イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

2026年 京都滞在記(第26回キェルケゴール学術大会)

 

京都駅

2026年7月5日
 第26回キェルケゴール学術大会へ参加させて頂きました。今回の発表を通じて、改めてキェルケゴールの懐の深さを痛感しております。日頃、小生が抱くような疑問も、すでに180年以上前に圧倒的な水準で掘り下げられていたことに驚かされます。キェルケゴールがそれらの視点を著作として残してくれたおかげで、著名な先生方と意見交換の場に臨める、そう思うといっそう感慨深い思いがいたします。
 ところで、キェルケゴールの興味深さをご存知でいらしたら、それを知る前と比べて、おそらく世界を観察しやすくなったことだと思います。

 僕自身もわずかながら精緻な観察眼が身についてきたように思えます。キェルケゴールの着目した争点の一つは、例えば弁証法というものの功績と功罪についてです。ヘーゲルの視点であればさまざまな問いに対する回答に、再び「問い」が含まれます。その中に含まれる問いはまた別の認識として現れるので、簡易には、A(回答)に対抗するB(問い)が、認識されたものとして現れます。すると結果的に「問い」は「問いただされる」に至らず、認識も主体の閉鎖性を免れないとキェルケゴールは考えます。理路整然と議論が発展しているのに、何かがおかしい。という場合の一つ原因はこの功罪の側面かもしれません。

 弁証法という優れた思考術の陰の面を、28歳という若さで当時の学位論文にて指摘されており、驚かされます*1。

 ....冒頭から難解な話題ですいません。かといって、「続きはぜひ著作を読んでみてください」と勧めるのもためらいます。なんと言っても難解です。このブログでは、せっかくですので、キェルケゴール哲学を初学者でもわかるような大筋で紹介をさせていただきたいと思います。私自身も未熟な理解が少なからずありますから、慎重に徹したいと思います。


 デンマーク生まれのキェルケゴール(1813–1855)は、俗説や通説に一石を投じる哲学者、詩人、あるいは思想家です。人間の認識や、主体の限界や、問いの構造を、精緻に分析した一人でもありました*2。特に自己が何かを拠り所としないこと、自己が無と隣り合わせであること、自己は自己自身の運動であること、にキェルケゴールは哲学を見出します。  
 後に実存主義と呼ばれる思想の源流に位置づけられるキェルケゴールですが、そもそも実存主義というのは、世間の常識や既成の価値観に自分を委ねるのではなく、自ら主体的に生きよ、と背中を押すような思想です。キェルケゴールは加えて、人間は本質的に単独者であることを徹底して主張します。さながら「宇宙・永遠と向き合ってみてはどうか」と、読者を底知れない不安と深淵に誘います。
 不安を招く哲学者だとすれば、怪しい哲学に思えるかもしれません。ですが、キェルケゴールはこの不安を取り除く必要はないと考えます。そう考えるだけでなく、むしろ孤独や不安は、現実に向き合うために不可欠な経験だと論じます。
 キェルケゴールは原始キリスト教を好んだと懇親会の時にとある先生に伺いましたが、不安に対する絶対的な信頼は、どこから来るのでしょうか。そのような信頼を認識を超えたところに見つけ出す哲学者でもありました。しばしば、ニーチェ以上に平和的な思想家だと評されることもありますが、そのような背景があるからかもしれません。 

*1 『イロニーの概念』キルケゴール著作集20 訳 飯島宗享 福島保夫 白水社 1995年 原書 1841年
*2 分析というと哲学者カントなどを思い浮かべますが、キェルケゴールも高度な分析をされる哲学者なのですね。

 ここまでで、キェルケゴールの哲学の概要を書きました。
 今回の発表は、冒頭でふれた回答と問いの弁証法の二重の関係に焦点を当てたものでした。「問い」は、それに対する回答の中に、再び次の「問い」を含んでおり、つまるところ思索とは「反復と再帰」の関係があり、形式的には再帰的構造を抱くだろう。と発表させていただきました。枝葉末節のため、かえってわかりにくくなってしまったかもしれませんが、ご海容いただければ幸いです。

 今回の京都滞在の顛末はこちらのブログに書いていますのでよければお立ち寄りください😆

 

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2026年 京都滞在記

北野天満宮

 京都へやってまいりました。
 市内で開催されるとある人文系の学会が目的です。この学会の前身となる旧学会の創設者は大谷長先生と仰います。京都で「大谷」というと真宗大谷派を思い出す方がいるかもしれません。「大谷」と言っても野球の大谷選手ばかりではありません。聞くところによりますと大谷先生は、(色々あって大谷派と本願寺派に分岐する)浄土真宗の門首を担う一族の親族だと伺います。
 そのような背景が関係してか、2026年7月5日、浄土真宗を母体とする大谷大学にて本年度の学術大会が開催されました。この学会とは、新キェルケゴール協会です。旧学会の伝統を引き継ぎ、2000年に新しく設立されたそうです。この学会にて、微力ながら私も発表者の役目を仰せつかることになりました。
 なお、私自身、今年の五月末に父を亡くしており、今はまだ四十九日の法要を控えた中陰の期間です。生前、病床の父に、大谷大学での一般発表の採用の通知を伝えると、我が家が浄土真宗と真言宗、両宗派とご縁があることも関係するでしょうか、確かに喜んでいたように見え、背中を押された次第です。

