解釈です。幅が広がります。英語で「理由」は、Reasonですが「理性」の意味もあります。物事から理性を見つけるのも同義と言えそうです。

 哲学、、面白い。

森友問題の責任はイノウエにあります

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今年度も始まりました。

よろしくお願いします。

 

ここ10年間。

苦手であったけれど、興味深かった分野。

ひとくくりに言えば、『哲学』を学び続けてきました。

 

そして私は、今、怒ってます。

学んだにかかわらず、増えるのは、やっかいに思われるもの、だからです。

初めから、それを期待したわけでもなく、どちらかといえば、ひとつづつ減らした方が喜ばれたような、それです。

中学生や、高校生なら、増えるほど賞賛されますが、平凡なただの40のおじさんには、むしろ、世の中の奥様方から、たたんでタンスにしまって欲しいと願われる、それです。

一言で言えば、です。

 夢というからには、漠然としてます。社会人になると多くの人がそれを置き換えるところの、事業計画書といった具体的なものとは訳が違います。もっと、やわらかくてネバネバしており、そして、大それたもの。別の言葉で言えば呪いです。

 

まったく、ある日、夢に謎の人物。

キルケゴールという人が出てきて、(夢の中の)高校の図書館から自分を呼びました。ページを開くと、中から森が飛び出したり、立体的なバースデーケーキが立ち上がるわけでもなかったのに。です。

今ふりかえれば、あの時、30歳の時に、受験勉強を始めたのが原因かと思いますし、もっと前からのような気もしますが、きわめつけは図書館で働き始めたことでした。そこで、致命傷を負ったような感じ、、

傷口を広げて、そこに活字という名の辛子を練り込んだような感じ、、がします。

挙げ句の果てには新聞を読むのも日課。本棚に聖書。引き出しにはカントが鎮座する始末。呪われたと言わずに、なんと言えば良いだろう。

 

こうなると、森友問題、改憲問題、国際紛争、教育問題、が哲学という高級菓子の受け皿のようになり、どれも専門家が指摘するところの諸管轄の責任者の問題であると同時に、その責任の一旦が自分にあると明言できてしまう。(与党以外の議員の趨勢が違法とみなす法案を、次々と可決する不思議な民主政治を到来させた日本の人気争奪選挙での本当の敗者は、私たち一人一人の中から消えかかる哲学自身だと思えるから)

 

さぁ、責任逃れを果たすべく、釈放を願って、まずブログを書きます。

 

というわけで、今までクールに哲学ブログという雰囲気のおしゃれブロガーとして歩き出そうとした自分でしたが今後は、いよいよ調布の田舎のおじさんらしく、もう少し、言い逃れ的な、自己弁明型のブログで送りたく思う次第です。

なお、現在運営中のリサーチサイトも継続するので、どうぞ訪ねてやってください。

  

ふとパソコンの隣をみると、机の上には、エラスムス(1466-1536)の『痴愚礼賛』の訳出し本が。ちなみに、慶応大学出版会のものです。こんな辛子みたいな文章、一体なんの役に立つのか。
そう、思えば思うほどと、ワクワクするじゃないですか、まったく、こまったものだ。

 

 

 

オルテガ・イ・ガセット

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Chi non può quel che vuol, quel che può voglia
(欲することを叶えられない者は、叶えられることを欲せよ)
Leonardo da Vinci
1930『Misión de la universidad』、オルテガ・イ・ガセット、『大学の使命』

 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガゼット(1883-1955)は、自分らしくない(生き生きとしてない)習慣から大衆を解き放つ、生・理性(Razon vital)の教育を推奨しました。

 自分自身に対する尊敬の念を失うことなしに、自己の本性の偽造に慣れ込むということはありえない
オルテガ・イ・ガセット、『大学の使命』

 オルテガは、平均的な水準の学生を念頭に、尊敬の念や、興味や関心の大切さを説きました。冒頭のレオナルド・ダ・ビンチの言葉も、実感を抱くことの大切さを示す意味で、引用されたものでした。 

 物事に驚くこと、不審に思うことは、理解し始めることである。
〜驚きに見開かれた目こそ知的な人間の属性なのである。
〜それだからこそ古代の人々はミネルヴァに、常に目を光らせた鳥である梟(フクロウ)を与えたのである。

