イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『記憶の政治』(2016, 橋本伸也)

恐怖の館(webより掲載:ハンガリー

第34回MK学習会 6月14日 
参加者4名

『記憶の政治』(橋本伸也 2016  岩波書店)を取り上げました。 

 今回の著作は、バルト三国の歴史、あるいは旧・ソ連とドイツに翻弄された東欧諸国の歴史についての文献です。選書をお願いしているIさんのご興味に委ねて、選書をお願いさせて頂きましたが本作を通じて、ほんの一部ながら執筆者、橋本伸也氏の研究に対する真摯な眼差しをうかがい知ることができました。橋本氏はバルト三国など東欧だけではなく最終的には(エピローグにて)日本に向けられた諸外国からの批判の現状も描いており、さながら『記憶の政治』と題された本書のテーマが、世界に通じる課題であることもわかるようでした。

 学習会の中では、ハンガリーの「TERRORの館」の資料をお持ち頂いたり、「犠牲者性ナショナリズム」についての資料を確認したりなど、著作以外の資料もご用意いただき効果的でした。今回は、前半と後半でレジュメの担当を変えるなどの工夫も取り入れて、進行した次第です。毎回のことながら様々意見交換をすることできました。なお、細部にわたる記録が専門書特有の読みにくさを呈しているかもしれませんが、参加者みなさま、学習会の機会のおかげか、読みこんでおられました(サスガ!)

 著作の内容については、本書は、プロローグに始まり、4つの章とエピローグで編纂されます。二つの世界大戦に挟まれた時期、いわゆる戦間期に、スターリニズムとナチズムの攻防に翻弄されるバルト三国ポーランド周辺諸国における難題が描かれます。強制移住に強いられるソ連赤軍と協力するか、あるいは敵対するナチス側の兵士と協力するかは、自国を守るための、およそ不可避な選択でした。
 ナチスに抗して奮闘した親ロシア兵は、「大祖国戦争」の英雄として賞賛され、戦後には、一転して実刑判決の対象となる兵士もおりました。エストニア国内には、赤軍兵士を称える「ブロンズの兵士」像も作られます。これを都市部から郊外へ移設することを求めた反ロシア勢力との間で、2007年に死者を伴う衝突にも発展します。*1
 一方、バルト三国ナチス側に協力した者も、ソ連ファシズムから祖国を解放する戦士として賞賛されます。この勢力も記念碑を設立しますが、数日後に当局によって撤去されます。*2
 独ソそれぞれの協力者の側から見た、記念碑の設置の是非を通してだけでも、市民の分断の歴史を伺い知ることができます。

 一方で、歴史に翻弄されないための指標が何かといった視点も、本書に通底する主題だと思われます。第4章では、ラトヴィアのとある村、マジエ・パティで起きた凄惨な事件への言及がありました。この事件についての、戦争裁判のプロセスが描かれるのですが、ラトヴィア国内の小法廷/大法廷、欧州人権裁判所の小法廷/大法廷での度重なる審理が上記の指標の問題に重なります。
 判決は二転三転しました。見方によれば、世の中の不条理が表面化されたように見えるかもしれません。ですが、法廷は淡々と正当性のありかを審理します。ここでは、専門領域で簡単に、読解できないとしても裁判官の理由づけの根拠が、詳細に描かれており、その判定の妥当性や現実性を、第三者から確認できるものとなっていると思います。
 万能ではないものの、人々の培った冷静な見解や公正な基準といった司法の視点が、希望的視点として描かれていると、私見を抱くことになりました。

 今回、学習会を通して世界情勢の現在の認識をある程度、拡張することができましたし、良い機会となりました。日本の終戦記念日、8月15日は諸外国では9月2日だということも本書から知りました。9月2日まで北方領土では紛争が続いたことも重要だと本書では指摘されます。国民に知られた方が良い歴史と、そうでない歴史と、他国でのそれとは異なるといったことも伺い知れる、第33回目の学習会となりました。選書係の方、ありがとうございました。

 ところで、先日、エストニア(のTARTU)に在住する母親の友人にハガキを手渡されたそうです。見せてもらったところ、エストニアの歴史的名所がハガキに表に描かれており、その裏面のキャプションは、なんと4ヶ国語が用いられておりました。
 1.ドイツ語、2.英語、3.エストニア語、4.ロシア語という風に。

 差出人のアイヴェさんが実家に遊びにいらしたとき、私もご挨拶させてもらったのですが、彼女の名前について、「日本語のあ行で、全部言えるね」と、母が伝えたところ、アイヴェさんが驚きつつ喜んでいたのを思い出します。その絵ハガキをこちらに掲載。ご参考まで。

AIVEさんより、場所の名称は後ほど確認します(右隅で4言語が使用されている)

*1
2007年「ブロンズの夜」
1947年にエストニア首都タリンの都市部で除幕された「ブロンズの兵士」の移設に伴い生じた争い。タリン郊外の戦没者の墓付近に移設。

