イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『暴力批判論』(1994, ヴァルター・ベンヤミン )

ドラえもん公式/instagram

 

第26回MK学習会:5月31日、調布にて開催 
参加者3名

『暴力批判論』(1920, ヴォルター・ベンヤミン, 1994, 訳 野村 修, 岩波文庫

 『暴力批判論』の書かれた1920年、ドイツ共和国は前年にヴァイマル憲法が制定され、ヴァイマル共和国と呼ばれていた。この時、議会の過半数を占めたドイツ社会民主党は、そもそも暴力を背景にその座に着いた政権だったが、新政権下で暴力は禁じられた。当時の対立政党は、国民社会主義ドイツ労働者党 で、1921年に、ヒトラーが代表に就任するナチスである。この頃、ゼネストを牽引する労働組合の反政府主義いわゆる、サンディカリズムが興隆しており、議会に対して一定の勢力を持っていた。本書を読む限り、ベンヤミンは、この労働者の革命的ゼネストに関しては、どうやら否定していない節がある。

 ところで、現代の法的秩序を鑑みれば、どのような場合の暴力も許されないことを、ベンヤミンは指摘している。

現代ヨーロッパの法関係は、権利主体としての個人について言えば、場合によっては暴力をもって合目的的に追及されうる個人の自然目的を、どんな場合にも許容しないことを、特徴的な傾向としている。P34
(自然目的:生まれ持った人間の権利を守る目的)

 私たちの日常的な感覚も、どのような場合も暴力は控えるべきだと考えるのが普通だろう。しかし、例外に着目すれば、正しい目的の暴力が存在することに気がつかされる。

 例えば、強盗に襲われた時に身を守る抵抗の暴力だ。それは、正当防衛であって、正当な目的を持っている(と考えている)。一方、正しい目的の暴力があるとしても、すべての暴力が許されるわけではない。止むを得ずの暴力も、実際には程度問題に直面するからだ。

 ベンヤミンは、この暴力(行為)の限度や、適法性について、下記のように考察する。結論から言えば、適用される客観的な尺度は存在しない。

 暴力批判論では、実定法の尺度は適用されるのではなく、むしろ、もっぱら判定されるのである。そのような尺度ないし区別がそもそも可能だとすれば、暴力の本質はいったいどう言うものになるのかーー言い換えれば、そのような区別の意味は何なのかーーこれが問題なのだ。P32

 合法性と違法性の間の境界線がどのように定まるかは、『暴力批判論』の主要なテーマの一つである。現代の実定法は、主権者の目的を十分に顧慮するよりも、法の維持、あるいは権力の維持を目的とする場合も少なからずある。従って、目的そのものではなく、目的と手段の実際の関係を精緻に理解することが、ベンヤミンにとっては暴力の正当性を理解するための近道なのだ。

 暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係を描くことだ、と言って良いだろう。…まず法の概念について言えば、あらゆる法秩序の最も根底的で基本的な関係は、目的と手段との関係である。そして暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見出される。P29

 正しい目的の暴力があったとしても、手段の適法性の基準は、(明文化された)実定法の中に書き記されてはいない。この場合には、暴力の生じた情状を具に鑑みて、その行為が妥当か否かを斟酌する必要がある。(本書では「戒律」を通して示唆される)

 本書に描かれる、法と暴力の関係性に明るければ、世界中で絶え間無く続く紛争の原因や、身近に起こる衝突の、より実態に近い因果関係に着目できる。もし、目的の正しさだけを主張して、手段の妥当性を見失う時には、正義のつもりになって人に危害を加えたり、その人々の行き過ぎを指摘するための適性な判断基準を失うことになる、というわけだ。

 暴力批判論が示した言葉でよく知られる言葉に、神的暴力神話的暴力があるが、この二元論の中には、上記のような法についての力学が吟味されている。そのため、明瞭にされた出来合いの言葉を覚えるよりは、その背後の関係性に思いを巡らせる方が、ベンヤミンの主旨、『暴力批判論』の描く克明な現実を、グッと理解しやすくなるはずである。

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3回にわたって取り上げたベンヤミンでしたが、次回は彼の著作から一旦離れ、『日本人の身体』(著者:安田登さん)について、学びたいと思います。

前回の学習会

 

 



『パサージュ論 III』(2020,ヴァルター・ベンヤミン)

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2019.11_Paris


第25回MK学習会:11月26日、調布にて開催

参加者3名

 

 ヴァルター・ベンヤミンの書き留めた『パサージュ論』[DES PASSAGEN-WERK](1928~1940)は、A~Zまで異なる見出しが設けられており、各項目には、それぞれに関連する種々な引用が詳細な典拠とともに編纂されている。欠番はあるものの、当時の生活様式や風習が描かれており、本書はさながら習俗資料集である。

 一方、『パサージュ論』は、ナチスの検閲と戦禍を免れ、1982年になり独・出版社ズールカンプから発行されるまで、J.バタイユ始めとする文人たちの協力が欠かせなかった。以上の経緯は、前回の学習会からも学べたが、こうした経緯を含めパサージュ論』が単なる資料集でないことは容易に理解できる。出版に腐心した彼らの労力を通しても、ベンヤミンの記述を通しても、資料集というよりは思想書としての性格をより強く含んでいるのだが、やはりこの著作をどのように分類して良いかは、簡単に結論できないように思う。

 前回、パサージュ論の『概要』において、都市の発展と人々の葛藤について学んだが、今回取り上げる第3巻では、NとSの項目からベンヤミンの歴史概念について読解に取り組んだ。

 

