イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『人間とは何か』(1971 エリック・ホッファー)

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Stanford Univ. カフェ内の詩の掲示

今回の学習会は

『人間とは何か』
(1971 [First Things, Last Things] エリック・ホッファー 2003 訳 中川淳 河出書房新社)を取り上げました。

(米国務省に招かれたペルーの政府要人に向けて)
"…サンフランシスコは気に入ったかと尋ねてみると、かなり気に入ったが、ゴールデン・ゲート・パークには嫌悪を感じたという答えが返ってきた。なぜいたずらに自然に手を加えてしまうのか、人工の湖、人工の小川、人口の山、人工の滝、こうしたものは自然に対する冒涜である、アメリカ人は自然に対する尊敬の念を欠いており、勝手気ままに手を加えてしまう、というのであった。

 それに対して私(ホッファー)はこう答えた。「ペルーではインカ人が何世紀もかけて大変な苦闘をして築き上げたもの全てが、再び自然に奪い返されてしまった。テラス、運河、道路、橋、都市、といった素晴らしいもの全てが荒れ果ててしまった。自然があなたたちの口元からパンをかすめとっている。ペルーにとっては自然とどう取り組むかが唯一の問題だ。ペルーをゴールデン・ゲート・パークと化することこそ夢見るべきである。それなのにあなたはパリの学生時代に吹き込まれた陳腐な戯言を並べ立てて自然を讃えている。」

 …そのあとしばらくして、私は偶然に、当時ペルーの大統領であったフェルナンド・ベラウデ・テリーFerdenando Belaude Terryの演説を読んだ。道路開通式に臨んでの演説であったが、大統領はこう結んでいた。「ペルーの敵は自然である。」"P41

 この著作は、自然保護と都市開発の干渉する事例や、はたまたエリート層と労働者階級の対比を通じて、私たちが失いかけている(らしい)ある視点について論じます。

 謎めいた主張を展開しているようなホッファーの語りが随所に見られます。「現代において発見された謎の一つに、革命が革命的でない、という逆説がある。」P102 などです。

 「謎」と言及するのはご本人なので、これを大げさに思う方もいるかもしれませんが、「過去数十年間における最も革命的な変化は、非革命的な諸国に起こっている」(同項)と、ホッファーは続けます。

 このような非革命的な革命的変化とは何なのでしょうか。ふと思い出されたのは、例えば、明治維新が革命に近かったでしょうか。それまでの封建制度が一新され「万機公論に決すべし」と、民主制が標榜されました。ですが実際には、参政権は限られていますし、一部のエリートによって日本は帝国主義へと導かれた、と指摘されることもあります(雑駁で恐縮です)。見方によっては、この状況では、革命は本質的な改革を果たせなかったと、言えるかもしれません。

 一方、経済にとってはどうでしょうか。国内に資本主義が導入されました。現在、大河ドラマでおなじみの渋沢栄一氏は、フランスからサン=シモン主義を学び、国内の殖産興業に尽力しました。労働環境を整え、人々の雇用の安定化を図るなど、十分な功績を社会に残したと思われます。資本主義によってもたらされた劇的な経済的改革は、「革命的な変化」に当たるでしょうか。

 ホッファーは、渋沢栄一を直接、論じたわけではありませんが、関連する論旨に以下のような見方が提示されます。

"19世紀の初頭、サン=シモンは、工業時代の到来を「人間の管理からものの管理へ」の移行と特徴づけた。しかし、産業革命がそのコースを走破した途端に、ものの管理から人間の管理への逆転が起こることを彼は予見しえなかった。" P80

 ここでもホッファーは否定的な様子です。つまり、労働環境が改善され、雇用が充実しただけでは、足りないのです。このような視点は、世間一般の常識からは分かりにくいのではないでしょうか。

 ホッファーが「謎」と言ったり「予見しえない」と言ったりするとき、その言葉を理解する際には、上記で語られる「人間の管理」が何かを理解しなければ、変化が何かもわからないと思います。冒頭の抜粋にあるように、都市と自然が対立する際に、ホッファーは開発を否定しませんでした。それは知識人として、環境保全団体からも批判を浴びるでしょうし、奇妙に思われるかもしれません。ですが、同時にこうも言います。

“この原因は、自然が人間の外に存在するばかりでなく人間のうちにも存在することにある。都市は、人間の内なる激情、内なる原始的衝動、内なる残忍さ、つまり人間精神の暗い穴倉に巣食っている破壊的な力から、人間を解放してはいない。