 開催日の前日はオリーブオイル店の仕事があり、帰宅してからは定番となりつつある石井の弁当を食卓に並べ、斗楠を風呂に入れ、妻の体調を確認し、発表原稿を整え、早めに寝て出発に備えました。翌朝、妻に起こしてもらったのは想定外でしたが、品川駅に到着後、定刻の新幹線に搭乗し、無事、会場へ辿り着きました。10時半に大会が始まり、一般発表が行われ、午後のシンポジウムも学びが多く、その後、20時半から懇親会に移動です。
 斗楠の食事は19時前、入浴は20時頃です。ですので、もともと京都で外泊する予定でおりました。出発前には、「観光も楽しんでね」と送り出してくれた妻の配慮に感謝です。そう言う妻の目の奥には「おみやげ」の4文字が浮かんでおり、それを読み落とすほど、こちらの目も節穴ではありません。キェルケゴールの文章では、大事な箇所を読み落とすのは致命傷です。法哲学者のカール・シュミットが、著作『政治的神学』において大事な視点を見落としたままキェルケゴールを引用して後世の批判の対象となりました。これは去年の私の発表テーマでしたから、なおさらです。笑

 翌日、京都は雨に見舞われ、神社仏閣を探訪するには不向きな気候になりまして、朝からおみやげ獲得のために、夫が京都を奔走することになったのかどうかーーそれは、論を俟つまでもありません。

 発表の内容は、次のブログに書きましたのでよければご覧ください。なお二日目は、北野天満宮と、そこから徒歩圏内の大報恩寺だけは、訪れることができました。北野天満宮では夏川草介先生の小説でお馴染みの「長五郎餅」、大報恩寺では常慶作と言われる六観音像がそれぞれ目当てでした。20年来惹かれていた六観音ですが、帰宅後に文化庁の京都移転後、間も無く国宝へ指定されたと知り、感慨もひとしおです。

 

 

『それを真の名で呼ぶならば』(レベッカ・ソルニット、2020)

神代植物公園のもみじ


第37回MK学習会 12月5日 

 『それを真の名で呼ぶならば』(レベッカ・ソルニット2020 岩波書店)を取り上げました。冒頭からこのように始まります。

 ...昔話の分類の一つに、「謎めいた、あるいは威嚇的な援助者を、主人公が名前を知ることで打ち負かす」という型がある。遠い昔の人々は名前に強い力があることを知っていた... p1

 ところで、今年も気がつけば師走となりまして、学習会の会場の、木造の自治会館の会議室も底冷えしておりました。薬缶に火を焚べ、ガス・ストーブを灯し、エアコンの暖房を入れて準備をしていますと参加者の方々もするすると集まり、定刻通りに学習会は始まりました。課題図書『それを真の名で呼ぶならば』の最初の一ページを開いたあたりで、いつの間にか「ゲド戦記」の話になりました。

 参加者のお一人は幼少期、自分の嫌なところや何かよくわからないものを不思議に思っていたことがあったといいます。お聞きした時の漠然とした記憶ですが、続けて、「きっと誰にも少なからずあると思うのだけれど、よくわからない自分の中の何かと戦っていたような思いが小さい頃からあった。それがなんなのかわからないまま、ある時からゲド戦記を読むようになり、あ、これだと思った。物語に出てくる得体の知れない怪物は、自分の中から出てきたもので、主人公はある時、怪物に向かって自分自身の名前「ゲド!」と名付けて呼んだ。すると物語の主人公は助かるのですが、それを読んだ時に自分も助けられた思いがした。」そのような話でした。

 会議室の暖房はガスとエアコンと二つの挟み撃ちで、次第に半袖でも大丈夫なほど温まりましたが、今回の課題図書の冒頭は、この参加者さんの幼少期の話を言い当てていたように思えます。心まで温まる話です。

 ソルニットは、グリム童話のとある一つの物語に触れています。「グリム童話に登場する小人のルンペルシュティルツヒェンは、自分の真の名を当てられて激昂し、自分を引き裂いてしまう。そのおかげでヒロインは、小人の脅迫から自由になる。p2」のだそうです。

 ジブリ作品の「千と千尋」の話題も投げかけられます。千もハクも自分の名前を思い出す話だった、と参加メンバーが思い出させてくれました。本書は「ものごとに名前をつけるのは、解放の過程の第一歩だ」と続きます。昔から物語には、名前を言い当てるというスタイルがあったのです。

 今回の課題図書となる本書は、2018年にアメリカで発行された原著が渡辺由佳里さんの訳で、2020年に岩波書店から発行されたものです。記事の多くは第一期トランプ政権時(2016~2021)に書かれており、第二期トランプ政権(2025~)下の現在、まるで今を物語るような内容の新鮮さがありました。

 なお本書は、第17回の学習会でも取り上げている著作でして、この時の記録を振り返ると、第二章「アメリカに渦巻いている感情」で語られる「Naive Cinicism」(無邪気な冷笑家)に、当時、強く関心を寄せていたことがわかります。

 「無邪気な冷笑家」を改めて表せば、得体の知れない諦観の人々です。「白と黒の間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知...についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまう」(p67)人々で、この主義の信者は、あることに遺憾の意を表明しない者は、その全面的な支持者だと見なす」(p68)だけでなく、「どうせすべて腐敗している」と諦めてしまうのです(p73)。可能性を軽々に否定する態度は、実は、緻密とは言えないデータを用いて独特の説得力を持って語りかけてくる場合もあり、この人々がソルニットにとっての「無邪気な冷笑家」でした。