『パサージュ論 III』(岩波文庫

S. 映画、ユーゲントシュティー

「歴史の残骸そのもので歴史を創造する」レミ・ド・グールモン P428 

歴史学の構成は軍隊の秩序になぞらえられる。つまりそこでは真の生が苛まれ兵舎に入れられるのだ。これに対して、挿話(アネクドーテ)とは街頭蜂起である。挿話は事態を空間的に我々の方にグッと引き寄せ、我々の生の中に立ち入らせる。一切を抽象化してしまう「感情移入」を要求する歴史学と、挿話は鋭い対象をなす。S1a,3

 上記の「歴史学」が言及する歴史とは、記録として残された歴史である。歴史の背景に消された事象は無数にあるが、存在したはずの事柄が、もし顧慮されるとすれば、その手がかりをベンヤミンは、アネクドーテに求める。
 アネクドーテとは挿話、あるいは逸話と訳される。その事実性は保証されず、史実としても残らない。歴史学とは「鋭い対象をなす」のだが、なぜアネクドーテが対象なのか、また、どのように歴史に関与するのか、そして、歴史について書かれる項目が、なぜ、ユーゲント・シュテール(仏語のアール・ヌーヴォー)の見出しを持つ、この項目に記述されるのか、理解し難い点かもしれない。

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Anecdote:
 ①小話。逸話。
 ②ブレジネフ時代のソ連で盛んになった政治諷刺小話。広辞苑 第7巻』

語源
 古代ギリシャ語 an-(否定)+ekdotos(公表した),「公にされていない話」の意..
*1

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 一方、ベンヤミン歴史観は下記のようにも読める。19世紀に到来した意匠様式であるユーゲント・シュティール(アール・ヌーヴォー)は、主に植物を題材に、自然界に見られる種々な形状を抽象化して意匠に取り込む様式をなしている。*2 この意匠は、決して歴史的様式を折衷することなく、取捨選択により大胆にモティーフを切り捨てる。残された特徴が形象に反映されるゆえ、歴史と形象と、どちらにおいても捨象されたものの痕跡が見えてくる。
 ベンヤミンの歴史概念が光をあてたのは、この捨てられた部分に対してだと見立てれば、
歴史の概念と意匠は関連してくる。関連するばかりか、レミ・ド・グールモンの「歴史の残骸そのもので歴史を創造する」という引用は、この論稿の核心のように感じさせられる。

N. 認識論に関して、進歩の理論

 唯物論的歴史叙述において構成される事象はそれ自体として弁証法的形象である。この形象は歴史的(historisch)事象と同一である。そしてこの形象は、歴史の流れの連続性から歴史的事象が偶然によってもぎ取られたことを正当化する。N10a,3

 「認識論に関して、進歩の理論」と題されたNの項目では、上記のように、弁証法的形象という言葉が用いられる。この箇所は、歴史が単に弁証法の連続によって叙述されるのではなく、意匠様式に見られるように「偶然によってもぎ取られた」ことを表明する。
 「もぎ取られた」歴史はどの程度、客観的なのか。
仮に客観性が約束されないのなら、歴史とアネクドーテとは、単に歴史に残るか残らないかの違いにすぎないのかもしれない。何れにしても、アネクドーテに関するベンヤミンの眼差しは、その矛先が「」に向けられる。

 Sの項目では、歴史は軍隊の秩序に、アネクドーテは街頭蜂起に見立てられた。アネクドーテにおいては、我々の方にグッと引き寄せ、我々の生の中に立ち入らせる」のである。
 捨てられつつある歴史をどのように捕捉するか、というベンヤミンの関心事は随所に見られる。下記の引用からは、「救い」の概念が、「風」という言葉によって言及される。

「救い」の概念について。概念という帆にあたる絶対的なものからの風(風の原理は循環である)。帆の角度は相対的なものである。N9,3 

 とある。

 ベンヤミンは、歴史と形象が遺棄する言わば"屑"のような事柄に、「街頭蜂起」のような性格を見出し、同時に、風をうける側の相対的な角度によって「救い」の概念を見出している。ベンヤミン歴史観に、相対的な「生」との結び付きが欠かせないことが見えてくる。「生きる」こととパサージュ論の試みは、隣接している。あるいは、「生」に入り込んでくる性質によって、歴史の屑が拾われる、と言う視点が見えると思う。

この仕事の方法は文学的モンタージュである。私の方から語ることは何もない。ただ見せるだけだ。価値のあるものだけを抜き取るというようなことは一切しないし、気の利いた表現を我が物にするようなこともしない。そうではなく、ぼろくずにーーそれらの目録をつくるのではなく、ただ唯一可能なやり方でそれらに正統な位置を与えたいのだ。つまり、それらを用いるというやり方で。N1a,8

 ぼろや屑を、ことさら手厚くもてなすことをしない理由が重視されるのも、それが「生」を引き込む方法だから、と見立てれば、街頭蜂起や、救いの概念といった上述の表記は、理解しやすい。そして、我々の日常の些細な出来事の中に、この視点がありありと見出される。

(略)…些細な出来事にこそ永遠に同一のものがありありと現れる、ということが示さねばならない。S1a,2

 ベンヤミン歴史観について見てきたが、上記のような仮説を、引き続き吟味しつつ、今後もパサージュ論の理解を深めていきたい。学習会では「『パサージュ論』は歴史書ではないか」という意見も出たが、それも納得感のある視点だった。

*1:Siedeno語源英和辞典』

*2:アール・ヌーヴォー | 現代美術用語辞典ver.2.0

『パサージュ論 I, IV』(2020, ヴァルター・ベンヤミン)

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2019年パリ

10月5日

参加者3名

 