…バルタサール・グラシアンの言葉がかつてなく真実味を帯びてくる「真の野獣は大多数の人間が生活しているところに存在する」” P44

 ホッファーが、自然と都市の対立を、人間の内なる自然との対立の問題と見ていることが読めると思います。さらに人間の原始的衝動とは、「刺激的なもの」や「模倣」に対応していることが論じられていきます。

 “今の若者は理想に燃えている。しかし、その理想主義は、困難と複雑さを明らかにする思想を無視してしまう ” P115

 “刹那的な充足と刹那的な解決を切望している世代が、何か永続的な価値のあるものを創造しうるかどうか、疑問である。刹那性は動物界の特徴であり、動物は何かを感知すると化学反応の素早さを持って行動を起こす。…ロバートウーリック Robert Ulichは、『ザ・ヒューマン・キャリア The Human Career』の中で、…次のように強調している。

 文明の勃興にとって、刺激と行動との間に一定の間隔を置く人間の能力ほど重要なものはない。この感覚の間に、熟慮、視野、客観性--内省的頭脳の高度な成果すべて--が生まれる」” P117

 と、ここまで引用してみると、徐々に何を言おうとしているのか、わかってくるように思います。

 ホッファーは、人間が刺激的感覚に支配されないためにどうするか、という解決の道筋を、自然をどう克服するか、という論点と重ねていることがわかります。

 すると、この人にとって「自然とどう取り組むかが唯一の問題」なのです。

 図書の後半部分では、若者や後進国に、アメリカの知識人が「模倣」を広めることへ対して、警鐘を鳴らします。ここも、上記と同様に「刹那性や刺激」が人間精神に対立したように、「模倣」も抑圧を生むものとして描かれます。論旨は一貫しており、現代を通して人間の向かう方向性を示唆すると思えるので、その点では、優れた見識だと思わされました。

 波止場で寝泊まりをする沖仲仕の時代から、劣悪な環境で過ごした経験を通して、自然の厳しさを知っているホッファーならではの、独特の視点かと思います。その生活の中で、培った彼の生命力は、また別の視点から興味が膨らみます。

 次回は、『ゴッホの手紙』(小林秀雄)を取り上げたいと思います。

 

 

 

『ことばの危機』(H30改正 学習指導要領について)

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とある高架下

【マチノキッド学習会21:終了】✨

 テーマ図書:『ことばの危機』(2020 阿部公彦 沼野充義 納富信留 大西克也 安藤宏 集英社
 参加:4名


 上記を今回の学習会のテーマ図書としました。
 2019年10月19日、東京大学の文学部のシンポジウムをもとに編纂された著書になります。
 文系学問への危機感が語られます。

(文学部の学問)は、ただちに数値化できない、奥深いところで社会の根幹を支えています。言い換えれば、「社会に役立つ」ことを皮相なレベルで捉えようとする成果主義功利主義的なあり方そのものに警鐘を鳴らしていくところに存在意義があるのだと言えましょう。

『ことばの危機』p206 安藤宏

 上記のように文系学問の存在意義が語られる一方で、政府は、学問に対する経済性を重視しているようです。例えば、以下のリンクでは、政府が「国立大学は『知識産業体』の自覚を」と呼びかけています。

異見交論 第1回 自民党税調会長 甘利明氏 国立大学は「知識産業体」の自覚を|

 
 立場の違いはありますが、それぞれの危機感に相互影響を及ぼしあっていることも想像に難くありません。

 一般的に、学問の目的は真理の追求とも言われます。経済効率など、功利的視点から論じられるべきものではありません。それが明瞭でないことは、経済的・軍事的理由によって学問の自治が脅かされてきたり、戦前の研究機関が軍事協力をしてきた歴史にも明らかです。そのために、現・憲法において、学問の自由は、不可侵であることを明記するようになったわけです。(23条)
 ですが、それでも現在にまで、学術機関と政府が干渉し合っていることは、先般の学術会議の推薦者除名問題を通して、周知の事実となりました。学問の目的が、今、見直されつつあるのかとさえ思わされます。今回の図書で描かれる切り口も、この学問の理想像に関わる問題を含んでおりました。

 具体的には、文科省中教審による学習指導要領の改正です。高校生の選択国語(現代文AB)が、H30年の改正時に、論理国語と文学国語に別れたことが批判の対象となりました。(文末に関連記事)

 論理文学を、分けることは妥当なのか?
 皆さんどう思われますか?
 