 そして今回の学習会では、個人的にはソルニットの指摘する「可能性」の側により関心が向かいました。例えばこのような記述を通して。

 無邪気な冷笑家は、世界よりも冷笑そのものを愛している。世界を守る代わりに、自分を守っているのだ。私は、世界をもっと愛している人々に興味がある。そして、その日ごとに話題ごとに異なる、そうした人たちの語りに興味がある。なぜなら、私たちがすることは、私たちができると信じることから始まるからだ。それは、複雑さに関心を寄せ、可能性を受け入れることから始まるのだ。p74

 ちなみに、四章に分かれる本文ですが、第四章のタイトルが「可能性」です。ソルニットの観点は、「真の名を呼ぶ」だけでなく、常に複雑さと可能性に開かれることに自覚的でした。この点も合わせて読むとソルニットの主張が立体的に見える思いが致します。もしかすると、複雑なものに思いをかけると主題も見えにくく、疲れてしまうかも知れません。参加者の皆様とこの点を共有しましたが、力がある時に複雑な問題に取り組めたら良いね。大事なのは疲れたら休憩。といった自分のペースを何より大事にする、という話しに繋がりました。複雑な問題ほど元気が出るという人もいるでしょう。人それぞれの自然のペースがあると確認した次第です。

 さて、第二章には「孤立のイデオロギー」という極端な人々の特徴が示されます。これは、西部開拓時代のカウボーイを象徴としたものでした。このイデオロギーは自己のうちに対話する人物がおりません。ドナルド・トランプの態度と重ねて論じられるのですが、カウボーイの西部劇は英雄譚としてしばしば描かれます。人気を博す映画は、先住民を支配していく国家的な暴力を隠すのに効果的だったと示唆されます。

 学習会では昔「でんこちゃん」が、某電力会社のキャラクターとして頻繁にCMに登場したことが話題になりました。そこでは"クリーン"な電力の宣伝に一役かっておりました。物事の良い一面に着目することと、背景を切り捨てることの違いや緊張関係が著作の中に描かれます。ソルニットはかく述べます。

 孤立のイデオロギーを前進させ続けているのは極端さである。社会や生態系を否定することから始めたら、最終的には事実の実在を否定することになる。煎じ詰めると、事実というのは、証拠、真実、文法、言葉の意味と言ったものに規制された言語、物理的実体、記録の間にある系統的な関係のネットワークの一部のなのだ

 事実というのは...系統的な関係のネットワークの一部、というとハイデガーの世界内存在(In-der-Welt-Sein)を思い出すのは自分だけではないと思います。

 このような立体的な視点が、複雑な状況でも希望、あるいは、しなやかな思考を生むように思いました。逆境に耐え抜く柔軟な態度、そして現実から逃避しない。そのような言語化しにくい素晴らしさが、この著作に描かれていたと思います。

 第三章「アメリカの境界」は、途絶えることのない人種差別の問題が白人警察と有色人種の間に噴出しており、様々な事案で差別される当事者は過剰に罰せられます。その実態をまざまざ見せつけられると出口の見えない暗澹たる思いに陥ります。ソルニットの執筆時には、ジョージ・フロイド事件は起こっていませんが、例えば、ニエトの死は世間の注目を集めました。ナイトクラブのセキュリティだったニエトはスタンガンを所持していましたがそれは業務上の理由でした。しかし、市民が不安に思い通報したところ、彼は白人警察に射殺されて亡くなります。

 希望を見出せない幾つもの出来事が、アメリカを象徴するように語られます。一方で、ソルニットの希望は現実を知ることと諦めないことです。その点をよく示すのはこのエピソードだったかも知れません。2025年現在も刑務所から死罪を回避するために働きかけるとある人物のエピソードが紹介されます。このブログもその件に触れて、終わりたいと思います。その人は、ジャーヴィス・ジェイ・マスターズという人物で、1986年に凶器を研いで、殺人に関与したという理由から死刑宣告を受けます。ソルニットは、この囚人に面会に行き、記事にしました。そして彼の回想録のタイトルを紹介します。

 彼の回想録のタイトルは、刑務所の構内でバスケットボールを使ってカモメを撃ち落とそうとしていた別の囚人を止めた体験から来ている。なぜ止めるのか尋ねられたマスターズは、その時に頭にひらめいたことを答えた。「あの鳥は僕の翼を持っている」。それゆえ、幼年期から成人になるまでの彼の反省を綴った、読者の心を掴み、心を動かす回想記のタイトルは『あの鳥は僕の翼を持っている(That brird Has My Wings)』になった。p156

 空を飛ぶ鳥は、マスターズにとって、死刑が確定しているにもかかわらず彼自身の中で消えない希望の象徴だったのだと思います。この心情の詳細な説明はありません。「ひらめいたことだった」と書かれるにとどまります。希望というと、聞き飽きた単語かも知れません。場合によっては、希望を失った方が楽な時さえあると思います。希望がある方がよほど苦しい、と優しい人はきっと思うと思います。そういう時、「鳥」というワードは自分には響きます。鳥は案外、蛇に卵を食べられたり、生態系上位の猛禽類に捕食されます。鳥だからと言って、自由というわけではありませんが惹かれます。あの鳥は「僕の翼を持っている」という言葉は、賢い鳥の側から見た時に、マスターズに向けても言われたセリフだっただろうと思います。