*2
2000年反ロシアのエストニア兵士をモチーフにした記念碑がバルヌにて撤去され、2004年、再びリフラにて設置される。

『明暗』(1916, 夏目漱石)

第33回MK学習会 1月26日 
参加者4名

『明暗』相関図

『明暗』相関図

『明暗』(夏目漱石 1987 改版 新潮文庫)を取り上げました。 

夏目漱石の遺作です。

この作品は、複数の出版社から発刊されており、4社の文庫版を用意することができました。学習会のために購入した新潮社版を含め、他の3社の『明暗』を集めていただいたパートナーにも感謝です。おかげでそれぞれ異なる解説に触れることができました。

ところで、新潮社の改訂版は、令和4年、47刷です。解説の執筆は柄谷行人さんでした。他社と比べると、もっとも多く増刷されたのがこちらの新潮社の版で、上記の相関図の頁数もこの版を用いました。
残りの三社の版について言えば、岩波文庫の改訂版が、2010年、26刷で、解説は大江健三郎さん。
角川文庫、集英社のものが、どちらも初版で、それぞれの解説は、山城むつみさん、佐古純一郎さんでした。

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『明暗』の登場人物はほとんど誰一人、素直ではないようです。腹のうちを見せず、意地とプライドをひた隠す登場人物を中心に、親族内での葛藤が綴られます。妻・延子は、何一つ不足のない夫(津田)を持った妻として、表面的には取り繕います。実際には、お延は津田に満足してはいなかった、と語られます。
手をかえ品をかえ、登場人物は、そのまた別の登場人物に干渉します。吉川夫人は、のらりくらりと立ち振る舞う津田自身に、根本治療が必要であることを示唆します。それも、まさに余計なお世話と思われるような方法で、です。様々な歪みが随所に生じており、友人の小林の卑屈は、夫婦のそれぞれに露呈されます。
「親切なのかい、義務なのかい」と、妹・秀子に津田が問う場面がありますが、どの場面を切り取っても、エゴイスティックな断片が現れます。
漱石は、それでいて、登場人物の誰に対しても市民としての立場や、社会的な責任を担わせません。難しい哲学を語ることもありません。随所にさりげなく散りばめられた諧謔は、緊迫した文章の隙間から輝きを放つようで、漱石の筆力の高さに恐れ入りました。

しかし作品の真意は何だったのでしょう。ふと別の見え方が立ち上がりました。前回、取り上げた『文学とは何か』(加藤周一)個人主義ロマン主義の文学が普遍的な文学の要素になり得る、と語られたことを思い出します。一人の田舎娘を通して、孤独と平等の上に築かれる社会全体を語ることができると、ジャン=ジャック・ルソーの『告白』を評して語るほどでした。その加藤氏の賛ずる『明暗』は、どのように読まれたのか、思いが広がりました。

 漱石の『明暗』は一種の家庭小説であり、その家庭的紛争は明らかに日本の社会の特殊性を反映していますが、『明暗』の場合には、そのような歴史的社会的条件の特殊性が小説家の捉えた現実ではなく、人間性に普遍的な愛や憎悪やその他諸々の情念こそ小説の中の真に現実的なものだと思います。

….その本質においては歴史的社会的条件を超えるという事実を暗示している。それは、すべての人間精神がその深いところでは一致するからに違いありません。p137『文学とは何か』加藤周一

加藤氏の言わんとするところは、『明暗』では、「すべての人間精神が深いところで一致する」、というものでした。歴史的社会的条件を超える、とも語られます。条件とは、とりもなおさず、家制度や権利問題など歴史に付随する市民の社会的諸条件だろうと思います。それを超えることを、漱石は暗示している、とまで記述されます。一方、ルソーの作品では個人主義の原理に着目されます。

 ルソオ以前には、ありふれた田舎女の心の中に、人間に関する一切があると考えるものはなかった...。しかるに、ルソオは、自己の内心に一切があると考えた…p152

ありふれた人間の内心の告白に、文学的価値を認めるということは、人間をその本性・自然において、平等なものとして認めるということです。P155『同書』加藤周一

再び、メタ視点から『明暗』を振り返ります。

『明暗』では、誰の未来も、社会も、目的も、描かれません、それは先ほど書いたことに重なりますが、登場人物は、ただ、そうせざるを得ないそれぞれの事情を持っており、そうしなければ他にやりようがなかった、仕方がなかった。という差し迫る状況に置かれ、次々と詮索と駆け引きに耽ります。
作品中では、自らの世間体によって窮迫する人物や、自らの傲慢さに疲弊する人物が涙を流します。
漱石は、小林という卑屈な男を二度にわたって泣かせます。
はたから見れば過干渉にも見える人間関係の中で、もし、人が、泣くべくして泣くとしたら、読む人によっては、やりようのなさに鬱屈とするかもしれませんが、反対に、どうしても生きようとする人間の純粋さを、発見するかもしれません。