 この改正の指導要領の文言は下記の通りです。論理国語は、「多様な文章」を、「論理的に表現する」ことを目的とし、文学国語では「心情や情景」を味わい「創作に関わる能力を育成」することを目的にしている、という内容です。

高等学校学習指導要領(H30告示)

 第1章2節 「国語科改訂の趣旨及び要点」より抜粋

 

 選択科目「論理国語」

多様な文章などを多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力など」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する。

 選択科目「文学国語」

小説、随筆、詩歌、脚本などに描かれた人物の心情や情景、表現の仕方などを読み味わい評価するとともに、それらの創作に関わる能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力など」の感性・情緒の側面の力を育成する。p234

  論理文学でなく、論理的思考力文学的表現力という区別の方が、明解だと個人的には思わされます。この図書の舞台となるシンポジウムで登壇される皆さんは、文科省の方策や、センター試験の構成を問題視されます。

 教育関係者の方々や、研究者の方々が、すでに議論され、考えられてきたことを、僕らは、別の視点から後追いしているにすぎないかもしれませんが、マチノキッド学習会でもこうした点から、関連する疑問を広げ、参加者と意見交換などさせていただいております。

 どの話題も、客観情報が主観が、論理と文学と、どのように関係するのか、という視点でした。何か一つの回答があるわけではないですが、いずれにしても、考察の基盤となる情報を専門の方々が図書やオープンソースを通して提供されている事に、改めて、ありがたく思わされます。

 今回の著作は『ことばの危機』でした。

 ことばが、危機を越えたときには、それが水や空気のように後から気がつけば確かに価値があったと再発見されるような、重要な論点なのだろうとブログを書きながら思わせられます。ことばとのお付き合いは、これからも続きます!...

 選書もありがとうございました。今後も「ことばさん」よろしくおねがいします。

 

関連記事:

 

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『社会学入門』(見田宗介 2016 改訂版)

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京都 元・淳風小学校

 

【マチノキッド学習会20:終了】✨

 テーマ図書:『社会学入門』(見田宗介 改訂版2017 岩波書店
 参加:3名

 上記を今回の学習会のテーマ図書としました。
 この図書は、著者の社会学へ対する姿勢が明確で、自分にとっては著者が感じたと思われる言葉の力や想像力の広がりを、わずかだけでも追体験させてもらった(と思えた)ような一冊でした。

 前回の学習会では大澤真幸さんの図書を取り上げましたが、大澤氏が見田研究室のゼミ生だったこともあり、今回は、その師にあたる見田氏の著作です。お二人の論旨の関連にも気がつかされ、楽しむことができました。謝意を込め、以下、敬称を先生とさせて頂いています。

 本書では、見田先生の体験談や、民俗学者柳田國男氏の文献などを通して、社会全体に対する社会学の役割について言及されます。
 “一人の人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題と繋がって”おり、“アクチュアルな問題を追求していく上での「学問領域的」な障壁のほとんどない”分野が社会学の特徴、といった旨も論じられております。

少なくとも社会学という学問の問題意識においてだけは、ぼくたちは、禁欲してはいけないのです。

 話題も多岐に渡ります。旅をして得られた1人の人間の素朴な視点から、現代社会の課題を俯瞰する視点まで、一冊を通して、豊富な視点が語られます。
 先生の試みを知るための鍵の一つは、社会に生きる生活者の自由が、その人自身と社会制度との双方に息づくための社会構造への理解です。この論稿では、<交響するコミューン・の・自由な連合>という概念が導入されます。

 学習会後に気がついたのですが、本書は2017年に改訂版が発刊されています。加筆された「あとがき」にはこのような案内が、記されておりました。

 補章「交響圏とルール圏(略)」は、未来の社会を人間の喜びに満ちた生の共存する世界として構想するときの理論的な骨組みを整理したものだけれども、『入門』としては少し難解と感じられる時は、ここは省略して、将来このような問題に関心が向かわれた時に改めて手にしてもらえれば、すっきりと論旨が納得されるかと思う。

2016年12月 見田宗介

 序章と、6つの章と、補章、で本書は構成されます。『補章』は、以前、この図書を読んだ時、脳がパンクしたことを覚えています。
 
 改めて、本書の内容ですが、序章・<越境する知>では、社会学の特徴とも言える領域横断的な研究の是非について触れています。

 けれども重要なことは、「領域横断的」であると言うことではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかと言うと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である。と言う態度の結果なのです。p8

 この箇所では、日頃、感じていた研究活動のあり方について、自分なりに気がつかされるところがありました。
 明らかに、こうも読めるし、ああも読めると言う場合の論旨に対しては、その文章の論旨を精読して理解を深める必要がありますが、それはごく普通の態度ですし、アカデミックな作法も同様です。