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 まだまだ書ききれない内容の著作ではありましたが、無事学習会も終わりました。終了間際には、妻と息子が訪問してくれました。今回、もしかすると参加するかも知れなかった友人に挨拶だけでも、ということだったのでしょうか。新しい参加者もお待ちしております。また次回の開催も楽しみです。

 

詳細はMachinoKid ResearchのHPへ

キェルケゴール協会 第25回学術大会

金沢駅前

 昨晩は大宮駅周辺で一泊し、早朝の新幹線でここ金沢駅まで辿り着きました。 
 金沢を訪れた理由はとある会合に参加するためだったのですが、この会には不思議なご縁があります。というのも高校を卒業してから数年を経過したある日、確か20代を迎えてから間もない頃でした。母校の都立三鷹高校の図書館の夢を見たのですが、その夢の中で私はベンチに横になり、さらにまた居眠りをしておりました。無意識の中で見る夢ですから、ハリウッド映画さながら複雑な伏線を回収するような劇的な物語に発展しても不思議ではないかもしれません。が、実際のところ単に図書館で目が覚め、書棚から一冊の本を手に取るというあっけない夢でした。内容はそれだけです。ただ手に取った本の著者が印象的だったのです。著者は「キェルケゴール」、19世紀のデンマークの哲学者です。不思議なのは、この哲学者の著作に関して当時何も知らなかったことでした。夢が覚めた後、キェルケゴール?と、疑問に思ったのを記憶しています。それ以前の記憶は、名前をうっすら聞いたことがあった程度のものでした。

 あの夢から二十数年が経ちました。この度、金沢で開催される会合は「キェルケゴール協会学術大会」です。井上は、当時まるで知らなかったキェルケゴールについて現在では、翻訳を通して最低限の理解を深めつつ、いつの間にか発表者の役目まで担わせて頂くことになりました。冒頭の縁というのは、その程度のものですが、現在になりあの夢に追いついたような思いが致します。

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 以下、雑駁ながら発表内容の報告です。 
 今回の発表内容は「Gjentagelsen」に関わります。よく読めないこの単語は、デンマーク語に特有の語義で「前方に向けて追憶する」、あるいは「未来を追憶する」という不思議な文脈を背景に抱きます。和訳では通常「反復」、英訳では「Repetition」と訳されますが、デンマーク語の語義を翻訳できてはいません。*Gjen-(再び、もう一度)tage(取る)-else(名詞語尾)

 「反復」は哲学の中で頻繁に引用されます。大学の授業ではジル・ドゥルーズの教え子、宇野邦一氏が、『差異と反復』(1968,ドゥルーズ)を紹介されたこともありました。その著作の中では、「反復があらゆる分野において発見されている」と論じられます。さて、キェルケゴールが実際にどう考えていたのかは疑問の残るところです。私なりにご本人の視点を想像しながら思いを巡らせます。果たして、ジル・ドゥルーズが示すように、日常の諸局面に「反復」は見出されるでしょうか。仮に法律の分野において「反復」が用いられるなら、それはどのような状況においてでしょうか。これらの視点が、今回の発表テーマの端緒でした。

 「反復」は、実態をつぶさに観察する力の源のようなものだと思われます。"未来に向けて追憶する"ということを、当たり前になったものを見直し、血を通わせ、生き生きとしたものとする。という意味合いだと考察して、そのように読み進めることもできます。しかしながら、キェルケゴールはさらにもう一歩踏み込んだ視座を提供します。有限と無限、地上と永遠といった対となる項目を量的な比較ではなく、質的な飛躍として捉えるのがキェルケゴールの哲学です(質的飛躍)。ここでは単に物事を生き生きと再認識するだけではない、という点がポイントです。

「反復」は、常に悲哀と隣り合わせであることが本質のように思えますし、もし法の領域で反復が働くとすれば、既存の法体系に対する圧倒的な謙虚さに直面する、と言わねばなりません。だとすれば、やはり「反復」は稀な経験であるはずです…云々。そのような内容を学会の皆様と共有しました。

 さて、金沢大学の総合教育棟で行われた発表では、15時になると西田幾多郎記念館、館長の浅見先生の講演が行われ、西田哲学とキェルケゴール哲学の関係を丁寧にお話しくださいました。貴重な経験となりました。(当日プログラム
 学会の終了後には、奇跡的にお時間をいただいた金沢大学の仲正昌樹先生と、かれこれ40分間、対面で話を聞くことができ、今回のキェルケゴールの発表に関連する、カール・シュミット、ケルゼンの関連。そして、日本の学閥についての見解をお話し頂きました。

 ところで金沢を訪れる前日、大学時代にお世話になった立花隆氏の事務所に、ご連絡させていただき、ゼミ生としての経歴を研究者サイトに登録して良いか尋ねたところ、ご承諾を頂いており、今回の発表では立花隆ゼミの看板を背負わせていただいた次第です。夕方の懇親会では、金沢大学の教員のお一人が、立花氏を慕われていたことをお話しくださいました。私にとっては偶然のタイミングでした。懇親会の最後には大阪教育大学の桝形公也先生からも丁寧なご指導をいただき、発表者兼司会の南コニー先生、森田美芽先生、ともにお世話になりました。今回の金沢大学での発表も晴れて収穫の多い会となりました。