オルテガ・イ・ガセット、『大学の使命』

 ミネルヴァはギリシャ神話に出てくる知恵の女神さまです。

 さらに、実感ある生活者の姿勢を、オルテガは、生活者一人一人の責任としてでなく、教育機関と教授によって育てられると考えました。
 
 骨子はこのようなものです。
 社会を支配しているのは経済性である。過去にはローマ時代、そして現代の生活圏の中に、経済性を基盤にした数の論理が浸透している。それは、驚きや好奇心を抱く人々の目に取って代わり、平均的な人々の知識を、社会の至る場面に台頭させるものだった。いまや、大学教育においては科学研究が繁茂し、人々は実証主義を掲げ、断片的に知識を扱うようになった。「これ以上、科学人はただ一つの対象だけに非常に博識であるという野蛮人であってはならない」、と。

 オルテガは著書『大学の使命』の中で述懐します。さらに、だからこそ今、
「知識の有効な総合と組織化・体系化の創造が必要である」
「そして、総合化のできる特殊の才能タイプを育成しなければならない」
 と指摘しました。

 それは、時間と能力の限られた学生の有限性に叶う人間的な方法です。

 今われわれが、その呼び名を求めているもの、すなわち、本来の意味で人間的な事柄の総体を、Humanidades(ウマニダーデス)という呼称それだけで的確に言い表そうとするなら、われわれはその過去の用語の過度に限定された意味を払いのけ、それ本来の自発性、自然性において働くようにさえすれば、それで十分なのである。
『人文学研究所(趣意書)』 

 Humanidadesという語句は、中世と近代、現代の日本にまで伝わることとなったHumanities=人文学の語源(ラテン語Humanitates)のスペイン語訳です。

自発性や自然性、生・理性、教養は、ほぼ同義のものとしてオルテガは扱いました。

(過去の用語の、細分化した学科としての人文学でなく)

 我々はかくして、大学教育は次の三つの機能からなるという結論に達する
1. 教養の伝達
2. 専門職教育
3. 科学研究と若い科学者の養成

 1.教養の伝達
 この伝達が、学生の自発性、自然性、あるいは驚嘆の目を育むものとなっているか、教育機関は絶えず注視する必要がある。
 と、オルテガが生きていたら指摘する、と思われます。

(3/2 updated)

 1955年に亡くなった彼は、その意思を反映した大学がイギリスに設立されるなど、当時のヨーロッパへの影響力を誇りました。(ノース・スタッフォードシャイア大学)

 1880年プロイセンの大学を手本として設立された日本の帝国大学は、当時、すでに研究科を大学院に設置していましたが、教養課程と専門課程のそれぞれに履修規定を課したのは、1956年になってからのことでした。のちに形骸化したといわれる一般教養課程ですが、オルテガの論旨は今でも新鮮に思えます。

 なお、オルテガが、一連の教育改革を、初等・中等教育ではなく、高等教育に絞った理由は、当時、複雑化した科学的研究の弊害が、すでにドイツ・フランスの大学に見られていて、初等・中等学校で見られなかったからとのことです。さらりと書かれた箇所がありました。

幸いにも、現在の学者世代の代表的指導者たちは、今日の科学そのものの内的必然性からして、その専門主義と統合的教養とを釣り合わせることの必要性を感知するに至っている
〜少なくとも、初等学校や中等学校の授業にすでに行われているような方法が、高等教育の中に見出されない間は、その達成を期待する事はできないだろう。

 

 

大学の使命

大学の使命

 
大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

 

議論しない方が勇敢にみえる?