 また、すでに共感したり納得しているような文章だったとしても、そもそも、その文面を通して、他の読み方も可能だった場合は多々あります。その場合であれば論旨に「共感」したり「引用」したり、する前に戻り、さらに論旨を精読していくことが、正しい作法です。
 読解の正誤については、客観的な判断がある程度できるので、その分野において確認されている水準に至ってもなお、査読が進められることになると思われます。なにより、その分野を突き詰めることで研究者であれば専門を深められますし、学問全体にとっての分業を進められます。

 一方、本を手に取った1人の読者は感じることに自由です。
 正確な読み方を重視するアカデミックな作法から言えば「感じる自由」がどこまで説得力を持っているかを問う事になると思います。専門分野において確証のない論旨をもとに論が進んだ場合に、その主張には慎重になるざるを得ないからです。
 明らかな誤読は訂正されるべきですが、正誤判断のできない論旨に基づいて論旨を発展させることより、もともとの論旨の背景をできるだけ正確に分析する方が、研究者の姿勢として優先される、としても不思議ではありません。
 すると、こと専門分野において、とある論旨に対して、他分野にも連想を生むような1人の人間の「感じる力」は、上記の場合には低く見積もられると、見立てられます。

 ところで、見田先生の論旨は、”近代の知のシステムは専門文化主義”であって”あちこちに「立ち入り禁止」の札”がたっていると周知するものです。それでも、ある条件のもとでは、前進することを奨励されます。
 つまり、その課題が自分にとって「誠実」である限り、最初に感じたものを消滅させず、探究を続けよと、エールを送るのです。おそらく、その時に働く主観は文献の背景や論者の主張の読解に対するものよりも、自分自身の課題に対するものだからだと思います。この点で序章の言及は、人文系学問に通じて重要だとも思わされます。

 しかし、この立ち入り禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむに止まれず境界を突破するのです。p8

 この点は、次回の学習会で取り上げる『ことばの危機』(集英社新書)を通して、また別の視点からも考えてみたいと思います。図書館司書さん、選書ありがとうございます。
 
 また、2章は、わずか18ページの中に、分野を横断するようなエピソードが語られ、人々の感じる力のようなものを丁寧に描いており、文学的にも情緒的にも瑞々しい章だと感じずにはいられません。
 個人的な思いとしては、実際に本書を手にお取り頂き、この2章だけでも目を通してもらいたい、と思うほどです。恐縮です。紫色の倫理や、魔力の話や、ベートヴェンの『歓喜の歌』の詩の内容が語られます。

 ところで、今回の学習会では、格差の構造など固定化される「軸の時代」や黙示録の話題を含む5章などにも、話題を振りたかったのですが、力届かず、でした。

 序章・2章の他、補章に重点を置きました。
 巻末に位置する『補章』では、
 現代社会が、親近感や共感でつながる共同態の性質と、社会的関係からつながる社会態の性質で形成されており、その相補的な構造が図示されたり、それぞれの生活の圏域において、人間の魂の自由がどのように関わるかを論じます。
 ちなみに以前の好奇心ブログでは、この項の関連文献にも言及させて頂いています。

 なお「魂」については、バタイユニーチェ論を引用する箇所があります。ニーチェの考えていたことや、魂のことなど、僕にはまだよくわからないことばかりですが、ただ、見田先生が繰り返し着目するこの二つの圏域については、ある程度理解を進められたように思います。

 自分にとっては難易度が高かった論旨なので、興味ある方は、参考まで眺めてみてください。中心的と思われる論旨を添付しておきます。
 
 今回の学習会も、参加いただいた方といろいろ意見交換が出来て、良い学習会となりました。ありがとうございました。

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社会学入門』
 補章

 社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった2つの発想の様式がある。
 一方は、喜びと感動に満ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実のうちに実現することを目指すものである。
 一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。これは、社会思想史の歴史的な分類ではなく、社会の思想の現在的な課題の構造である。
 社会思想史的に言うなら、そのどちらでもないようなもの、プラトンからスターリンに至る様々なイデオロギーや宗教を前提とした社会の構想史があるが、現在の我々にとって意味のある社会構想の発想の様式は、究極、この二つに集約されると言っていい。

 前者は、関係の積極的な実質を創出する課題。後者は、関係の消極的な形式を設定する課題。p172

 

 社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、今日対立するもののように現れているが、互いに相補するものとして考えておくことができる。
 一方は美しく喜びに満ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。p173

 

 現代日本の都市に住む平均的な階層の1人の人間を考えてみれば、食料を生産する国内。国外の農民たち、牧畜者たち、石油を産出する国々の労働者たち、これら幾億の他者たちの存在なしには、一つの冬を越すことも困難である。この意味で人は、幾億の他者たちを「必要としている」ということもできる。 

