2019年パリ
10月5日
参加者3名
2021年2月よりNHK 大河ドラマ 『青天を衝け』が始まり、明治初期に活躍した渋沢栄一 の勇姿を見ることができる。1867年、 渋沢はパリ万博へ訪れるのだが、このパリ万博を中心とした渡仏経験によって、渋沢は日本にまだ見られない資本主義の基本的な仕組みを学んだと言われる。
ところで当時のパリ万博そのものは、まだ生まれて間もない 社会主義 思想の影響を受けていた。産業によって階級の上下を問わず豊かになることを目指す社会主義 の思想いわゆる、サン=シモン主義 が当時のパリに浸透していたと、いくつもの資料が示している。したがって、資本主義の父とも謳われる渋沢栄一 の学んだ経済思想は、実は、初期の社会主義 だったということになる。
今回の学習会では『パサージュ論』を2冊取り上げたが、その理由はこのサン=シモンへの好奇心があった。この人 を始め、フーリエ 、マルクス と、当時の社会主義 思想家の項目が、パサージュ論4巻に用意されており、また 1巻には、全5巻に渡る 『パサージュ論』の全体を見渡す『概要』が用意されている。
1巻の『概要』は 欠かせない とのアドバイス も頂き、今回は思い切って2 冊ともに学習会の課題図書とした。それぞれ該当箇所は各巻のうちの一部だが、おかげで緊急事態宣言での休会中の期間も、充実し た時間となった。 『概要』は、ドイツ語版と、内容の若干異なるフランス語版とがあり、扱われる 題材は多岐にわたる。仏詩人ボードレール のアレゴリー について描かれ、思想家ブランキの憂鬱が描かれ、パリ万博の華やかさが描かれている。どの題材も、パリの都市計画の期待と衰退に関連して描かれており、結局は、ニーチェ の永劫回帰 が描かれている。この記述 だけを見れば何を言ってるか見当がつかないかもしれないが、気になる方は本書を読まれることを薦めたい。
著者、ヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin 1892~1940) は、ドイツ国 籍のユダヤ 人である。彼は ナチス に追われ、若くして、ピレネー 山中にて自害する。それまで、彼自身が残してきた原稿については、その安否を最後まで気に留めていたことが知られている。 学習会の後に知ったことだが、亡くなる6日前にも同じドイツ国 籍のユダヤ 人哲学者ハンナ・アーレント と会っており、自筆の草稿(『歴史の概念について』)を、彼女に託している。
なお、これらの 原稿はベンヤミン の死後も発行されないままだった。アーレント はその状況を憂慮し、自らの手で原稿を複写し、出版にまでこぎ着けており、この時の彼女の奮闘を、岩波新書 『ヴァルター・ベンヤミン 』(柿木伸之)より、知ることができる。
生前、ベンヤミン は、『パサージュ論』の原稿 が検閲により破棄されることを恐れていた。しかし、現在、我々がこの原稿を読むことができるのは、亡命前に、フランス国立図書館 の司書、ジョルジュ・バタイユ によって原稿が保管されたからである。ベンヤミン と 交友関係にあったバタイユ は依頼を受け、図書館内に原稿を隠し、当局の目から遠ざけ、さらに第二次大戦ののちに再びそれらを見つけ出し、欠番はあったものの、これらが編纂されて出版に至った。最初の『パサージュ論』が発行されたのは1982年になってのことだった。
岩波現代文庫 からは2003年に出版され、岩波文庫 からは2020年に発刊され、新刊が出たのを機に、学習会でも取り上げることとなった。
ベンヤミン の著作を、容易に購入できる我々にとっては、身に沁みるものがある。そんな 『パサージュ論』である。
ベンヤミン について少し紹介させて頂くと、辞書には下記のようにある。
ドイツの批評家。フランクフルト学派 に属し、独自の美学的象徴論や寓意論を展開。ナチ時代は亡命地のパリなどでマルクス主義 的芸術論や社会史研究を行う。パリ陥落後、逃亡の途上ピレネー 山中で自殺。著「ドイツ悲劇の根源」「パサージュ論」など。広辞苑 第7版
彼は寓意論を展開したことで知られる。 寓意、すなわちアレゴリー になぜ着目したのか、と言う点にここでも着目したいと思う。
ベンヤミン の頻繁に 引用する仏詩人ボードレール も、このアレゴリー を好んで用いた。彼らが着目した寓意論は、おそらく『パサージュ論』を理解する上で鍵になる。 鍵になるばかりか、私たちの生活に現れる美術品にも商品にもアレゴリー が結び付いており、そこに多様な相が生まれる。 この良いとも悪いとも判別しにくい現実を、彼の寓意論は私たちに突きつけてくる。
Allegory アレゴリー (=寓意)とは、言い換えれば、比喩であり、この著作では象徴と異なるものである。