言葉巧みに人をやり込めたはずの人間が、気がついたら自分を苦しめ、生理的な衝動となって、感涙とともに自ずと本人に本音を白状させる。そのような警報機のような意識の流れが、漱石の描きたかったことならば、少なくともそこにある人間の衝突は、対等なものとして描かれたように思えます。差し迫った局面に直面させる切実さが、空間的な障害や人間関係の馴れ合いを乗り超えて、主張しあえる距離に本人を誘い出すように。
すると、過干渉に見えた対立は、実は人間の平等の裏返しなのかもしれません。ルソーの個人主義と平等が手の届きそうなところに見えてきます。

加藤氏の読み方は、そのような視点を想起させます。
一人、のらりくらり、回避を続けた津田が、決着の一歩を踏み出した時(温泉地にたどり着いた時)、ほどなくして、漱石の筆は絶たれます。その時、漱石ロマン主義が、特別な切実さを帯びたのかもしれません。

漱石がどこまで意図したのかは、わかりません...。仮に、加藤氏の視点から、この『明暗』の主人公が誰か?と問えば、おそらく登場人物の誰であるとか、人間の「エゴイズム」そのものである。といった回答ではもの足りない(と思います)。
それはむしろ、あらゆる社会制度や人権や倫理的インフラの根源にある人間の温かさや人間味である。だけでなく、もしかすると、そのさらに下に流れる特別な生理学的な情の原理を、主人公とした。とまで言わなくてはならない(と思います)。人間精神の深いところでの一致を、加藤氏は『明暗』に読み取るからです。

身勝手かもしれませんが、そのような印象が、『明暗』の感想となりました。夏目さんが聞いたら笑うかもしれませんが...

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解説に関しては、柄谷さん、山城さん、佐古さん、どれも良かったのですが、特に大江健三郎氏の語る内容に目に止まるものがあり、抜粋して終わりたいと思います。

今回は、学習会は新年会と題して簡単な食事会に行きましたが、貴重な時間をありがとうございました。今回の著作も、個人的には好みのタイプだったようです。

次回も楽しみです。

…明暗に先立つ、漱石のいくつかの講演は、近代化日本の行く末を思いつつ、たとえエゴイズムとならざるをえぬにしても、自立した原理を持って自分を生かしてゆく必要を語るものだった。この小説に書かれた親戚を含む社会関係の中で、どのように自立して生きてゆくか?愛を擁立するか?困難だが必要なその実現のために、お延は戦うことを決意した人間である。

 しかし自分が、「私」を確立することは、同じく「私」を確立している他人を認めることでなければならない。このようにして多様な「私」が自己を確立して生きる、その総体を認めよう。その総体を司るもの、つまり「天」の意思は、人間の狭いこの規模のプラス、マイナス、善悪を超えた原理かもしれないが、致し方はない。それが「則天去私」ということではないであろうか?

...彼が到達した「則天去私」という最終の思想は、決して楽観的なものではなかったにしても、根底に積極的な意思を潜めていたはずだと思うのである。p607

(解説:大江健三郎『明暗』岩波文庫

 

 

 

 

 

『文学とは何か』(1950, 加藤周一)

神代植物公園

第32回MK学習会 12月1日 
参加者4名

 『文学とは何か』(加藤周一 2014 角川ソフィア文庫)について取り上げました。

 選書理由は、これまで課題図書として文学を扱ってこなかったから、というものがありました。なぜ、文学を扱ってこなかったのか、数年前のことを振り返りました。

 学習会の開催準備をしていたころ、平和のための知識を学びたいと、個人的な思いを抱いておりました。それが、現在も選書をお願いする図書館員さんの当時の興味とも重なり、集って関連するテーマ図書を学ぶことになったように思います。関心ごとだったリベラルアーツの歴史を調べたり、参加者を募ろうかと企画したり、準備が進みました。
 いよいよ始まった学習会の第一回目は国連に関する文献を取り上げ、また第二回では戦間期について取り上げ、第三回以降は、社会学や哲学に関する著作を取り上げることになりました。

 戦争に向かう時代の教訓や、そもそも人間の本質について知識を集めたいという思いが人文学、社会学、哲学へ向かい、それが学習会の方針に繋がったのだと思います。この頃には、20代、30代に小説に親しんでいた時期とは学ぶ方針も変わっていました。過去には、ボリス・ヴィアン村上春樹ジョン・アーヴィングヘルマン・ヘッセ司馬遼太郎村上龍ボルヘスなどを遍歴したこともあったのですが...。
 そのような経緯で、(小説だけが文学ではないものの)先人の知識から学ぶ会を「学習会」と呼んだことを思い出します。