 けれどもこのような、生存の条件の支え手としての他者たちの必要ならば、それは他者たちの労働や能力や機能の必要ということであって、何か純粋に魔法の力のようなものによって、あるいは純粋に機械の力か自然の力などによって、それが十分に供給されることがあれば良いというものであり、この他者が他者でなければならいというものではない。つまり他の人間的な主体でなければならないというものではない。
 他者が他者として、純粋に生きていることの意味や喜びの源泉である限りの他者は、その圏域を事実的に限定されている。

 これに対して、他者の両犠牲のうち、生きるということの困難と制約の源泉としての他者の領域は、必ず社会の全域を覆うものである。

 現代のように、例えば、石油の産出国の労働者たちの仕事に我々の生が依存し、またわれわれの生の形が、フロンガスの排出等々を通して、南半球の人々の生の困難や制約をさえ帰結してしまうことのある世界にあっては、このような他者との関係のルールの構想は、国家や大陸という圏域の内部にさえ限定されることができない。例えば一国の内域的な社会の幸福を、他の大陸や、同じ大陸の他の諸地域の人びとの不幸を帰結するような仕方で構想することはできない。

 つまり我々の社会の構想の二重の課題は、関係の射程の圏域を異にしている。

 生きることの意味と喜びの源泉としての他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、生きることの相互の制約と困難の源泉でもある他者との、関係のルールの構想という課題の全域性はある。圧縮すれば、我々の社会の構想の形式は、

<関係のユートピア・間・関係のルール>

 という重層性として、いったんは定式化しておくことができる。p177 

 

 つまりわれわれの社会の理想像において、すべての他者たちは相互に

<交歓する他者>and/or <尊重する他者>

として関わる。

 関係のこの二つの基本的なモードは、我々の社会の構想が、<他者の両犠牲>のそれぞれの位相に対応する仕方である。

 *「社会の理想像」をめぐる現代の代表的な論争である「リべラリズム」対「共同体主義」の対立も、この「圏域の異なり」という視点を導入して初めて現実的に解くことができる。p179

 

 核となる論点なのであえて繰り返して展開すれば、社会のこれまでの理念史のうちの「コミューン」という名称のほとんどが強調してきた「連帯」や「結合」や「友愛」ということよりも以前に、個々人の「自由」を優先する第一義として前提し、この上に立つ交歓だけを望ましいものとして追求するということである。このことの系として、それは個人たちの同質性でなく、反対に個人たちの異質性をこそ、積極的に享受するものである。

 …われわれにとって好ましいものである限りの<コミューン>は、異質な諸個人が自由に交響するその限りにおいて、事実的に存立する関係の呼応空間である。

 このように、…個々人の異質性をこそ希求し享受するものであることを表現するために、これを<交響圏>あるいは、<交響するコミューン>と名付けておくことができる。
 <交響するコミューン>というコンセプトには、…同質化し「一体化」する共同体の理想に対する、批判の意思が込められている。p182

 

 

社会学入門-人間と社会の未来 (岩波新書)
 


===過去のブログ===

 

『コロナ時代の哲学』(大澤真幸・國分功一郎)

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Miyashita park


【マチノキッド学習会
19:終了】

テーマ図書:『コロナ時代の哲学』(2020 大澤真幸 左右社)

参加者:4

 この会は、読書会ではなく「学習会」と称しています。

 それは、過去の文人のものの捉え方や思考術に学ぶ会なので、そういう意味を込めて「学習会」としています。
 研究者は、昔の学者の、そしてその学者は、さらにまた昔の人々の言葉を引用して、知恵を繋ぎます。
 その言葉の系譜がわかるようになると、テーマ図書もグッと楽しめます。
この辺りにも学習会ではフォーカスしてます。

 また、思想書の場合は、情報というよりも問題の処方箋というか、利害調整の視点を学ぶ事に近い気がします。

 今回のトピックの一つ、イタリアの新聞に寄稿した、哲学者アガンベンの提起した問いは、新型コロナウィルス対策への批判を起点とするものでした。

 このアガンベンというおじさんは、亡くなった人々への配慮もリスペクトも感じられない政策当局に苦言を呈します。
 新聞への寄稿後には怒涛の非難を浴びました。俗にいう炎上です。「ウィルスは目に見えないのだし、ワクチンはないのだし。ただの風邪とは違うのだし」と。ほとんど老害のように思われたかもしれません。
 アガンベンはつづけて、「移動の自由」の制限にも厳しい言葉を寄稿します。