 ありがとうございました。

金沢キャンパス中央バス停

 

 

『法の近代』(嘉戸一将, 2023)

多摩中央公園

第36回 MK学習会

今回の学習会では嘉戸一将さんの『法の近代』--権力と暴力をわかつもの-- を取り上げました。MK学習会は、課題図書を決め(選書係さんに候補を選んでいただき)、各自、可能な範囲で読み進め、学習会の場で自由に意見交換をします。ひとり読みでは着目しなかった意外な点が往々にして当日の話題となるもので、そのような面白みがあります。今回の課題図書『法の近代』は、明瞭な主題が設定されており、課題を共有するには、絶好の図書だったと思います。ですが、派生する議論は数多とあり、答えの出ない問答が蓄積されて解消しない。そのような印象を個人的に抱きました。本書の主題とは、たった一つの明確なテーマです。

「何によって権力と暴力は区別されるの」か。p2

この問いが、二ページ目に述べられる本書の主題です。
以降、多岐にわたりこの文意が、嘉戸氏により、パラフレーズされます。

憲法を誰が決めるのか」という問いこそが19世紀以降の法と国家の根本である。p11

「権力と暴力の峻別は可能か」p15

「言い換えれば、政府と盗賊を分つものに関する問いが…『ボダンからケルゼンまで』を揺り動かしてきた」p27

「政府と盗賊を分つものが何か」と、いささか物騒な視点が投じられますが、この問いは考察を深めれば深めるほど難問でして、蓋し、正鵠を得た問題提起に思えます。本書はこの点を詳細に語ります。

先の問い、「何が政府と盗賊を区別するのか?」に対するケルゼンの答えとは、次のようなものだ。すなわち、その主体の行為に、当為としての「客観的意味」があるか否かである。人が金を差し出すことを強制されることが、納税であると判断されるか、強盗であると判断されるか、あるいは人が命を奪われることを、死刑執行であると判断されるか、殺人であると判断されるかは、それを強制した主体以外の人々にとって、その主体が権限を有しているか否かによるのである。p37

本書では、ハンス・ケルゼン(1881〜1973)の法哲学に焦点が当てられます。具体的には、法の正当性が、法を強制する主体それ自身ではなく、主体以外の人々にとって客観的意味を有するところにある、といった趣旨のものです。「当為」というのは「為して然るべし」というカント哲学で言うところの実践行為なのですが、多数決原理を採用する議会制民主主義の問題に対して、ケルゼンからすれば、(当然)下記のような点に言及せざるを得ません。

 国民としての意思決定には、多数決原理を機能させるための条件が要請される。即ち、同質性である。というのも、多数派と少数派との対立の深刻化は、時に国家としての単一性の瓦解をもたらしかねない…p131

多数決は、少数派を議論の場から退けてしまいます。それが国家としての一体性(単一性)を危ぶむものと考えられたのです。

そのためケルゼンは、多民族国家においては、少なくとも民族的文化問題は、中央議会の所管とはせずに、各民族団体の代表機関に委ねられるべきだという。p131

なるほど多民族国家を取り巻くこの状況からすれば、各民族の代表によって議決を行使する代表機関は設立されて然るべき。とケルゼンが考えたのがわかります。

一方、同時代の政治哲学者、カール・シュミット(1888-1985)の主張は、議会制度そのものへ向かいます。

...シュミットが言わんとするのは、議会制の危機である。即ちブルジョワ市民層の教養に基づく自由な討議によって意思決定するシステムは、大衆民主主義には合致しない、と。P135

嘉戸氏の解説によれば、シュミットは討議の場が、ブルジョワ市民によって、いわば牛耳られる、と考えていた、というのがわかります。したがって代議員に、議論を委ねるよりも、むしろ大衆に支持される神話を重視した、というのです。

シュミットは、大衆が自らの信じる世界観のために殉ずることをも厭わず、暴力行使へと駆り立てる「神話」に、大衆民主主義の原動力を見出すのである。ブルジョワジーの「金権政治」に堕した議会主義を脱し、民主主義へ導くのは、ゼネストへの信仰に見られる大衆の「神話」である、と。p136

神話、物語、あるいはフィクションに法秩序の正当性を見出すのは、シュミットを始め、歴史のさまざまな局面に垣間見ることができます。

人が「獣性=暴力性(brutalite)を脱して秩序を形成するには、「フィクションの力」が必要である。p136

例えば、三木清『構想力の論理、第一』(1939)が、ソレルの「神話」やヴァレリーの「フィクション」に基づいて、記紀神話に代わる神話・フィクションに準拠する秩序の再創造を主張しているように、こうした神話論やフィクション論は、法秩序の論理に属している。pp136-137

このような趣旨を読解すれば、権力と暴力を区別するものは、万人が承認できるような、優れた「フィクション」であり、その物語を、法の根底に有しているのかどうか。ということになりそうです。