 2021年2月よりNHK大河ドラマ『青天を衝け』が始まり、明治初期に活躍した渋沢栄一の勇姿を見ることができる。1867年、渋沢はパリ万博へ訪れるのだが、このパリ万博を中心とした渡仏経験によって、渋沢は日本にまだ見られない資本主義の基本的な仕組みを学んだと言われる。

 ところで当時のパリ万博そのものは、まだ生まれて間もない社会主義思想の影響を受けていた。産業によって階級の上下を問わず豊かになることを目指す社会主義の思想いわゆる、サン=シモン主義が当時のパリに浸透していたと、いくつもの資料が示している。したがって、資本主義の父とも謳われる渋沢栄一の学んだ経済思想は、実は、初期の社会主義だったということになる。

 

 今回の学習会では『パサージュ論』を2冊取り上げたが、その理由はこのサン=シモンへの好奇心があった。この人を始め、フーリエマルクスと、当時の社会主義思想家の項目が、パサージュ論4巻に用意されており、また1巻には、全5巻に渡る『パサージュ論』の全体を見渡す『概要』が用意されている。

 1巻の『概要』は欠かせないとのアドバイスも頂き、今回は思い切って2冊ともに学習会の課題図書とした。それぞれ該当箇所は各巻のうちの一部だが、おかげで緊急事態宣言での休会中の期間も、充実した時間となった。
 『概要』は、ドイツ語版と、内容の若干異なるフランス語版とがあり、扱われる題材は多岐にわたる。仏詩人ボードレールアレゴリーについて描かれ、思想家ブランキの憂鬱が描かれ、パリ万博の華やかさが描かれている。どの題材も、パリの都市計画の期待と衰退に関連して描かれており、結局は、ニーチェ永劫回帰が描かれている。この記述だけを見れば何を言ってるか見当がつかないかもしれないが、気になる方は本書を読まれることを薦めたい。

 

 著者、ヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin 1892~1940)は、ドイツ国籍のユダヤ人である。彼はナチスに追われ、若くして、ピレネー山中にて自害する。それまで、彼自身が残してきた原稿については、その安否を最後まで気に留めていたことが知られている。学習会の後に知ったことだが、亡くなる6日前にも同じドイツ国籍のユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントと会っており、自筆の草稿(『歴史の概念について』)を、彼女に託している。

 なお、これらの原稿はベンヤミンの死後も発行されないままだった。アーレントはその状況を憂慮し、自らの手で原稿を複写し、出版にまでこぎ着けており、この時の彼女の奮闘を、岩波新書ヴァルター・ベンヤミン』(柿木伸之)より、知ることができる。

 生前、ベンヤミンは、『パサージュ論』の原稿が検閲により破棄されることを恐れていた。しかし、現在、我々がこの原稿を読むことができるのは、亡命前に、フランス国立図書館の司書、ジョルジュ・バタイユによって原稿が保管されたからである。ベンヤミン交友関係にあったバタイユは依頼を受け、図書館内に原稿を隠し、当局の目から遠ざけ、さらに第二次大戦ののちに再びそれらを見つけ出し、欠番はあったものの、これらが編纂されて出版に至った。最初の『パサージュ論』が発行されたのは1982年になってのことだった。

 岩波現代文庫からは2003年に出版され、岩波文庫からは2020年に発刊され、新刊が出たのを機に、学習会でも取り上げることとなった。

 ベンヤミンの著作を、容易に購入できる我々にとっては、身に沁みるものがある。そんな『パサージュ論』である。

 

 ベンヤミンについて少し紹介させて頂くと、辞書には下記のようにある。

 ドイツの批評家。フランクフルト学派に属し、独自の美学的象徴論や寓意論を展開。ナチ時代は亡命地のパリなどでマルクス主義的芸術論や社会史研究を行う。パリ陥落後、逃亡の途上ピレネー山中で自殺。著「ドイツ悲劇の根源」「パサージュ論」など。広辞苑 第7版

 彼は寓意論を展開したことで知られる。寓意、すなわちアレゴリーになぜ着目したのか、と言う点にここでも着目したいと思う。

 ベンヤミンの頻繁に引用する仏詩人ボードレールも、このアレゴリーを好んで用いた。彼らが着目した寓意論は、おそらく『パサージュ論』を理解する上で鍵になる。鍵になるばかりか、私たちの生活に現れる美術品にも商品にもアレゴリーが結び付いており、そこに多様な相が生まれる。この良いとも悪いとも判別しにくい現実を、彼の寓意論は私たちに突きつけてくる。

 Allegory アレゴリー(=寓意)とは、言い換えれば、比喩であり、この著作では象徴と異なるものである。

アレゴリー:喩(タトエ)。比喩。諷喩。寓意。特に、18世紀以降には象徴と対比して用いられ、他の観念を一義的に示唆する記号や表現法と見なされた。広辞苑 第七版

 18世紀以降にアレゴリーは、象徴と対比して用いられた。そして、20世紀を代表する哲学者ハイデガーの記述を参考にすれば、アレゴリーは芸術作品にとって不可欠である。

…物的なものに付帯しているこの別のものが、芸術的なものを為すのである。確かに芸術作品は製造されたものであはあるが、しかしそれはさらに単なる物そのものとは何か別のもののことを言っている。すなわち、アロ・アゴレウェイ(別のものをいう(άλλο αγορεύει))である。作品は、別のもののことを公表し、別のものを明らかにする。つまり、作品とはアレゴリー(寓意)なのである。P15『芸術作品の根源』

 一方で、アレゴリーへ対する軽蔑が生じている。下記の記述を参考にしたい。

 アレゴリーというかくも精神的なジャンルを、不器用な画家たちのせいで、我々は軽蔑する習慣が身についてしまっているが、これは、まさに詩の原初的で最も自然な形態の一つであり、陶酔によって掲示される知性において、その正当な支配力を取り戻すのでる。」ボードレール『人工天国』(ボードレールの念頭にあるのが、実際にアレゴリーであって、象徴ではないということはこれに続く箇所からも疑問の余地なく明らかである。)寓意家としての蒐集家。p21『パサージュ論2』