 移動の自由が、どんなに大切なのか議論されずに、規制だけが実施されていく世界は、「生存だけを価値として認める社会」でなくてなんなのか。と警鐘を鳴らしたのでした。
 図書の中で、対談の相手となる國分功一郎さん曰く「アガンベンはアブのようにぶんぶんとうるさい存在」だろう、と表現しています。これは、哲学者ソクラテス自身が語った言葉らしいです。…アブ笑

 今回の図書の中で、イタリアで話題となったこの経緯を紹介しつつ、メルケル首相のテレビ演説を紹介します。COVIT-19の猛威の振るう中、行われた異例の演説でした。

 アガンベンおじさんの警鐘が、まるで回収されるような演説内容で、下手すれば老害と思われたような苦言も、その意義を浮き立たせるかのようでした。「バランスの取れたスピーチ」と國分さんが仰ることも肯けます。

 なにより、世界各地で起こるいろいろな衝突や非難を、ないものとして扱わず、どうしたら利害を調整できるのか、その和解を実現するためには、どのような文脈を語る必要があるのかに、着目されていたのだと思います。

 現実味ある視点から、大澤さんと國分さんの対話は進行しており、良書だと思わされました。

 メルケルの演説の抜粋は、マチノキッドリサーチに掲載中。
 全文はドイツ大使館のHPから読むことができます。そちらもリンク先を掲載しているので、興味ある人はごらんください。

  なお、今回の学習会で話題となったトピックは、このブログからは溢れるほどでした。ビオスとゾーエー、そして「剥き出しの生」、剥き出しの生が、どのように公共の世界観を抱いていくのか等。著書に触れられる内容に、議論が深まりました。
 ありがとうございました。

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

 

『人間の建設』(1965 岡潔 小林秀雄)

  7月30日
 マチノキッドリサーチの学習会では、
新潮文庫『人間の建設』(2010)を取り上げました。
 数学者の岡潔(1901~1978)氏評論家の小林秀雄(1902~1983)氏との昭和40年の対談録です。

 学習会では、希望者の作成したレジュメを中心に話題を取り上げ、参加者と雑談しながら進行します。他には、こちらの関連資料も活用しました。

小林秀雄の肉声音源
・「知情意」と「真善美」が和訳された西周全集
・関連書籍・・・夏目漱石『文芸の哲学的基礎』etc.

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 『人間の建設』では、多岐に渡るエピソードが取り上げられます。
 アインシュタインベルクソンについて。
 ピカソゴッホやモネー について。
 相反する命題が両立する話など。
 なかでも、お二人が、常に気を留めた点を一つ挙げるとすれば情緒についてです。それも
自己中心的な個性と、個性の基の主観の関係で語られる情緒。
 どちらも個性に関わるもの
ですが、この違いを、お二人は峻別していきます✨

(人には)固有の色というものがある。その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものである… 『人間の建設』P14

 原始的時代が僕の記憶の中にあるのです。…もういっぺんそこにつからないと、電気がつかないことがある。あまり人為的なことをやっていますと、人間は弱るんです。弱るから、そこへ帰ろうということが起こってくる。『同書』P133

 「深いところから来る固有の色」、「人為的ではない原始の記憶」、このような語句が人の情緒を表す際に用いられており、興味深いです。 
 また、情緒に関連して、感情を土台に据えた抽象と、そうでない抽象が何なのかも語られます。

岡:

 ポアンカレの先生にエルミートという数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミートの語るや、いかなる抽象的な概念といえども、なお生けるが如くであったと言っておりますが、そう言う時は、抽象的と言う気がしない。対象の内容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。それを越えますと、内容が空疎になります。
『同書』P25
 

 哲学用語らしき語句、「超自然界の実在」と指摘がありますが、実感のある観念を意味しつつ、それ以上の意味を含むようです。
 この辺の用語はポスト構造主義以降の、思弁的実在論などと関係するでしょうか?興味深いところです。
 いずれにしても、人の主観の奥深いところの実在に、岡が触れていることがわかります。
 さらに、記憶にまつわる話は、このような言葉の中に描かれます。

小林:

 芭蕉「不易流行」という有名な言葉がありますね。徘徊には不易と流行とが両方必要だと言う。幼時を思い出さない詩人というものはいないのです、一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。『同書』P132

c.f『不易流行』蕉風俳諧の理念の一。新古を超越した落ち着きのあるものが不易,そのときどきの風尚に従って斬新さを発揮したものが流行と説かれる。不易と流行とは根元において結合すべきであるとするもの。(コトバンク) 


