イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『日本人の身体』(2014, 安田登)

京伝政演画作『艶本枕言葉』

第27回MK学習会 10月14日 
参加者3名

死体。時には生きた体の意にも用いられる。卑語。

 これは、1603年に掲載された和-ポルトガル辞書のとある言葉の意味である。その言葉とは何だろうか。
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正解は、「からだ」である。日葡辞書より

 辞書に卑語とある通り「からだ」は、俗的に用いられた言葉だった。当時、代わりに身体の意味で用いられた語句は「身」である。「からだ」は、その語源が空っぽの「殻」に由来すると本書では述べられるが、当時、精神と対になる「生」の身体の意味では意識されていなかった、と、著者である安田登氏は読み解く。本書では、心と体、意識と無意識のように、明瞭に分化されなかった時代の未分化の概念に着目し、多々取り上げる。また、安田氏は現役の能楽者でもある。能を文化的芸能に飛躍的に高めた世阿弥の視点を通して、夢幻、怨霊、異界の世界についても豊富に触れられており、現世と来世の狭間、あるいは境目と言った領域は、本書の主題の一つだと読めるだろう。

 安田氏はこの間の領域を「あはひの場」と称して着目する。

 時に、「あはひの場」は、男女の間に仕切りを設けない混浴の文化を通しても語られており、本書で掲載される冒頭の画像も象徴的である。ちなみにこの画像は「艶本」からの転用であって、表現に誇張があることは否めないが、当時の文化は伺い知れる。

 また「あはひの場」は、縁側や、軒下など、建築構造、日常のあらゆる事象を通して語られる。
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 聖徳太子の言葉もその一つである。「君子和して同ぜず」という言葉は有名だがここに用いられる「和」の漢字は、もともと「龢」(ヤク)を用いたことはあまり知られていない。

 「龢」という漢字は、様々な音程を持つ笛を一緒に吹き、そこに調和を見出すことを意味するのですp88

 ある文化と別の文化が重なり合う「調和の世界」に、古典芸能や日本人の身体感覚が馴染んでいたことは、想像に難くない。また、短歌の世界にも同様の視点が見られる。

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来ぬ人を 松帆の浦の夕凪に やくや藻塩の身も焦がれつつ 藤原定家 
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 上記の場合は掛詞に着目される。

 来ぬ人を待つ私は、「待つ」の名を持つ「松帆」の浦の夕凪に焼かれる藻塩のように、身も恋い焦がれてあなたを待ち続けているのです p100

 続く安田氏の解説も興味深い。

 私たちはこの「掛詞」を中学校や高校の古典の授業で習うので、勉強の一つとしてスルーしてしまいますが、しかし「掛詞」は単なる修辞技法ではなく、人を変容へと誘う呪詞(まじないことば)なのです。pp100-101

 あわいの場と、呪(まじな)いが関連するとも述べられる。
 風景もまた同様である。

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東の野に炎の立つ見えてへりみすれば月傾きぬ 
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 東野炎立所見而反見爲者月西渡 柿本人麻呂
万葉集 一巻 四十八』 

 ひむがしの のにかげろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
読みくだし:賀茂真淵 p127

 この一首は、万葉集から引用されるが、単に情景が描かれただけだろうか。斎藤茂吉からすれば、風景に感情が隠されている。

 「景色の中に感情が隠れている」(茂吉)のは、私自身と景色との間の境がないから(安田)p129

 和歌を通して、あるいは本書を通して生き生きと動き出すような叙情的側面を対象が持つ、ことを伺い知ることができた。
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 本書に触れていない話題はまだまだあるが、ここでは割愛するとして、選書に尽力していただいた司書さんからは、学習会終了後、この会が「あわいの場」のようだ、と、良い言葉を伝えていただいた。また、建築の現場が近代化とともに分業化される中、例えば、朝倉文夫彫塑館についての話題なども参加者から投入され、興味深く思わされた。この建築の過程では、業者が8回も変更されたそうだ。
 分化することと、未分化のまま留まることと、どちらもそれぞれの在り方がある、と思わされる良い学習会だった。
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 次回はエドマンド・バークを研究される中島岳志さんの著作を扱う予定です。

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