 アレゴリーへの軽蔑はまず、美術作品に見られたと言う。宗教画は寓意的である、あるいは美術史に現れた象徴主義と言った流れもある。こと、『パサージュ論』においては、仏の諷刺画家グランヴィル(1803~1847)の寓意的表現に注目しており、この画家の洗練された寓意的表現の行くつく世界が描かれている。しかし、この画家の最後は、まがりなりにも良いものとしては記述されない。アレゴリーの両義性に我々は直面することになる。

 一方、学術的な記述にとっても、アレゴリーは忌避される傾向がある。

 アレゴリー比喩であり、なにものも証明しない。それは論証の技法としては力不足だからだ。アレゴリーによって、事物と事物を結びつける抽象概念を、別の共通項に結びつけることができる。しかし、その一連の結び付けは、だれかの主観を通してなされる。寓意による譬え話や物語は、人々に何らかの様相を示すことができる一方で、客体化された事実を明らかにできない。

 ところで、18世紀以降、アレゴリーとシンボルが区分された。仮にこの区別を、幻想に結びつく記号と、事実に結びつく記号と言う風に区分すれば、一旦は、説明がつきやすいかもしれない。が、この詳細な考察は、他の場で行いたいと思う。例えば、米の論理学者パース(1839-1914)が行った記号論の分析からも多くの知見が得られるはずだ。

 

 何れにしても重要なのは、ベンヤミンボードレールも、いっときは衰退したかに思えたアレゴリーの主観的表現そのものの価値を見直すところである。ベンヤミン「その正当な支配を取り戻す」という言葉を引用する時、アレゴリーの深みや意義を再提示している、と思えてくる。アレゴリーは商品に付加価値を与えつつ、都市に幻想を生み出すが、その一方で、この幻の中に潜む危うさも同時に露呈するからだ。

 そのようなアレゴリーの両犠牲に着目して検討される政治哲学や都市計画に着目しなければ、現代社会の重要な問題は十分には咀嚼できないと、推察せずにはいられない。少なくとも、このような現代的な役目を「アレゴリー」が請け負うと考えれば、いよいよ、ベンヤミンの仕事が現代に受け継がれた意味も理解できる。

 

 と言うわけで、今回の学習会は、意見交換を踏まえて、上記のような仮説にも思いが広がる良い時間となった。

 2003年、2020年と長い期間を経ずに出版された『パサージュ論』だが、岩波書店の思惑も気になるところだ。

 何より、ベンヤミンの知見に触れ、頭の中には、それまでなかった寓意表現への好奇心の扉が開かれた気がする。それは、好奇心の扉、あるいは、都市の発展に不可欠な散歩者への扉、かもしれない。

___

 

 余談:

 一昨日、神保町の元・岩波ブックセンターの跡地に寄ってみると、ブックカフェに変わっていた。岩波の書籍に囲まれて飲食ができる。たまには行ってみようと思う。

 また、来年1月より岩波ホールにてジョージア映画祭が開催されるとの情報も…

www.iwanami-hall.com

 

『ゴッホの手紙』(2020, 小林秀雄)

 

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高校時代に見て驚いた『星月夜』

update:文体修正 10/15

【マチノキッド学習会23:終了】

 テーマ図書:『ゴッホの手紙』(2020 小林秀雄 新潮社文庫)
 参加:3名(透明シートで隔てコロナ対策)

 今回のテーマ図書は、小林秀雄著『ゴッホの手紙』である。本書は、新潮社版『小林秀雄全集』及び『小林秀雄作品』を底本としたもので、1948~52年の『文体』や『芸術新潮』に掲載された論評や、55年~58年の朝日新聞芸術新潮文藝春秋など、多岐にわたる媒体に掲載された論稿が収録されている。なお、2017年にみすず書房より『ファン・ゴッホの手紙』が出版されたが、他に類を見ないほど膨大な告白文を残したゴッホの全書簡を、こちらの著作からも見ることができる。

 いずれにしても、近年、出版されたゴッホ関連の書籍や、ゴッホを主題とした映画の製作状況を見ると、今もなお尽きない現代人のゴッホへの関心の高さが伺える。

 

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853~1890)は、オランダ南部ズンデルトで生まれ、のちに、後期印象派を代表する画家となった。生前はほとんど認められなかったことでも知られている。

 まだ絵描きになっていない27歳の時、彼はこのような手紙を残している。

「慎重に考えた上の推定だが、僕はあと6年と10年の間くらいしか生きられない」(No.309)(『ゴッホの手紙』P24)  

 そう書き残した10年後に、本当に彼は他界する。弟テオの妻、ボンゲル夫人の回想録によれば「ロンドンで働いていた時(22歳)、ゴッホはひどい失恋を経験し、性格がまるで変わってしまった」*1そうである。

 後に、聖職者を志したゴッホだったが、下記にあるように失望している。

 「皆にあんなにしゃぶられたキリストより、ルナン(仏・宗教史家)のキリストの方がどれほど慰めになるか。恋愛だって同じことではないか…」(No.587)(同書 P147)

 26歳で聖職者への道を断念したゴッホだが、死期を予想したのが27歳であることから、その背景にはこうした挫折があったということになる。そして絵描きの道へ進む。

 いったい、どれほどの心境だったのか、我々には理解できない。小林氏は、ゴッホを「理解」するということから一旦、離れ、「もう私の注釈などの余地はないようである」(同書,P156)と書き、特にサン・レミイの診療所に移ってからは、ゴッホの書簡だけを、著作の中で並べている。