  過去の古典も常に流行を取り入れていたと読めそうです。何となくわかるような気もします。
 上記のような抜粋は、雑多なテーマを扱っているようで、彼らの着想は常に、主観の深いところと関係します。
 意識するかしないかの深層へ言及しますので、概念化しずらい領域についての話題になったと思いますが、世間に知られているような概念、例えば無意識美学という言葉を使用せず、印象としては、お二人の自分なりの言葉が編まれていたように思いました。

 皆さんにも、おすすめしたい一冊でした。
 みずみずしい文章に触れられるかと思います。

 

次回学習会:『コロナ時代の哲学』

www.machinokid.net

人間の建設

人間の建設

 

『それを真の名で呼ぶならば』(2020 レベッカ・ソルニット)

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 (Updated.8.1)

 レベッカ・ソルニットのいう「無邪気な冷笑=Naive cynicism」を、人は誰もが経験していると言えそうだ。なぜなら、この人がこれだけ言うのだから。
 「わからない」ことを恐れる自分が、どこかにいるはずなのだ。

 今回のマチノキッド学習会では、
レベッカ・ソルニット(1961~)著『それを真の名で呼ぶならば』(2020 岩波書店を取り上げさせていただきました。

 とあるシンクタンクの統計、社会の通説、ご意見番の主張など、それらを見聞きして、短絡的に判断をして、本来なら可能性の芽があった自分の未来を諦めてしまうことがあるのかもしれない。 

 そう思わせるような、下記の記述に目が止まりました。

 私たちは、ニュースメディアなどの社会通念の提供者たちが、過去より未来を報告したがる時代に生きている。

 彼らは世論調査をし、続いてどうなるかを報じるために誤った分析をする。黒人の大統領候補が選挙に勝つのは不可能だとか…
 私たちの方も、そうした予言を甘んじて受け入れている。彼らが最も報じたくないのは、「実際にはわからない」ということだ。『それを真の名で呼ぶならば』P66

 評論家以外の人々もまた、…非常に強い確信をもって、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する。

 こういった発言の背後にあるマインドセットを、私は「無邪気な冷笑」と呼ぶ。  

 …冷笑は、何よりもまず自分をアピールするスタイルの一種だ。

 冷笑家は、…ニュアンスや複雑さを明確な二元論に押し込もうとする…

 私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒の間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。 
『同書』 P67

 上記の、シニシズム=冷笑、に加え、さらに、自由主義社会のもと発生する「孤独のイデオロギー」や、その他の的確だと思わされる様々なコラムを通して、現代の症状に彼女は名をつけていきます。
 ますます、曖昧なこと、不確実なこと、未知なことへの関心が高まるのでした。
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*『孤独のイデオロギー』に関する引用を追加

 …物事は他の物事につながっておらず、人も他の人につながっておらず、すべては繋がっていない方が良いのだという思想が見つかる。
 彼らの核になっている価値観は、各人の自由と自己責任だ。つまり、自分は一人きりであり、自分がやりたいことは自分でやる、というものだ。
 ありとあらゆる不合理な考え方は、この「輝かしい断絶」から生まれる。この世界観に従えば、真実でさえ、セルフ・メイド・マンが自分に都合が良いように創作してもかまわない独立したものだという結論に達する。
 これが私たちが未だに保守と呼んでいる、現代のイデオロギーである。『同書』P54

孤立のイデオロギーを前進させ続けているのは極端さである…

 そして、孤立主義者は自由市場の原理主義を継続させるという真実を好む。ブッシュ時代の勝利主義の熱狂の最中に、ある匿名の上級顧問(多分カール・ローヴであろう)が、ロン・サスキンド
「我々は今、帝国である。我々が行動するとき、我々は現実を作るのだ」と語った…
 「自由」とは、自分の選択肢を制限するものが何も無くなることの言い換えにすぎない。『同書』P64

 誰でも生まれる時は医療機関に世話になり、日常生活では様々な製品やサービスの恩恵を受けているので、孤立主義者はその事実をどう捉えるのか、疑問です。が、現実は複雑です。

 とある気候変動対策運動のグループが、エルニーニョの発生と熱帯地域の紛争回数との相関関係について、プレスリリースを発表した際の話です。

 プレスリリースを受け取ったのと同じ週、エクソンモービル社が方針報告書を公表した。
 …エクソンは「我が社の全ての炭化水素鉱床は、現在も今後も「取り残される」ことはないという自信があります。我々は、これらの資源を生産するのは、全世界の増加するエネルギー需要に応えるためにも必要不可欠だと確信しています」と書いた。
 「取り残された資源」とは、地下にまだ残っている石炭、石油、天然ガスなど近未来中に採掘して燃やすことを決めないと無価値になってしまう化石燃料資源のことだ。『同書』P107 