アレゴリー :喩(タトエ)。比喩。諷喩。寓意。特に、18世紀以降には象徴と対比して用いられ、他の観念を一義的に示唆する記号や表現法と見なされた。広辞苑 第七版
18世紀以降にアレゴリー は、象徴と対比 して用いられた。なお、20世紀を代表する哲学者 ハイデガー の記述を参考にすれば、アレゴリー は芸術作品にとって不可欠である。
…物的なものに付帯しているこの別のものが、芸術的なものを為すのである。確かに芸術作品は製造されたものであはあるが、しかしそれはさらに単なる物そのものとは何か別のもののことを言っている。すなわち、アロ・アゴ レウェイ(別のものをいう(άλλο αγορεύει))である 。作品は、別のもののことを公表し、別のものを明らかにする。つまり、作品とはアレゴリー (寓意) なのである。P15『芸術作品の根源』
一方で、アレゴリー へ対する軽蔑が生じている。下記の記述を参考にしたい。
…アレゴリー というかくも精神的なジャンルを、不器用な画家たちのせいで、我々は軽蔑する習慣が身についてしまっている が、これは、まさに詩の原初的で最も自然な形態の一つであり、陶酔によって掲示 される知性において、その正当な支配力を取り戻す のでる。」ボードレール 『人工天国』(ボードレール の念頭にあるのが、実際にアレゴリー であって、象徴ではない ということはこれに続く箇所からも疑問の余地なく明らかである。)寓意家としての蒐集家。p21『パサージュ論2』
アレゴリー への軽蔑はまず、美術作品に見られたと言う。 宗教画は寓意的である、あるいは美術史に現れた象徴主義 と言った流れもある。こと、 『パサージュ論』においては、仏の諷刺画家グランヴィル(1803~1847)の寓意的表現に注目しており、この画家の洗練された寓意的表現の行くつく世界が描かれている。しかし、この画家の最後は、まがりなりにも良いものとしては記述されない。 アレゴリー の両義性に我々は直面することになる。
一方、学術的な記述にとっても、アレゴリー は忌避される傾向がある。
アレゴリー は 比喩であり、なにものも証明しない。それは 論証の技法としては力不足だからだ。 アレゴリー によって、事物と事物を結びつける抽象概念を、別の共通項に結びつけることができる。しかし、その一連の結び付けは、だれかの主観を通してなされる。寓意による譬え話や物語は、人々に何らかの様相を示す ことができる一方で、客体化された事実を明らかにできない。
ところで、18世紀以降、アレゴリー とシンボルが区分された。仮にこの区別を、幻想に結びつく記号と、 事実に結びつく 記号と言う風に区分すれば、一旦は、説明がつきやすいかもしれない。が、 この詳細な考察は、他の場で行いたいと思う。例えば、米の論理学者パース(1839-1914)が行った記号論 の分析からも多くの知見が得られるはずだ。
何れにしても重要なのは、ベンヤミン もボードレール も、いっときは衰退したかに思えたアレゴリー の主観的表現そのものの価値を見直すところである。 ベンヤミン が「その正当な支配を取り戻す」 という言葉を引用する時、アレゴリー の深みや意義を再提示している、と思えてくる。アレゴリー は商品に付加価値を与えつつ、都市に幻想を生み出すが、その一方で、この幻の中に潜む危うさも同時に露呈するからだ。
そのようなアレゴリー の両犠牲に着目して検討される政治哲学や都市計画に着目しなければ、現代社 会の重要な問題は十分には咀嚼できないと、推察せずにはいられない。 少なくとも、このような現代的な役目を「アレゴリー 」が請け負うと考えれば、いよいよ、ベンヤミン の仕事が現代に受け継がれた意味も理解できる。
と言うわけで、今回の学習会は、意見交換を踏まえて、上記のような仮説にも思いが広がる良い時間となった。
2003年、2020年と長い期間を経ずに出版された『パサージュ論』だが、岩波書店 の思惑も気になるところだ。
何より、ベンヤミン の知見に触れ、頭の中には、それまでなかった寓意表現への好奇心の扉が開かれた気がする。それは、 好奇心の扉、あるいは、都市の発展に不可欠な散歩者への扉、かもしれない。
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余談:
一昨日、神保町の元・岩波ブックセンター の跡地に寄ってみると、ブックカフェに変わっていた。岩波の書籍に囲まれて飲食ができる。たまには行ってみようと思う。
また、来年1月より岩波ホール にてジョージア 映画祭が開催されるとの情報も…
www.iwanami-hall.com