 『文学とは何か』は、加藤周一氏、31歳の1950年に執筆されたものです。書籍化は71年。さらに文庫版として2014年に発刊されたものを今回の学習会では取り上げています。執筆当時の若さも相俟って、「果敢な」記述だと、文末に添えられた解説の担当者、池澤夏樹さんは仰います。
 また、文章の流れや見出しの構成が理系ならではの整え方になっていると思わされます。ここには医学博士の経歴を持つ加藤さんの思考の「果敢な」特徴が顕れていたように思います。

 冒頭から文学が何かと、概念を規定する積極的な試みがなされます。例えば、過去の文学作品に共通する特徴をもって、文学を定義できるか、と、加藤さんは疑問を抱きます。
 その問いに対する結論は「文学が何であるか」は、「文学は何であったか」からは直接、獲得できないと言うものでした。
 ちなみに、この結論は17世紀、D.ヒュームの「帰納の問題」を知っていれば、なるほど、と頷けるものですので、今回のテーマから逸れるにしても、合わせてご紹介いたします。加藤氏の記述は、下記のようなものです。

 文芸学に関連して、どうしても指摘しておきたいと思うことが、一つあります。それは、文学とは何であったかという問題が、文学とは何であるかという問題から独立して、あらからじめ客観的にはあり得ないということです。

『文学とは何か』p18

 過去の作品に共通する特徴から、文学の定義の(客観的な)一般論は得られないと考える加藤さんの立場は本書で度々言及されます。個々の文学作品に対する歴史的評価が定かでないことも多々あります。

 19世紀末のフランスの大文学史家フェルディナン・ブリュンティエールは、その文学史のページを、マラルメのためにはほとんど割きませんでした。しかるに、最近の史家アルベール・ティボーデは、マラルメの抒情詩集一巻を十九世紀フランス文学の代表的作品の一つとしています。『同書』p19

 帰納の問題とは、抽出するデータの範囲内では整合的な推論を導けますが、そもそも出現していない対象や、評価を見落とした対象を考察に含むことはできず、データの集合から一般論や抽象解を導出できないというものです。17世紀にニュートンの自然哲学が物理世界を席巻する中、帰納的に得られたものが、自然法則であってさえも、客観性が危ぶまれることをヒュームは指摘します。さらに、推論としてより正確な方法は、前提として抽象解を掲げ、その抽象的特徴に当てはまる具体的作品を実例だと推論するものです。こちらは演繹的な推論です。

 この、帰納と演繹と、同様の思考の流れが加藤氏の記述に顕著です。はじめに掲げる抽象解を、加藤氏は美学や人間的真実として掲げます。

 従って、我々にとって文学が何であるかということは、我々にとって美が何であり、人間が何であるかといういわば文学以前の問題から切り離しては考えられません。『同書』pp38-39

 なぜ文学に美学が関わり、人間的であることを「切り離して考えられない」のか、本書ではそれほど明確でないかもしれません。急に議論が展開したと感じる読者もいると思いますが、そのような推論方法を選んでいたからとも読めます。

 わたくしはその前提に触れたのちに、文学固有だと考えられるやや特殊な問題について、すなわち、詩について、散文の文体について、また小説家の意識について書きたいと思います。そこまでが、「文学とは何であるか」という議論の例証であり、解説であり、もしそう言って良ければ展開のようなものです。『同書』p39

 明確ではないかもしれない抽象的な定義も、その条件に適う文芸作品を、文学の実例と考える思考の流れがよくわかります。どのようにして人間的であることを限定していくのかと興味が広がりますが、一つの具体的解決が下記の引用から見られます。

 ジャン=ジャック・ルソーは、彼自身の人生を告白したので、人生一般を論じたのではありません。しかし彼の「告白」が、人間の感情に関する普遍的な真理を提出しているという点で、一束の心理学的事実に劣るとは考えられないでしょう。

 統計だけが普遍的な知識を獲得する唯一の方法ではない。特殊なものをその特殊性に即して追求しながら普遍的なものにまで高めること——それこそ文学の方法であり、文学に固有の方法です。『同書』p36

 一人の人間の告白から人類に敷衍可能な一般解が導かれることに、加藤さんの文学についての希望的な基準が見え隠れします。
 ルソーの『告白』と言う作品の表現形態は、加藤氏の論じる文学の定義にとっての好例でした。さらに日本文学では夏目漱石の『明暗』...
 しかし普遍的価値への言及は、(そう主張する本人にとって)伝統や歴史的経緯に関する専門的見識が必要のように思われます。
 すると、幅広い読者の抱く「文学」という平易な語句を一掴みにして、個別から普遍への一般解とする加藤氏の結論は、いささか勇み足なのではないかとさえ思わされます。

 この日の学習会の終わり間近には「ピンとこない」と言う意見が出ましたが、当日の談話中に投げかけられる率直な視点は、興味深いです。その後、自分なりにこの点に考えを巡らせると、ふつふつと何か、湧き出る思いがありました。