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足音

奥平康弘さんの翻訳を少し眺めました。
基本的人権」ってなんだろう。

一ページ目からわかりやすかったので引用しました。

ペリクレスは言う。
行動の大きな障害となるのは、議論をすることではなくて、むしろ議論によって得られる行動の、準備のための知識を欠いていることにある。我々は行動を起こすに先立って、考えるという固有の力をもっているとともに、また行動するという力をも持っている。ところが多くの人は無知なるが故に勇敢である。しかし、じっくり考えた場合には、尻込みするのである

ウィリアム・O・ダグラス 訳:奥平康弘
P1『基本的人権』1985

一部、イノウエ訳
議論は何も生まない、という話を聞いたことがある。だからまず行動しよう、というスローガンなどもたまに聞く。
上記では、議論が、行動の障壁となるとも書いている。

 

議論を経ない行動と、準備された行動と。

行動することの大事さでは、どちらも同じだ。

ただもし、考える習慣や知識のないままでは、
じっくり考えた場合には、結局、尻込みするそうだ。

そして、考えることが人間の権利のようだ。

勇敢でもろいより、考えて行動するほうが、人間ぽい

基本的人権

基本的人権

 

『カントの政治哲学講義録』ハンナ・アレント

 

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カトマンズにて

 

 

 ハンナ・アーレント(Hannah Arentdt 1906˜1975)

彼女は、西独ハノーファーに生まれたドイツ系ユダヤ人の政治哲学者です。戦時中はパリや米国へ亡命していました。

 人の考えることの大切さや、想像力に近い判断力の重要性に言及した人でした。アーレントの言うところの「判断力」は、政治そのものの存在理由でもありました。彼女は「人が人間らしく思考(判断)できる公共領域の確保」を、政治の第一の目的と考えました。

 どういうことか。

 彼女は、独裁政権下のナチスの高官、アイヒマンを研究の対象としましたが、皮肉にも、この時、彼女は二重の思考の欠如に気がついたのです。一つは、アイヒマン本人の、もう一つは大衆のものでした。

 アイヒマンに対する一般的な糾弾は、大量虐殺の実務を担った官吏に弁明の余地はない。というもので、この判断が人々の趨勢を占めました。
 一方、アーレントの糾弾は、2度と繰り返されてはならない惨事の根本原因、個人の判断力の限界に関わるものでした。

 終戦後、アイヒマン裁判の公聴会に足繁く出席した彼女は、当時、虐殺を指示した本人の責任能力の程度に着目しました。そして独裁政権下の人間の、思考能力の欠如に言及したのです。
 この振る舞いが同胞(ユダヤ人)の批判の対象となったことは、想像に難くありません。見方を変えれば凶悪犯を擁護したと誤解を招くからです。アーレントはNYのニュースクール大学の講義でこう語ったと言います。

もし我々がその場に居合わせず、関わりがなかったとするなら、我々は人を裁くことができない、と言う議論は、時に説得力を持つ。だが、もしそれが真実と言うことになると、司法行政も歴史の著述も全く不可能である。p148『カント政治哲学講義』

 「戦時中の人間の思考能力の程度など、亡命の第三者に判断できるものか」と、当時、非難されたでしょうか。
 彼女は、観察者の立場だからこそ、適切な判断を下せると考えました。アーレントは続けて、こう言います。

世論によって、我々の裁きが許される事柄は、人々の趨勢であり、要するに、区別がつけられないほどに一般的なものなのである。したがって我々は、例えば、全人民の集団的有罪や集団的無罪という理論が流行るのを見いだす。
(〜このことは)「個人の道徳的責任において判断するのを嫌がること」と結びついている。この判断力の萎縮がまさしく、アイヒマンの途方もない犯罪をまず第一に可能ならしめたものであった、ということは悲しい皮肉である。
P150『カント政治哲学の講義』

 と、考察したのでした。

 アーレントの伝えたところの「判断力」は、想像力、あるいは多数派に流されずに行動する、勇気に関わるものだと、言えそうです。

 ナチスの諸処の異常性が虐殺の原因にはなりえても、観察者の「判断力」を埋没させた人々の趨勢に、その萌芽があったと論じたアーレントの視線は辛辣です。

 そして、こう述べます。

人間精神の能力としての「判断力」、そしてこの能力の機能する条件としての人間の社交性、~これらの主題はすべて卓越した政治的意義を有しており、政治的な事柄にとって重要である。 P15 『カントの政治哲学の講義』

 判断力を支える社交性が、政治的に重要だと言います。

 さらに、下記を踏まえると、アーレント自身が、政治の目的を、人々の思考、判断力の保たれる環境の確保にある、と考えたのは確かなようです。
 アーレントはこの判断力こそ思考に関わる文化の本質であることに触れ、古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスを引用します。