なお、学習会当日は、コロナ禍のドイツの首相、アンゲラ・メルケル氏の演説に話題が及びました。この時の演説は、第19回MK学習会『コロナ時代の哲学』で取り上げたものでした。
緊急事態の只中で、人々は移動の自由が制限されました。賛否はあるにせよ、急を要する感染防止法を受け入れてもらうため、政府は、国民にメッセージを投げかけ、一連の法的根拠の共有に成功したように見えます。こうした事例から、法の正当性は、権力そのものにあるというよりも、権力者の提示する物語にある、と結論されてもよい文脈が垣間見えるのですが、嘉戸氏の本意は少し異なります。
本書の序文の段階で、カール・マルクスの以下のような論旨が紹介されます。

 例えば、カールマルクスが、歴史は繰り返すこと、そして一度目は悲劇として現れ、二度目は茶番として現れることを指摘している。そのとき、同時に彼が言っていたのは、革命的な法秩序の創造が、人間の意のままになされるのではなく、フランス革命の担い手たちがローマの英雄たちを演じることで創造を遂げたように、新たな法秩序の創造において、「過去の亡霊」を呼び出すことで「由緒ある紛争と借物のセリフで世界史の新しい場面を演じようとする」ことが不可欠であるということだった。

おそらく、カールシュミットなら、騒乱の無垢で実存的な「決断」を見出しただろう場面に、マルクスは「茶番」を見出していたのである。pp19-20

この点だけに着目すれば、法の正当性というものは幻想にすぎないと言わざるを得ないのです。その視座は、第三章の小見出しがそのまま「茶番としての危機」と題されるところにも顕著です。さて、嘉戸氏の結論はどのようなものでしょうか?嘉戸氏は、国内の思想史に着目します。そして、結論から申し上げれば、「無」についての議論に集約します。

二章にて話題は国内に向けられます。明治憲法憲法義解の、とある議論から以下のような点が示されます。

「シラス」とは、憲法発布の五日後におこなわれた井上毅の講演によると、天皇の理性の働きである。すなわち、「シラス」は「知らす」と表記される言葉で、「知る」の尊敬表現であり、本来、天皇が支配する様態を指している、と井上はいう。井上によると支配を意味する古語には、この「シラス」と「ウシハク」とがあり、後者が豪族の実力行使によって人民と土地とを私有化することを指すのに対して、前者はあくまでも天皇の理性によって秩序を実現することを指す。P85

さらに、「シラス」、「鏡」、「無」の関係が語られます。

「シラス」について論じた講演で井上毅は、「知る」という言葉が、「鏡のものを映す如く」物事を知り明らかになる「心持」を意味すると言っている。つまり、たとえ「シラス」という動詞が天皇に聖別された言葉であったとしても、それは天皇が能動的に物事を明らかにすることを意味するのではなく、それとは反対に、ただ受動的に物事を映し出す「鏡」のような「心持」、境涯を意味するのである。… 重要なのは、「鏡」を通して、あたかも<絶対者>が要求しているかのように演出することなのである。その意味において、<絶対者>そのものは何者でもない。<絶対者>とは無なのである。P115

日本の神話が「鏡」など重宝した歴史を踏まえ、上記のフィクションの延長において着目されるのは最終章へ続く「無」についての議論です。

しかし、この<無>は鏡のようにして至高性=主権を映し出す。これが主権論の論理であり、...主権とは実体のあるものではなく、機能としてあるのだ。そのことを、再び歴史に問うことが私たちに求められているのである。p199

ハンス・ケルゼンとカール・シュミットの議論を経て、法秩序の正当性をめぐりました。フィクションの力が、その正当性を裏付ける場面が歴史のさまざまな局面に見られましたが、結論からすると、嘉戸氏は「鏡≒シラス」というキーワードを通じて、「機能≒非権力」に、その根拠を見出した、というのが終章から読解できます。なお、嘉戸氏は、現在の国際情勢などへ、話題を展開してはいないですが、確かに国家間の紛争など(例外状態)に思いを馳せれば、権力がどこに集中しようと、法機関の「機能」が実効性を持って稼働することは、なお重要に思わされ、終章も個人的には、共感できるものがありました。

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追記:2025年1月、我が家に新しい家族が増えました。
現在月齢四ヶ月になる男の子です。出生後二ヶ月間は父母ともに寝不足に翻弄されましたが、以降も母子共に病を患うこともなく成長しており、夫婦協力して日々乗り切っております。息子の笑顔が、パパママを奮い立たせます^^

 

『未完の憲法』(奥平康弘 木村草太, 2014)

 

i'm exciting all

 猛暑日が記録的に長く続いた2024年も、ついに歳の瀬を迎えます。この社会派ブログも7年目に突入です。一年を振り返れば、ウクライナ・ロシア戦争が悪化の一途をたどり、パレスチナイスラエル間にもまた新たな紛争が起こりました。喫緊では、内戦状況の続いたシリアの政権崩壊が起こりました。世界情勢は波乱続きで、残念ながら期待するような平和状態は遠のくばかりです。
 学習会では、人文系の資料をいくつか取り上げましたが、一方で現実に対する無力さにも直面します。この先10年も、状況の変化がないのであれば、自分にとっての学術研究の意味が問われ、現在の活動の継続も厳しくなりかねません。今こそ自分には想像力が必要だと思わされます。
 そのような忸怩たる思いを抱く年の暮れには、誰しも空想のスイッチが入ってしまうのかもしれません。例えば、10年後、「こんなはずじゃなかった」と無粋で陳腐で情けない弱音を吐く人生が、自分の身に訪れるとすれば、それが将来の自分だと認めたくはないと思います。彼と自分は別人だ。おそらく彼は、ただの怠け者の他人に違いない。身勝手な妄想を駆り立てる逃避癖の誰かなのだ、と思うことでしょう。そんな彼は、過去に戻りたいと、懇願すると思います。そして、ある日、彼は行動を起こします。近所の本屋に駆け込んで、とある本を購入して懐に抱えて架空のタイムマシーンで過去に戻ろうとするのです。過去の自分に会って一冊の本を渡そうと試みるに違いありません。「この本を読みさえすれば将来を変えられる」と、あたかも10年後の未来が変わると信じているように、計画を遂行するのです...。もしそのような願いを叶える著作があるとすれば、今回の課題図書、『未完の憲法』です。