 それは、加藤周一氏の語る文学は、文学のとある一面ではないかということでした。

 文学は、一人一人の読書体験に根ざすものであり、個人の思考の領域も含まれると思えるのですが、どうでしょうか。文学の哲学があるとすれば、哲学者の哲学とは異なるのではないでしょうか。美学や人間的真実、これらが示す未来の倫理的インフラのようなものを追求する哲学とは異なり、文学は、その哲学的範囲に限定されないのではないのでしょうか。
 文学は、哲学的な普遍性に関わる必要もなく、その枠を超える無限性に関する普遍性を背景に持つのではないでしょうか。

 作品が読者に寄り添う時もあり、読者の個別の体験が文脈に重なり、現実に直面する身体性や自己投影の契機にも意義がある。結論に至らないことや葛藤する読者の思考の過程のどれもが、文学の射程なのではないか。

 と、思いが広がりました。

 学習会を開始した当初、「平和のための知識」を学びたいという思いは、現実を精緻に把握するための見識だったと思われます。それは、読解力や分析力のような洞察を含むものだったように思います。
 加藤氏の論じた美学は、その哲学の系譜において真摯な主張であり、普遍的な政治思想を条件とする文学的方向性を描いたのではないかと思えます。
 それはいかにも重要で平和的構想に違いないのですが、権威とは無縁であってほしいと切に思わされます....。という思いです。

 長くなりましたが、この辺りでブログを終えたいと思います。

 今回の学習会も自分の考えを広げられ、良い時間を過ごすことができました。ご参加いただいた皆様、意見交換有り難うございました。

 次回は、夏目漱石『明暗』...

 良いお年を

 

 

 

『近代政治哲学』(2015, 國分功一郎)

 

高幡不動あじさい祭り)

 

第31回MK学習会 8月17日 
参加者4名

『近代政治哲学』(筑摩書房、2015)について取り上げました。

 このMK学習会では、選書係の方にテーマ図書を選んでいただき、参加者はテーマ図書を各々のペースで読み、当日、レジュメを読み進めながら感想を出し合います。(レジュメは本文を抜粋したもの)
 なお、今回はこのような感想が出ました。

「興奮して読みました」

「参考文献が充実している」

「授業を受けているようだった」

というものもあれば、

「大学生にとって内容が難しすぎるのでは?」

 といったものもあり様々でした。

 選書の理由は、第19回学習会『コロナ時代の哲学』(國分・大澤)で取り上げた國分さんの論旨が興味深かったこと、それに加えて「政治哲学」の入門書としても良いだろう、といったものでした。

 確かに今回は、政治哲学にまつわる西洋思想史の大枠を知ることができたと思います。この思想史を振り返れば、1648年のウェストファリア条約の締結に始まり、以降、トマス・ホッブズ(1588-1678)をはじめとする社会契約論で知られる哲学、あるいは、主権国家の正統性を付与する哲学が、学者ごとに特徴を異にすることを知りました。

 ホッブズはもともと人間が生まれた時から備わる権利、いわゆる「自然権」の放棄を社会契約の条件としたのに対し、スピノザ(1632-1677)は放棄ではなく同意によって裏付けます。さらにこの契約は、ホッブズのような一回性のものではなく、常に見直される反復的契約論(國分)だったことなど、さまざまなロジックが当時の人々を説伏したと想像します。

「国家論に関して私とホッブズとの間にどんな相違があるかとお尋ねでしたが、その相違は次の点にあります。すなわち私は自然権を常にそっくりそのまま保持させています」。(『スピノザ往復書簡』1995 岩波文庫 150頁)p80『近代政治哲学』

 上記のスピノザの言葉からわかるのは、自然権と法律の関係です。例えば、スピノザにとっては、徴税などの法律に順じなければならない社会契約は、権力者によって一方的に強いられるものではありませんでした。強制というよりも、市民は自然権を、それを保持したまま各々の役割の範囲で活用するものと考えられたからです。

スピノザ自然権の考え方からは、それぞれの個体が自らの規則や法則をうまく理解し、それを活用することで己の活動能力を増大させるという発想が導き出される。これはスピノザが主著の『エチカ』で展開した考え方である。p77『同書』

 概ね、今回の著作は、上述のように法権力の正統性について過去の哲学者の見解と変遷を辿ることで構成されています。出版年は2015年。日本の国会も混迷を極めている時期でした。それが現政権の制度設計の是非と重なり、歴史的経緯と比較されながら民主主義の望まれる姿を検討していきます。

 かくして、西洋政治思想史にとって代表的と思われる7人(ボダン、ホッブズスピノザ、ロック、ルソー、ヒューム、カント)の政治哲学が本書で扱われ、現政権に欠けている何かを模索します。例えば、憲法の正統性の根拠、行政の暴走を抑制する政治体制についてです。
 この点は、「君主に罪を問えるか?」という疑問や、「立法権と執行権を分離するにはどうすれば良いか?」という疑問に形を変えて着目されます。今の政治制度にも同旨の疑問が投げかけられる本書の中心的な話題でした。