 なお、理解し難いものへ対する小林氏の視点について、この著作の中では頻繁に言及されるのだが、例えば、前半部分、「悪条件とは何か」で始まる小林氏の文章は、当時、触れることのできなかったゴッホの原画や原文に配慮されており、その切実さが下記のように語られる。

 悪条件とは何か

 文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聴き、絵は複製でみる。誰も彼もが、そうしてきたのだ、少なくとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化という軽蔑的な言葉がしばしば人の口に上る。

 もっともな言い分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるということと、僕らの喜びも悲しみもその中にしかありえなかったし、現在もまだないということとは違うのである。

  どのような事態であれ、文化の現実の事態というものは、僕等にとって問題であり課題であるより先に、僕等が生きるために、あれこれののっぴきならない形で与えられた食料である。誰しも、或る一種、名伏し難いものを糧として生きてきたのであって、翻訳文化というような一観念を食って生きてきたわけではない。

 当たり前のことだが、この方は当たり前すぎて嘘になるようなことは決してないのである。この当たり前なことを当り前に考えれば考えるほど、翻訳文化などという脆弱な言葉は、凡庸な文明批評家の脆弱な精神の中に、うまく収まっていればそれで良いとさえ思われてくる。愛情のない批判者ほど間違うものはない。現に食べている食物をなぜひたすらまずいと考えるのか…(同書、P11)

 それしかないのであれば、そこにあるものから確固たるものを受け取ろうとする、小林氏の姿勢が読みとれる。  

 原文に触れられないという悪条件と、常人では理解し難いゴッホという人間と、単に、併列に論じられないが、上記を踏まえれば、このように考えられるかもしれない。

 これらが人々の理解の届かない類の対象として見れば、不可解な存在に対するプリミティブな本能を、この著作は的確に描写しているように思える。

 本人でも到底理解のできない癲癇や発作…を、自分自身の中に持つ人間が、自画像にこだわった理由に小林氏は着目したが、ここでは、得体の知れない対象に向き合った一人の画家の姿が描かれている。

「ともかく、そういう場合のゴッホの意識、それも意識という言葉を使って良いとすればですが、その場合のゴッホの純粋な意識こそ、彼の自画像の本質的な意味を為すものでしょう。(同書, P208)」

 私たちの日常生活の中でも、不可解なものや、不条理なものに遭遇する。隣人に対してそれらを見出すかもしれない。何れにしても、名伏し難いものをどのように糧とするか。は、私たちの問題でもあるかと思う。それらを、異質なものとみなして排除するか、糧とみなすかは、後の人間の人生に大きく影響するかもしれない。読解することは社会の複雑さを生きることと同義であるとも思えてくる。

 読みやすいとは決して言えない著作だが、描かれている真摯なものへの道筋が、漠然とでも準備されているように思わされ、その点で言えば、正真正銘、良著だろう。

 最後に、1963年出版の『ゴッホの書簡全集』(みすず書房)に寄せられた小林秀雄のことばを抜粋して、次回に、繋げたいと思う。次回は、ヴァルター・ベンヤミンの著作を取り上げる。

 ゴッホの言語的表現には、全く比類を絶したものがある。手紙の終わるところから、絵が始まり、絵の終わるところから手紙が始まる。そういうより他ないもの、いわば、人間には人間を超えるあるものがある、という強い鋭い感覚を、もしゴッホの絵を愛している人々がこの書簡全集を読めば、得ることができると、私は思っている。

 小林秀雄

 

 

 

 

*1:(同書, P14)

『人間とは何か』(1971 エリック・ホッファー)

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Stanford Univ. カフェ内の詩の掲示

今回の学習会は

『人間とは何か』
(1971 [First Things, Last Things] エリック・ホッファー 2003 訳 中川淳 河出書房新社)を取り上げました。

 本作は、自然保護と都市開発の対立や、はたまたエリート層と労働者階級の対比を通じて、私たちが失いかけている、とある視点について論じられます。

 謎めいた主張を展開しているような、ホッファーの語りが随所に見られますが、例えば、「現代において発見された謎の一つに、革命が革命的でない、という逆説がある。」P102 などの主張を通して展開されます。
 「謎」と言及するのこの主張は、
「過去数十年間における最も革命的な変化は、非革命的な諸国に起こっている」(同項)と続くのですが…

 このような非革命的な革命的変化とは何なのでしょうか。

 ふと思い出されたのは、例えば、明治維新です。それまでの封建制度が一新され「万機公論に決すべし」と、民主制が標榜されつつも、現実的には一部のエリートによって日本は帝国主義へと導かれたとも言われます。見方によっては、革命は、本質的な改革を果たせていません。経済については、どうでしょうか。

 維新後、資本主義が導入されました。現在、大河ドラマで取り沙汰される渋沢栄一氏は、フランスからサン=シモン主義を学び、国内の殖産興業に尽力したと言われます。労働環境を整え、人々の雇用の安定化を図るなど社会に貢献しました。資本主義によってもたらされた劇的な経済的改革は、「革命的な変化」に当たるでしょうか。

 渋沢栄一が直面したしたサン=シモン主義について、ホッファーの言葉の中に、関連する論旨があります。

"19世紀の初頭、サン=シモンは、工業時代の到来を「人間の管理からものの管理へ」の移行と特徴づけた。しかし、産業革命がそのコースを走破した途端に、ものの管理から人間の管理への逆転が起こることを彼は予見しえなかった。" P80

 ホッファーが「謎」と言ったり「予見しえない」と言ったりするとき、その言葉を理解するためには、おそらく、上記で語られる「人間の管理」が、意味する内容を理解するのが得策に思えます。