 本作は、2014年に発刊された奥平康弘先生と木村草太先生の対談記録をもとに編纂されたものでして、33回目となる今回の学習会のために、選書係の方が丁寧に選んでくださったものです。決して未来の自分に手渡されたわけではありません。ですが、それでも今朝、僕は誰かに声をかけられたような気がするのです。「後は、よろしく...」と、ポケットにしまいこまれた気がするのです。そのような空想が、年の瀬には働くものです。

 仮にこの本が未来からではなく、過去から送り届けられた手紙だとしたら?そのように思いが膨らんでも、不思議ではありません。なぜなら、本書の刊行された翌年にお亡くなりになられた著者、奥平康弘氏の生の言葉が(印象ですが)まるで次世代へのメッセージのように収録されているからです。今朝、聞こえてきたあの声は、思っていた人物とは別の人、ということになるでしょう...。ですよね、先生? 

 長い空想もここまでです。空想スイッチをOFFにして、本作の対談内容に触れたいと思います。

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 先日開催されたマチノキッド学習会には3名が参加されまして、それぞれの意見もお互いに刺激しあいながら交わされました。課題図書となった『未完の憲法』は、著者の木村草太氏が34歳、共著の奥平康弘氏が85歳の時に出版されました。なお、以下のような論点で構成されます。

第一章 立憲主義とは何か?

第二章 改憲論議をどう見るか? 

第三章 現代の憲法をめぐる状況と課題 

第四章 日本国憲法の可能性と日本の進路

 第一章では、一見すると親和性の高そうな、立憲主義と民主主義の二つの概念が、実は対立するという視点から展開されました。対立するだけでなく、実際には憲法制定時の政府の要人は、国体の護持を最重要課題としたという主旨の背景が語られます。まさに二つの主義は大きく隔たる状態で現憲法は制定されたのです。
(以下、O=奥平氏、K=木村氏)

O 阪口正二郎氏の『立憲主義と民主主義』はまさに対立概念として両者の関係を捉えた著作であったわけです。 …例えば裁判所は民主主義的な制度の枠外にあります。裁判官は国民が選ぶわけではありませんからね。p28

 民主主義と立憲主義の関係からすれば、確かに公正中立であるべき裁判官は国民から選ばれません。この点では、民主主義というものの本質を考えさせられます。何もかも国民によって選択されることを意味するのか、など考えさせられます。*井上の疑問は文末に

 なお、立憲主義が脅かされる事態も本書の主題の一つです。1930年代ニューディール政策に象徴的です。公共投資を重視したケインズ経済学が、当時のルーズベルト大統領の中心的政策でした。本書には「裁判所に圧力をかけ判決を覆した」という旨が語られます。本来、司法が違憲だと判断したら、行為者がたとえ大統領であっても修正しなくてはなりません。 

O ルーズベルト大統領がニューディール政策を進めた頃には、司法権の優位が脅かされました。世界恐慌からの巻き直しを強力に推進していくにあたって、新しい法律をどんどん作って、アメリカ社会の改革をしていかなければならなかった。でも、その時に「司法権の優位」がどうしても邪魔になったんですね。そして、連邦政府の力を強化していった。ニューディール政策のいくつかの立法を違憲とする判決が相次いだこともありましたが、ルーズベルトは裁判所に圧力をかけてその判決を覆しました。

 ですが、裁判所と政府、いったいどちらが正しいのか?と、比較をすれば軽々に結論は下せません。二ューディール政策は、雇用を生み世界恐慌からアメリカの産業を復興させました。大学受験の、政治経済の分野では必出の巨大ダム、TRVによる建設など懐かしいです。一方、大規模な国家政策のために、例えば住環境にまつわる個人の権利が脅かされたことも想像に難くありません(推測です)。
 一方で、裁判所の判決が万能でないことも歴史に明らかです。奴隷禁止という近代的な法律を違憲と論じた1857年のドレッド・スコット事件はその有名な判例です。

K 最高裁は、”奴隷は憲法にいう「国民」には当たらず、「財産」である”と判決しました。つまり、奴隷禁止とすることは財産権侵害にあたり、奴隷禁止は違憲である、という判決だったわけです。P31

 この判決は、奴隷の禁止そのものを違憲としたのです。
 人間の平等原理からすればあり得ません。現代の常識からも言語道断ですが、立法の正当性が、どのようにして担保されるのかは、なお争点なのです。そこで、奥平さんはある意味で信頼をおく学者ジョン・ロールズの「民主主義的な立憲主義」を重視します。