 なお、國分さんが担っていた高崎経済大学での講義を元に、平易な文体で書かれており、興味ある方にはオススメの一冊です。

 また、モンテスキューを取り上げなかったことに気が止まりましたが、理由は、行政と立法、二つの権力の違いを明瞭にしたかったからだとイノウエは推察するところです。

 

 

 

『正統とは何か』(G.K.チェスタートン 1908, 訳 安西徹雄)

第30回MK学習会 5月19日 
参加者4名

『正統とは何か』(春秋社、1973)について取り上げました。このMK学習会は、テーマ図書を各自できる範囲で読み、当日は自由に感想を出し合います。今回、例えばこのような意見が出ました

「非常に面白かった」

「どの章も刺さった」

キリスト教に入信しそうになった」

というものもあれば、

「なかなか読み進めなかった」

「著者の批判が妥当なのか疑問だった」

「批判の相手にバーナード・ショーがいるものの、この人はノーベル文学賞まで授与された人で、残された肖像を見れば非常にイケメンです。察するに、著者は強いコンプレックスの持ち主だったのでは?」

といったものもあり、様々でした。

ところでこの図書を選んだ理由は、第28回学習会『保守と立憲』の中で、下記のG.K.チェスタトン のフレーズを引用していたからでした。著者、中島岳志さんの保守の思想は、チェスタトン の「正統」を背景に持つことがこの著作から分かります。

ところで、保守と言えば政治的立場を表す言葉ですし、本書の中で語られる正統とはキリスト教を背景に持つ言葉なので、別物のように見えます。その上、チェスタトン は本書を著した14年後にイギリス国教会からカソリックに改宗します。なので、「正統」は、キリスト教の教義に関わる専門用語に見えますが。むしろ、どの社会にも通用する特に平凡な環境で用いられる言葉であることがチェスタトン の主張です。『正統とは何か』以降、本書は保守思想の手本として脚光を浴びることとなりました。

いくつか有名なフレーズがあります。

"平凡なことは非凡なことよりも価値がある"

Ordinaly things are more valuable than extraordinary things

伝統とはあらゆる階級のうち最も陽の目を見ぬ階級、我々が祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ”

Tradition means giving votes to the most obscure of all classes, our ancestors. It is the democracy of the dead.

などです。
これらはどのような状況で語られたのか。例えば下記の文脈に現れます。

“私のいう民主主義の原則とは何かを説明しておこう。それは二つの命題に要約できる。第一はこういうことだ。つまり、あらゆる人間に共通な物事は、ある特定の人間にしか関係のない物事よりも重要だということである。平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことの方が非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間のそのものの方が個々の人間よりはるかに我々の畏怖を引き起こす。p73

例えば、教会のオルガニストになるとか、羊皮紙に細密画を描くとか、北極の探検とか(あきもせずに相変わらず後を絶たないが)、飛行機の曲乗り、あるいは、王立天文台長になることとかーーこういうことはみな民主主義とは似ても似つかぬ。というそのわけは、こういうことは、うまくやってくれるのでなければ、そもそも誰かにやってもらいたいなどとは誰も思わぬからである。民主主義に似ているものはむしろ正反対で、自分で恋文を書くとか、自分で鼻を噛むと言ったことなのだ。こういうことは、別に上手くやってくれるのでなくとも、誰も皆自分でやってもらいたいからである。p74”

現今の諸事雑事を問題にする場合、いやしくも平凡人の一致した意見を重視するのであれば、歴史や伝説を問題にする場合、いやしくもそれを無視すべき理由はない。つまり、伝統とは、選挙権の時間的拡大と定義してよろしいのである。伝統とは、あらゆる階級のうち最も陽の目を見ぬ階級、われわれが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。p76

といったようなものでした。

「平凡」というキーワードと「正統」という語句は、ほとんど同水準で語られており、興味深いです。チェスタトン のことをネットで調べれば様々な引用が検索に引っかかりますが、その多くは、『正統とは何か』からのものです。そう言う視点でも、本書を楽しめるのではないかと思います。

ちなみに本書を熟読すると、どんなメリットがあるでしょう。

平易に言えば、下記のようなメリットが得られると思いますが、あくまでもイノウエ個人の感想です。

本書を熟読すると、以前より少し寛容になります。

本書を熟読すると、以前より少し今居る場所を好きになります。

本書を熟読すると、以前より少し世の中の不条理が減ります。

本書を熟読すると、以前より少し健康になる気がします。

 

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Gilbert Keith Chesterton

1874―1936

イギリスの作家。20世紀初頭のエドワード王朝期に、小説、随筆、評論、詩、劇などの各分野に健筆を振るい、その著作は生涯に100冊を超えた。1922ローマ・カトリックに改宗。ベロックと並ぶカトリックの文筆指導者として、ショーやウェルズらと論戦を交わしたが、よき友人でもあった。彼の信仰表白は『アッシジの聖フランシス』(1922)、『永遠の人』(1925)、『聖トマス・アクィナス』(1933)などに詳しい。