“この原因は、自然が人間の外に存在するばかりでなく人間のうちにも存在することにある。都市は、人間の内なる激情、内なる原始的衝動、内なる残忍さ、つまり人間精神の暗い穴倉に巣食っている破壊的な力から、人間を解放してはいない。

…バルタサール・グラシアンの言葉がかつてなく真実味を帯びてくる「真の野獣は大多数の人間が生活しているところに存在する」” P44

 ホッファーが、自然と都市の対立を、人間の内なる自然との対立の問題と見ていることが読めると思います。
 さらに人間の"原始的衝動"とは、「刺激的なもの」や「模倣」に対応しているようです。

 “今の若者は理想に燃えている。しかし、その理想主義は、困難と複雑さを明らかにする思想を無視してしまう ” P115

 “刹那的な充足と刹那的な解決を切望している世代が、何か永続的な価値のあるものを創造しうるかどうか、疑問である。刹那性は動物界の特徴であり、動物は何かを感知すると化学反応の素早さを持って行動を起こす。…ロバートウーリック Robert Ulichは、『ザ・ヒューマン・キャリア The Human Career』の中で、…次のように強調している。

 文明の勃興にとって、刺激と行動との間に一定の間隔を置く人間の能力ほど重要なものはない。この感覚の間に、熟慮、視野、客観性--内省的頭脳の高度な成果すべて--が生まれる」” P117

 と、ここまで引用してみると、徐々に何を言おうとしているのか、わかってくるように思います。

 ホッファーは、人間が刺激的感覚に支配されないためにどうするか、という解決の道筋を、自然をどう克服するか、という論点と重ねていることがわかります。

 すると、この人にとって「自然とどう取り組むかが唯一の問題」なのです。

 

 波止場で寝泊まりをする沖仲仕の時代から、劣悪な環境で過ごした経験を通して、自然の厳しさを知っているホッファーならではの、独特の視点かと思います。その生活の中で、培った彼の生命力は、また別の視点から興味が膨らみます。

 次回は、『ゴッホの手紙』(小林秀雄)を取り上げたいと思います。

 

 

 

『ことばの危機』(H30改正 学習指導要領について)

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とある高架下

【マチノキッド学習会21:終了】✨

 テーマ図書:『ことばの危機』(2020 阿部公彦 沼野充義 納富信留 大西克也 安藤宏 集英社
 参加:4名


 上記を今回の学習会のテーマ図書としました。
 2019年10月19日、東京大学の文学部のシンポジウムをもとに編纂された著書になります。
 文系学問への危機感が語られます。

(文学部の学問)は、ただちに数値化できない、奥深いところで社会の根幹を支えています。言い換えれば、「社会に役立つ」ことを皮相なレベルで捉えようとする成果主義功利主義的なあり方そのものに警鐘を鳴らしていくところに存在意義があるのだと言えましょう。

『ことばの危機』p206 安藤宏

 上記のように文系学問の存在意義が語られる一方で、政府は、学問に対する経済性を重視しているようです。例えば、以下のリンクでは、政府が「国立大学は『知識産業体』の自覚を」と呼びかけています。

異見交論 第1回 自民党税調会長 甘利明氏 国立大学は「知識産業体」の自覚を|

 
 立場の違いはありますが、それぞれの危機感に相互影響を及ぼしあっていることも想像に難くありません。

 一般的に、学問の目的は真理の追求とも言われます。経済効率など、功利的視点から論じられるべきものではありません。それが明瞭でないことは、経済的・軍事的理由によって学問の自治が脅かされてきたり、戦前の研究機関が軍事協力をしてきた歴史にも明らかです。そのために、現・憲法において、学問の自由は、不可侵であることを明記するようになったわけです。(23条)
 ですが、それでも現在にまで、学術機関と政府が干渉し合っていることは、先般の学術会議の推薦者除名問題を通して、周知の事実となりました。学問の目的が、今、見直されつつあるのかとさえ思わされます。今回の図書で描かれる切り口も、この学問の理想像に関わる問題を含んでおりました。

 具体的には、文科省中教審による学習指導要領の改正です。高校生の選択国語(現代文AB)が、H30年の改正時に、論理国語と文学国語に別れたことが批判の対象となりました。(文末に関連記事)

 論理文学を、分けることは妥当なのか?
 皆さんどう思われますか?
 
 この改正の指導要領の文言は下記の通りです。論理国語は、「多様な文章」を、「論理的に表現する」ことを目的とし、文学国語では「心情や情景」を味わい「創作に関わる能力を育成」することを目的にしている、という内容です。

高等学校学習指導要領(H30告示)

 第1章2節 「国語科改訂の趣旨及び要点」より抜粋

 

 選択科目「論理国語」

多様な文章などを多面的・多角的に理解し、創造的に思考して自分の考えを形成し、論理的に表現する能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力など」の創造的・論理的思考の側面の力を育成する。

 選択科目「文学国語」

小説、随筆、詩歌、脚本などに描かれた人物の心情や情景、表現の仕方などを読み味わい評価するとともに、それらの創作に関わる能力を育成する科目として、主として「思考力・判断力・表現力など」の感性・情緒の側面の力を育成する。p234

  論理文学でなく、論理的思考力文学的表現力という区別の方が、明解だと個人的には思わされます。この図書の舞台となるシンポジウムで登壇される皆さんは、文科省の方策や、センター試験の構成を問題視されます。

 教育関係者の方々や、研究者の方々が、すでに議論され、考えられてきたことを、僕らは、別の視点から後追いしているにすぎないかもしれませんが、マチノキッド学習会でもこうした点から、関連する疑問を広げ、参加者と意見交換などさせていただいております。

 どの話題も、客観情報が主観が、論理と文学と、どのように関係するのか、という視点でした。何か一つの回答があるわけではないですが、いずれにしても、考察の基盤となる情報を専門の方々が図書やオープンソースを通して提供されている事に、改めて、ありがたく思わされます。

 今回の著作は『ことばの危機』でした。

 ことばが、危機を越えたときには、それが水や空気のように後から気がつけば確かに価値があったと再発見されるような、重要な論点なのだろうとブログを書きながら思わせられます。ことばとのお付き合いは、これからも続きます!...