 「世界の需要のための必要性」を強調することで、気候変動の原因を問題にせず、採掘を貫く大企業の姿勢が描かれています。アメリカのパリ条約を脱退した理由も思い出されます。

 経済性や必要性と、人命や環境保全とを、どう両立させていくか。という視点に立てば、今のコロナ禍にも視野は広がります。

 休業補償がなければ店は閉められない、という飲食店オーナーの現状も、どちらも、合意形成に必要な対策が十分に講じられていない点では通じるものがあります。
 Co2削減問題と温暖化の因果関係に専門家の意見も分かれている現状ですが、相反する立場の主張を思えば、本当に起きていることが視野に入ってくるように思います。
拙い感想となり、結論があるわけではないですが、

『それを真の名で呼ぶならば』
 読み応えのある著作でした。 

 

 それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力

 
 

 

『芸術作品の根源』(1960 マルティン・ハイデガー )

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音や騒音の殺到を聞き取るのではない…われわれは三発エンジンの飛行機を聞くのであり…我々にとってはあらゆる感覚よりも、物そのもののほうがはるかに近いのである(マルティン・ハイデッガー
 
 "われわれは芸術の本質が何かを問うている"

 平凡社『芸術作品の根源』(関口浩訳)を取り上げる。本書は、序言、本編、後記、補遺と、ハイデガーの講義を聴講していたハンス・ゲオルグ・ガダマー氏による解説、訳者の後記からなる。
 ガダマー氏によれば、本編の第一章は、時期的に、最後に書かれたものである。本書を通して論じられる幾つかの基本的な認識の類型を整理していることから、認識構造の分析論と捉えて良いと思われる。この章では、従来の認識の在り方を吟味した上で、さらに真理に関わる認識がどのようなものかに言及する。


 ハイデガーは従来の認識の仕方を、下記の類型に識別する。

 1. 物には様々な特徴があると認識する仕方
 2. 物から直接知覚できる要素のみを認識する仕方
 3. 物の形と素材といった把握作用によって認識する仕方

 3こそ、物そのものの本質、上部(形相-客観)と下部(質料-主観)に、我々を関わらせる認識なのだが、あまりに伝統的な認識であるために、結果、「通俗的にして自明なものとなってしまって」いると、ハイデガーは論じる。 
 すでに語られてきた古くからの哲学的認識のあり方を知ることで、認識を「先取り」してしまい、物の本質を遠ざけるからだ。
 本書で言及される真の認識の眼差しは、例えば、そっとしておく(auf sich beruhen lassen)ことを含むのである。
 第一部で語られた物の認識の在り方を捕捉できれば、難解と言われる本書の全体像が理解しやすくなるだろう。

 二部、三部を通して、ハイデガーは、物そのものの、本質を隠す働きに着目する。それを「伏蔵」(verborgen)という概念を用いて論じ、さらに、物そのものの本質の開かれていく性質を、「不伏蔵性」(Unverborgenheit)という概念を用いて提示していく。

 美とは真理が不伏蔵性としてその本質を発揮するひとつの仕方である

『芸術作品の根源』P88

 人の認識と物との関係、ハイデガーの言う「物性」が見えてくると、自然によって生み出された神羅万象も、人間の作った道具も、そして、創作を通して生み出された芸術も、その本質が何かを問えるようになる。
 特に芸術作品に関して、それ以外の物の性質と区別して、このように述べる。

 われわれは芸術の本質を問うている。
 我々はなぜそのように問うのか。われわれが問うのは、次のような問いをいっそう本来的に問えるようになるためである。すなわち、芸術はわれわれの歴史的な現存在の根源であるのか、否か。
『同書』P129

 この問いには、「芸術」は人間が人間であることを裏付ける根拠(根源)を持つと、期待されているのが、読み取れる。

  この省察による知は、芸術の生成にとって先駆的にして不可避的な準備なのである。

 ただそのような知のみが、作品に空間を、創作者に道を、見守るものに立場を用意するのである。

『同書』P129 

 本書で描かれる知のあり方は、物の多元的な価値に出会わせる視点を養うはずだ。自然物、道具、芸術の本質を捉える示唆に満ちているからだ。

 ハイデガーは『芸術作品の根源』を言い表すのにふさわしいと考えた、ある詩の一片を引用して、三つの章を、終える。

 ヘルダーリンはそれをこう言うことによって名づけている。

「根源の近くに住むものは、その場所を去りがたい。」

『同書』P130

 本書では、物質と認識の間で経験される考察と葛藤が描かれている。俗に言う「多様性」を論じる際に、理解を深める手がかりとなるに違いない。