文化が示すものは、活動する人間によって政治的に確保された公共的領域が
〜その本質を発揮する空間を提供する、ということである。(トゥキュディデス)p153『カントの政治哲学の講義』


イノウエの個人事業、MachinoKidは、リサーチライブラリーと、アート作品の展示サポートを仕事にしているのですが、この調査活動と芸術活動をまたぐ活動は、まさに二つの領域をつなぐ「判断力」を共有する仕事のように思います。なので、アーレントをリスペクトしない訳にはいきません。

 年の瀬が近づいてきましたが、まだまだ話を広げられるように、来年も月一ペースでブログ続けたいと思います。(12/27updated)

 

 

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

 
アーレント政治思想集成 1――組織的な罪と普遍的な責任

アーレント政治思想集成 1――組織的な罪と普遍的な責任

 

 

パラドクスの空で眠る

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 『方丈記』(1212)の有名な一節を、改めて反芻してみると、今までと違う感覚に襲われました。そのことを今日は書いてみます。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 

 

 著者、鴨長明の、この書き出しは、世の中に常なるものはない。日本古来のいわゆる「無常観」を随筆に込めたものだと解説されます。

確かにそうなのだと思います。

 

 ですが、ふと感じることになった別の解釈をさせて貰うと、この随筆の肝は、愛情じゃないでしょうか。

 というのも、この川の流れに着目した時の長明さんの心情が、淀みに浮かぶうたかたの、その時の太陽に照らされた輝きや、移ろいゆく表情の豊かさなどの情景に基づくものだとしたら、この文は、無常を表しているというよりも躍動感や、哲学的な意味で言うところの「実存」を表していると思うからです。もっと言えば、川の情景への親しみの結果として、無常観が表現されたと思うからです。

 かく言う理由は、ここ数年、社会学にまつわる文献や両義的な語句、つまり同時に反面的な意味を含む語句(例えばLaïcitéなど)に関心を抱いていたから、かもしれません

 さらに、昨今、地域優先、現状追認、自国優先など、あまたと綴られる即物的価値を象徴するキーワード、『ポピュリズム』が跋扈していて、逆説的に好奇心を刺激されたからかもしれません。

 方丈記からは、期せずして自分の興味の要、好奇心の核を際立たせられたように思います。

 分野を跨いで、哲学の視点から、スラヴォイ・ジジェクはこう言います。

キルケゴールにとって、反復とは『反転した追憶』前方への運動、(新しいもの)の生産であり、(古いもの)の再生産ではない。("反復" - イノウエさん 好奇心 blog

 
 さらに。

カントの思想の『精神』を反復するためには、

カントの字義を裏切らなければならない。

カントの思想の核と、それを支える創造的衝動を実際に裏切ることになるのは、まさしくカントの字義に忠実であり続けるときなのだ。このパラドクスを徹底することによって、何らかの結論を引き出すべきだろう。

スラヴォイ・ジジェク、『大義を忘れるな』2010)

 

 寄り道すると、カントは平和や美の基準を徹底するために、公法や芸術の在り方に着想した人でした。なので、ジジェクは、カントの法(あるいは芸術批評)そのものに賛同するかどうかより、それらを新たに発見するような、『力』に着目する方が良い。そんな視点が、この箇所に綴られています。

 パラドクスとは、既存の字義や存在そのものの価値でなく、それを生み出した側の活力の価値という、あたかも同居しないような価値同士の矛盾を抱くこと、と解釈できそうです。

 
 最初に戻ると、『方丈記』から。 

 ぼくは、盛者必衰の比喩として投影される川そのものでなく、常に別の様相を呈して流れる川の躍動感という、愛情にも似た妙な感覚を、鴨長明から教えいただいたように思います。それは既に表面化された現実と、現実を生み出す側の価値との共存の感覚です。

 というわけで、そんなパラドクスを携えて、また頭を柔らかくしたいと思います。分野の定まらない話題で、読みにくいという方もいるかもしれないですが、、それはそれで、今日はよく眠れそうな気がします。快眠。


大義を忘れるな -革命・テロ・反資本主義-

大義を忘れるな -革命・テロ・反資本主義-