僕は、ジョン・ロールズが名著『正義論』の中で用いている「democratic Constitutionalism」―「民主主義的な立憲主義」という言葉を使って、僕が想定する立憲主義をここで限定しておきたい P34

 と述べられるところに明快です。それにしても、民主主義と立憲主義を考える上で、「民主主義における『民』ということの意味について」(P35)、という問いには、一定の回答が必要に思われます。

 第二章は、改憲論議をどう見るか?です。本書の出版された2014年は、多くの有識者が政府への懐疑を露わにした年でした。それも翌年の8月に、安保関連11法案が強行採決されるに至る途上です。例えば、政府の表明した96条先行改憲案などは物議の的で、国民の3分の2の賛意を集めてから憲法改正の発議が行われることを定めた96条だけを、先に変えてしまわないか?という提案がなされました。
 あまりにも変則的な手段だと非難の対象となったのですが、木村草太先生は、安倍総理に直接お伺いを立てたそうです。するとこの批判に対して当時の総理は、

「いや、違うんです。国民に憲法を近づけたいんですよ」P82

 と、国民のための手法ということを強調されたそうで、さすが政治家さんです。政府への懐疑は第三章、「現代の憲法をめぐる状況と課題」の争点につながります。要人の取材拒否が一つの争点でした。例えば下記のような指摘があります。

K 報道機関に対して取材拒否をするというのは、報道姿勢に対する一種の名誉毀損であったように思います。p106

O こういうケースについてはやはり、裁判とは別のところで関係修復を図っていくしかないでしょう。いわば「文化の力」で、名誉毀損表現の自由の間のバランスをうまくとってやるしかない。p107

 木村先生の主張は積極的です。政府要人の取材拒否の態度を既存メディアに対する名誉毀損として扱うべきとなると、大事になりますね。これと状況は異なるものの、クラスで無視され続ける生徒がいたら、その状況には何かしら暴力性を感じます。しかし、これはいじめやハラスメントと異なるものでしょう。取材拒否が直接、名誉毀損に繋がるかどうかというのは、興味深い視点に思えます。

 一方、奥平先生は、文化の力という言葉を用いて、全体像を捉えようとされているのがわかります。名誉毀損の対象を特定できない場合、それはどのように補償の対象を特定するでしょうか。この点も、議論の俎上に上ります。

 不特定多数に対する侮蔑は1950年代から問題視されるようになったことが、奥平さんの時代背景のご説明から、知ることができます。参考までに抜粋します。

O 従来の法で罰せられる名誉毀損というのは、侮辱する側とされる側が個人として特定できた。しかし、ある人種やある宗教の信者などという不特定多数を対象にした侮蔑行為の場合、従来の名誉毀損の概念ではカバーしきれない。しかし、侮辱された側の集団に属する人たちが不快な思いをし、被害を被っていることは間違いない。そこで、集団を対象にした侮蔑行為についてヘイトスピーチという概念が新たに生まれたわけです。p115  

 新しい社会ではヘイトスピーチや対象を個人に特定しない集団差別を、仮に許容したり放置する管理者に対して、責任が課される、というのは、頻繁に耳にします。近年SNSの管理者は、被害者のユーザーから情報開示請求があれば応じなければなりません。古典的な課題とは異なり、被侵害法益の公共化と個人化が進行しているとも指摘されます。

被侵害法益ーー法によって保護される利益(法益=所有権など)が、現代社会において、旧来の古典的な人身侵害や、所有権侵害などに加えて、「被侵害利益の主観化」と「被侵害利益の公共化」という、二つの方向で拡大と変容がなされている。いわゆる私的な利益と公共的利益の二重性をめぐる問題が発生しつつあり、困難な判断が迫られている。「景観利益をめぐる国立マンション訴訟など」pp115-116

 これらは現代社会に特有の権利問題なのです。上記のような内容は現代的で学びがいのあるものでした。
 第四章は、さらなる現代的な課題に木村先生が警鐘を鳴らし、奥平先生が穏やかにご対応される印象を持つ内容でした。奥平先生からは、「日本国憲法が完璧な内容だなどとは思っていない」ただ、前文は「理念を語る部分なのだから理想主義的でいい」また「日本人の憲法理解もまんざら捨てたものではない」と、国民を信頼する様子が伺えます。未完の憲法を常に是々非々において、更新されるべきものと考えておられるところにも感慨深いものがありました。それも、常に立法の根拠に立ち返り体系立てながら背景をご説明される姿勢には、学ぶべきことが多々ありました。また真摯にご自身と奥平先生との考えの違いを整理する木村先生の真剣な眼差しからも、学習することの意味を感じます。今回の著作も読みやすい中に本質があり、考えるヒントも満載でした。

 毎回お集まりいただいてる皆様、そしてブログをお読みいただいた方、ありがとうございました。

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*井上の疑問
立憲主義と民主主義の関係について。民主主義という場合、裁判官が民主的に選ばれていなくても司法の従う法律は立法府が定める以上、司法権も民主政治の枠に収まっている。なので、司法そのものは民主的なのではないか。

立憲主義という場合。憲法が権力者の専制を抑制する役割がある、という点を重視すれば、権力者と立法者の所属が分立していることが根本的に重要なのではないか?その場合、立法府内閣府を明確に分離する方針こそ、積極的な民主的立憲主義なのではないか。そのような疑問がありつつ、今回のブログは以上です。

今年もお世話になりました。皆様、良いお年を。