 選書もありがとうございました。今後も「ことばさん」よろしくおねがいします。

 

関連記事:

 

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『社会学入門』(見田宗介 2016 改訂版)

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京都 元・淳風小学校

 

【マチノキッド学習会20:終了】✨

 テーマ図書:『社会学入門』(見田宗介 改訂版2017 岩波書店
 参加:3名

 上記を今回の学習会のテーマ図書としました。
 この図書は、著者の社会学へ対する姿勢が明確で、自分にとっては著者が感じたと思われる言葉の力や想像力の広がりを、わずかだけでも追体験させてもらった(と思えた)ような一冊でした。

 前回の学習会では大澤真幸さんの図書を取り上げましたが、大澤氏が見田研究室のゼミ生だったこともあり、今回は、その師にあたる見田氏の著作です。お二人の論旨の関連にも気がつかされ、楽しむことができました。謝意を込め、以下、敬称を先生とさせて頂いています。

 本書では、見田先生の体験談や、民俗学者柳田國男氏の文献などを通して、社会全体に対する社会学の役割について言及されます。
 “一人の人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題と繋がって”おり、“アクチュアルな問題を追求していく上での「学問領域的」な障壁のほとんどない”分野が社会学の特徴、といった旨も論じられております。

少なくとも社会学という学問の問題意識においてだけは、ぼくたちは、禁欲してはいけないのです。

 話題も多岐に渡ります。旅をして得られた1人の人間の素朴な視点から、現代社会の課題を俯瞰する視点まで、一冊を通して、豊富な視点が語られます。
 先生の試みを知るための鍵の一つは、社会に生きる生活者の自由が、その人自身と社会制度との双方に息づくための社会構造への理解です。この論稿では、<交響するコミューン・の・自由な連合>という概念が導入されます。

 学習会後に気がついたのですが、本書は2017年に改訂版が発刊されています。加筆された「あとがき」にはこのような案内が、記されておりました。

 補章「交響圏とルール圏(略)」は、未来の社会を人間の喜びに満ちた生の共存する世界として構想するときの理論的な骨組みを整理したものだけれども、『入門』としては少し難解と感じられる時は、ここは省略して、将来このような問題に関心が向かわれた時に改めて手にしてもらえれば、すっきりと論旨が納得されるかと思う。

2016年12月 見田宗介

 序章と、6つの章と、補章、で本書は構成されます。『補章』は、以前、この図書を読んだ時、脳がパンクしたことを覚えています。
 
 改めて、本書の内容ですが、序章・<越境する知>では、社会学の特徴とも言える領域横断的な研究の是非について触れています。

 けれども重要なことは、「領域横断的」であると言うことではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかと言うと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である。と言う態度の結果なのです。p8

 この箇所では、日頃、感じていた研究活動のあり方について、自分なりに気がつかされるところがありました。
 明らかに、こうも読めるし、ああも読めると言う場合の論旨に対しては、その文章の論旨を精読して理解を深める必要がありますが、それはごく普通の態度ですし、アカデミックな作法も同様です。

 また、すでに共感したり納得しているような文章だったとしても、そもそも、その文面を通して、他の読み方も可能だった場合は多々あります。その場合であれば論旨に「共感」したり「引用」したり、する前に戻り、さらに論旨を精読していくことが、正しい作法です。
 読解の正誤については、客観的な判断がある程度できるので、その分野において確認されている水準に至ってもなお、査読が進められることになると思われます。なにより、その分野を突き詰めることで研究者であれば専門を深められますし、学問全体にとっての分業を進められます。

 一方、本を手に取った1人の読者は感じることに自由です。
 正確な読み方を重視するアカデミックな作法から言えば「感じる自由」がどこまで説得力を持っているかを問う事になると思います。専門分野において確証のない論旨をもとに論が進んだ場合に、その主張には慎重になるざるを得ないからです。
 明らかな誤読は訂正されるべきですが、正誤判断のできない論旨に基づいて論旨を発展させることより、もともとの論旨の背景をできるだけ正確に分析する方が、研究者の姿勢として優先される、としても不思議ではありません。
 すると、こと専門分野において、とある論旨に対して、他分野にも連想を生むような1人の人間の「感じる力」は、上記の場合には低く見積もられると、見立てられます。

 ところで、見田先生の論旨は、”近代の知のシステムは専門文化主義”であって”あちこちに「立ち入り禁止」の札”がたっていると周知するものです。それでも、ある条件のもとでは、前進することを奨励されます。
 つまり、その課題が自分にとって「誠実」である限り、最初に感じたものを消滅させず、探究を続けよと、エールを送るのです。おそらく、その時に働く主観は文献の背景や論者の主張の読解に対するものよりも、自分自身の課題に対するものだからだと思います。この点で序章の言及は、人文系学問に通じて重要だとも思わされます。

 しかし、この立ち入り禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむに止まれず境界を突破するのです。p8