これとは別に、カトリック司祭の素人(しろうと)名探偵を主人公にした推理小説の連作、たとえば『ブラウン神父の無実』(1911)などで人気を博した。詩集には『白馬のバラッド』(1911)があり、評論ではブラウニング、ディケンズビクトリア朝文学者に関するもの、とくに『文学におけるビクトリア朝』(1913)が著名。

[川崎寿彦](日本大百科全書<ニッポニカ>)

 

こちらはバーナード・ショー

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英単語の学習にもこの著作が選出されていますね

 

 

 

『エクソフォニー』(多和田葉子、2003, 2012)

 

小島町の自転車

第29回MK学習会 1月17日 
参加者4名

 

 今回も普段からのメンバーで課題図書をもとに感想ベースで意見を交わしました。
 それぞれの視点も興味深いものでしたが、このブログでは、ひとまず、本書の内容を要約します。

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 本書『エクソフォニー』は単行本(2003)と文庫本(2012)が岩波書店より発刊されており、20章で構成された第一部「母語の外へ出る」と第二部「実践編」に分かれている。"エクソフォニー"とは、母語の外に出ることを意味する。この概念が著者にとって創作活動の要であることは、出版社の解説からも伺える。

 本書の書名は耳慣れない言葉です.英語やドイツ語の辞典に掲載されているわけではありませんが,母語の外に出た状態一般を指す言葉であると言えます.このエクソフォニーという言葉は,ドイツ語と日本語の双方で旺盛な創作活動を続けてきた著者にとって,極めて重要な意味を持っています.なぜなら言語の越境とは著者の文学の本質的主題であるからです.(岩波書店HP)

 著者、多和田葉子氏は日本語とドイツ語に精通する小説家であり詩人である。翻訳文学や、言葉遊び、各国の学生と催されるワークショップなど数々のエピソードを、エッセイ形式で本書にまとめる。時には、言語だけでなく、言語の特徴に類似する音楽の性質や、詩の形象的なイメージに着目するなど、文字通り母語の外から俯瞰するように、言語にまつわる諸事情を吟味する。
 一方、記述は多和田氏本人の体験に基づいている。第一部の20の章には、世界中の都市が割り当てられており、その土地での実体験が記述される。内側からも外側からも観察される紀行文は、さながら言語能力という見えない器に、著者の意識を出し入れする「運動」のようである。
 定型の器に収まりきらない、なんらかの性質を捉える躍動的な視点が『エクソフォニー』の随所に語られる。著者の意識は、例えば、牛飼いの歌声に向けられる。

 スイスの山の中で牛飼いが牛を呼んだり、牛の乳を絞る時に「歌う」声の録音を初めて聞いた時には驚いた。生まれてから一度も西洋音楽を聞いたことのない人間が子供の時から毎日、動物とコミュニケーションするための繊細な文法だけを訓練して行ったらこんな声を出せるかもしれないと思った。今の西洋に存在する音階とは縁のない全く別の場所から発声されているのだ。p59(以下文庫版頁数)

 既存の音階という入れ物に属さない牛飼いの歌声を、多和田氏は捕捉する。
 多和田氏の職域とも言えるドイツ文学に対する眼差しも同様である。プロイセンの作家クライストの作品の森鴎外の翻訳に対しては、整理されることへの懸念に著者の意識が向かう。

 鴎外がクライストという作家を日本に早々と紹介したことは素晴らしいが、せっかく古典的バランスを揺るがす新しい言語の可能性を切り開いたクライストの文体を、鴎外の翻訳は刈り込んで形を整えてしまっている。p22

 この引用箇所は、近代化に迫られた当時の日本が背景にあるのだが、翻訳は、原作の持つ表現の軌跡を含める必要がある。原作者の文体を受け継ぐべき翻訳の仕事において、多和田氏の視点からすれば、鴎外はそれを「整えてしまっている」のだ。

 文学者にしても、一人一人の言葉にしても目の前の対象と向き合う真摯な表現は豊かであって、所与の音階や整理された文法では収まらない、といった趣旨が伺える。上手、下手、といった秤だけで判断しがちな我々は、その多義的な性質を、重宝したり育てたりする機会を失いやすい、といったことも想像に難くない。著者は「上手い下手」という評価を懸念するのだが、読み進めるうちに、読者は著者に賛同しないわけにいかないかもしれない。「世界はもっと複雑になっている」という一章で述べられる記述も示唆に富む。

 日本人が外国語と接する時には特にその言語を自分にとってどういう意味を持つものにしていきたいのかを考えないで勉強していることが多いように思う。すると、上手い、下手だけが問題になってしまう。

 『エクソフォニー』は、紀行文であるものの、内向きな体験談に留まることもない。かといって、哲学書のように概念を吟味することもない。執筆業を生業とする一人の作家のありのままの現実の、真摯な記録である、と読めるだろう。自らを泳ぐ魚に見立て、自身の肌(ウロコ)で感じたままを「書き進める」と宣言する著者の導入部分の意向を踏まえると、それも的外れではないだろう。

 かくして本書は、魚になった多和田氏の巨大な海の回遊記という風にも読めるのだが、それだけに学習会の参加者に抱かれた印象も様々だった。それが、豊かな視点に溢れる本書の特徴を裏付けていたように思う。

 皆さま有意義な時間をありがとうございました。

 

 

 

『保守と立憲』(2018, 中島岳志)

第28回MK学習会 12月6日 
参加者4名

 今回の課題図書、『保守と立憲』(2018 )は、本書のために書き下ろされた1章と3章、また、既存の媒体に掲載された過去の記事が編纂され、五つの章で構成される。概ね2011年〜2017年ごろの記事が本書に掲載されるが、雑駁には著者である中島氏の、当時の政権に対する見解と、彼の親しむ哲学的見地が折り重なるように記述されている。

 中島氏の支持する主義は「保守」である。保守主義を支持する以上、記事の掲載された当時の与党政権には批判的である。一方、世間で幅広く適用される保守政権という概念は、その呼称が実態を反映しているとは言い難い。中島氏の提言する「保守」は、グラデュアル(漸進的)な変化を必要とし、人々の声を傾聴するものである。だとすれば、「寛容=リベラル」でなければ、保守にとっては語義矛盾なのである。

 概して、安倍政権は「リベラル」の反語的意を含む「パターナル」となり、国政には、「保守」であって「リベラル」な政党が求められていることがわかる。その政治は「リベラル保守」であるのだが、かつて自民党内部の宏池会がこの系譜だったとも述べられる。この点は、以下の中島氏の作成する政局分布の第II象限に、わかりやすい。

©️Nakajima Takeshi『保守と立憲』

 ところで、歴史的な観点からすれば保守主義は、イギリスの名誉革命フランス革命を比較したエドモンド・バークによって主張されたものである。バークは、前者を保守的として賞賛し、後者の急進的手法を批判する(『フランス革命省察』)。
 以降、19世紀、社会哲学者カール・マンハイムは、政治政党の姿勢を表すものとして、より明瞭に、伝統的な保守的傾向と、政治的な保守主義を位置づけた。と、本書では述べられる。
 中島氏の立場は、何れにしても、グラデュアル(漸進的)な変化を前提とする「保守」であり、「永遠の微調整」という語彙を用いて、この姿勢を叙述する。ちなみに、歌手のUAさんはこの視点に興味を抱き、ご本人の作曲作業にも反映したと、NHKのSwitchインタビューにて語られる。

 この著作の特徴は、保守を語るときに「死者の声」について言及する点である。
 保守がいったい何を守るのか?と問えば、それは「現在の制度」を意味しない。結論から言えば、死者から受け継がれる「正統」である。例えば、本書ではそれを「平凡」という語義に関連づけている。

 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことの方が非凡なことよりもよほど非凡なのである。『正統とは何か』

G.K.チェスタトン[1874-1936]

 上記引用は、20世紀初頭のエドワード王朝期、小説、随筆、詩、劇など各分野で健筆を振るったイギリスのチェスタトンの言葉である。コトバンクより)

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 なぜ平凡が非凡なのか?
 という問いへの回答はこの著作の主題でもあるだろう。この答えは簡単には記述し難い。本書では、この視点と共に、過去の学者が気に留めた課題や、哲学的主題について、直接的、婉曲的、メタフォリカルに触れている。

 例えば、西部邁にとっての中選挙区制という選挙制度オルテガにとっての専門分化主義への懸念、イギリスにとっての憲法の歴史、ジグムンド・バウマンの描写したリキッド・モダニティにおける共同体のあり方、小林秀雄にとっての雅言、柳田國男にとっての先祖、柳宗悦にとっての民藝、親鸞における正定聚(しょうじょうしゅ)鶴見俊輔にとっての岩床、のどれもが、専門分野において傲慢にならず、打算的になり過ぎず、進歩を信奉しない「停頓の思想」、あるいは「正統」を含むのである。

 「停頓の思想」は、単なる停滞でなく保守の守るべきものであるにせよ、明瞭には言語化しにくい。それは、まるで死者によって語られると言っても言い過ぎでないような曖昧模糊な知見だと思わされる。この知見は、おそらく長い歴史によって抽出された平和と文化の基盤だろう、と想像は広がるものの、実体験が十分に追いつくことを期待したい。 

 

 今回は4名の参加となり、前回の学習会に引き続き、死者と生者の境目を想起するテーマを扱った。今回の死者についての話題も面白かった。

「生きている死者の復活が必要である」「死者は死んだ」といったパワーワードにも舌を巻いた。
 次回は多和田葉子さんの著作を扱います。