 この点は、次回の学習会で取り上げる『ことばの危機』(集英社新書)を通して、また別の視点からも考えてみたいと思います。図書館司書さん、選書ありがとうございます。
 
 また、2章は、わずか18ページの中に、分野を横断するようなエピソードが語られ、人々の感じる力のようなものを丁寧に描いており、文学的にも情緒的にも瑞々しい章だと感じずにはいられません。
 個人的な思いとしては、実際に本書を手にお取り頂き、この2章だけでも目を通してもらいたい、と思うほどです。恐縮です。紫色の倫理や、魔力の話や、ベートヴェンの『歓喜の歌』の詩の内容が語られます。

 ところで、今回の学習会では、格差の構造など固定化される「軸の時代」や黙示録の話題を含む5章などにも、話題を振りたかったのですが、力届かず、でした。

 序章・2章の他、補章に重点を置きました。
 巻末に位置する『補章』では、
 現代社会が、親近感や共感でつながる共同態の性質と、社会的関係からつながる社会態の性質で形成されており、その相補的な構造が図示されたり、それぞれの生活の圏域において、人間の魂の自由がどのように関わるかを論じます。
 ちなみに以前の好奇心ブログでは、この項の関連文献にも言及させて頂いています。

 なお「魂」については、バタイユニーチェ論を引用する箇所があります。ニーチェの考えていたことや、魂のことなど、僕にはまだよくわからないことばかりですが、ただ、見田先生が繰り返し着目するこの二つの圏域については、ある程度理解を進められたように思います。

 自分にとっては難易度が高かった論旨なので、興味ある方は、参考まで眺めてみてください。中心的と思われる論旨を添付しておきます。
 
 今回の学習会も、参加いただいた方といろいろ意見交換が出来て、良い学習会となりました。ありがとうございました。

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社会学入門』
 補章

 社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった2つの発想の様式がある。
 一方は、喜びと感動に満ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実のうちに実現することを目指すものである。
 一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。これは、社会思想史の歴史的な分類ではなく、社会の思想の現在的な課題の構造である。
 社会思想史的に言うなら、そのどちらでもないようなもの、プラトンからスターリンに至る様々なイデオロギーや宗教を前提とした社会の構想史があるが、現在の我々にとって意味のある社会構想の発想の様式は、究極、この二つに集約されると言っていい。

 前者は、関係の積極的な実質を創出する課題。後者は、関係の消極的な形式を設定する課題。p172

 

 社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、今日対立するもののように現れているが、互いに相補するものとして考えておくことができる。
 一方は美しく喜びに満ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。p173

 

 現代日本の都市に住む平均的な階層の1人の人間を考えてみれば、食料を生産する国内。国外の農民たち、牧畜者たち、石油を産出する国々の労働者たち、これら幾億の他者たちの存在なしには、一つの冬を越すことも困難である。この意味で人は、幾億の他者たちを「必要としている」ということもできる。 

 けれどもこのような、生存の条件の支え手としての他者たちの必要ならば、それは他者たちの労働や能力や機能の必要ということであって、何か純粋に魔法の力のようなものによって、あるいは純粋に機械の力か自然の力などによって、それが十分に供給されることがあれば良いというものであり、この他者が他者でなければならいというものではない。つまり他の人間的な主体でなければならないというものではない。
 他者が他者として、純粋に生きていることの意味や喜びの源泉である限りの他者は、その圏域を事実的に限定されている。

 これに対して、他者の両犠牲のうち、生きるということの困難と制約の源泉としての他者の領域は、必ず社会の全域を覆うものである。

 現代のように、例えば、石油の産出国の労働者たちの仕事に我々の生が依存し、またわれわれの生の形が、フロンガスの排出等々を通して、南半球の人々の生の困難や制約をさえ帰結してしまうことのある世界にあっては、このような他者との関係のルールの構想は、国家や大陸という圏域の内部にさえ限定されることができない。例えば一国の内域的な社会の幸福を、他の大陸や、同じ大陸の他の諸地域の人びとの不幸を帰結するような仕方で構想することはできない。

 つまり我々の社会の構想の二重の課題は、関係の射程の圏域を異にしている。

 生きることの意味と喜びの源泉としての他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、生きることの相互の制約と困難の源泉でもある他者との、関係のルールの構想という課題の全域性はある。圧縮すれば、我々の社会の構想の形式は、

<関係のユートピア・間・関係のルール>

 という重層性として、いったんは定式化しておくことができる。p177 

 

 つまりわれわれの社会の理想像において、すべての他者たちは相互に

<交歓する他者>and/or <尊重する他者>

として関わる。

 関係のこの二つの基本的なモードは、我々の社会の構想が、<他者の両犠牲>のそれぞれの位相に対応する仕方である。

 *「社会の理想像」をめぐる現代の代表的な論争である「リべラリズム」対「共同体主義」の対立も、この「圏域の異なり」という視点を導入して初めて現実的に解くことができる。p179

 

 核となる論点なのであえて繰り返して展開すれば、社会のこれまでの理念史のうちの「コミューン」という名称のほとんどが強調してきた「連帯」や「結合」や「友愛」ということよりも以前に、個々人の「自由」を優先する第一義として前提し、この上に立つ交歓だけを望ましいものとして追求するということである。このことの系として、それは個人たちの同質性でなく、反対に個人たちの異質性をこそ、積極的に享受するものである。

 …われわれにとって好ましいものである限りの<コミューン>は、異質な諸個人が自由に交響するその限りにおいて、事実的に存立する関係の呼応空間である。

 このように、…個々人の異質性をこそ希求し享受するものであることを表現するために、これを<交響圏>あるいは、<交響するコミューン>と名付けておくことができる。
 <交響するコミューン>というコンセプトには、…同質化し「一体化」する共同体の理想に対する、批判の意思が込められている。p182

 

 

社会学入門-人間と社会の未来 (岩波新書)
 


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