イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『ゴッホの手紙』(2020, 小林秀雄)

 

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高校時代に見て驚いた『星月夜』

update:10/15

【マチノキッド学習会23:終了】

 テーマ図書:『ゴッホの手紙』(2020 小林秀雄 新潮社文庫)
 参加:3名(透明シートで隔てコロナ対策)

 今回のテーマ図書は、小林秀雄著『ゴッホの手紙』である。本書は、新潮社版『小林秀雄全集』及び『小林秀雄作品』を底本としたもので、1948~52年の『文体』や『芸術新潮』に掲載された論評や、55年~58年の朝日新聞芸術新潮文藝春秋など、多岐にわたる媒体に掲載された論稿が収録されている。なお、2017年にみすず書房より『ファン・ゴッホの手紙』が出版されたが、他に類を見ないと言われる膨大な告白文を残したゴッホの全書簡を、こちらの著作から見ることができる。

 いずれにしても、近年、出版されたゴッホ関連の書籍や、ゴッホを主題とした映画の製作状況を見ると、今もなお尽きない現代人のゴッホへの関心の高さが伺える。

 

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853~1890)は、オランダ南部ズンデルトで生まれ、のちに、後期印象派を代表する画家となった。生前はほとんど認められなかったことでも知られている。

 まだ絵描きになっていない27歳の時、彼はこのような手紙を残している。

「慎重に考えた上の推定だが、僕はあと6年と10年の間くらいしか生きられない」(No.309)(『ゴッホの手紙』P24)  

 そう書き残した10年後に、本当に彼は他界する。弟テオの妻、ボンゲル夫人の回想録によれば「ロンドンで働いていた時(22歳)、ゴッホはひどい失恋を経験し、性格がまるで変わってしまった」*1そうである。

 後に、聖職者を志したゴッホだったが、下記にあるように失望している。

 「皆にあんなにしゃぶられたキリストより、ルナン(仏・宗教史家)のキリストの方がどれほど慰めになるか。恋愛だって同じことではないか…」(No.587)(同書 P147)

 26歳で聖職者への道を断念したゴッホだが、死期を予想したのが27歳であることから、その背景にはこうした挫折があったということになる。そして絵描きの道へ進む。

 いったい、どれほどの心境だったのか、我々には理解できない。小林氏は、ゴッホを「理解」するということから一旦、離れ、「もう私の注釈などの余地はないようである」(同書,P156)と書き、特にサン・レミイの診療所に移ってからは、ゴッホの書簡だけを、著作の中で並べている。

 なお、理解し難いものへ対する小林氏の視点について、この著作の中では頻繁に言及されるのだが、例えば、前半部分、「悪条件とは何か」で始まる小林氏の文章は、当時、触れることのできなかったゴッホの原画や原文に配慮されており、その切実さが下記のように語られる。

 悪条件とは何か

 文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聴き、絵は複製でみる。誰も彼もが、そうしてきたのだ、少なくとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化という軽蔑的な言葉がしばしば人の口に上る。

 もっともな言い分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるということと、僕らの喜びも悲しみもその中にしかありえなかったし、現在もまだないということとは違うのである。

  どのような事態であれ、文化の現実の事態というものは、僕等にとって問題であり課題であるより先に、僕等が生きるために、あれこれののっぴきならない形で与えられた食料である。誰しも、或る一種、名伏し難いものを糧として生きてきたのであって、翻訳文化というような一観念を食って生きてきたわけではない。

 当たり前のことだが、この方は当たり前すぎて嘘になるようなことは決してないのである。この当たり前なことを当り前に考えれば考えるほど、翻訳文化などという脆弱な言葉は、凡庸な文明批評家の脆弱な精神の中に、うまく収まっていればそれで良いとさえ思われてくる。愛情のない批判者ほど間違うものはない。現に食べている食物をなぜひたすらまずいと考えるのか…(同書、P11)

 それしかないのであれば、そこにあるものから確固たるものを受け取ろうとする、小林氏の姿勢が読みとれる。  

 原文に触れられないという悪条件と、常人では理解し難いゴッホという人間と、単に、併列に論じられないが、上記を踏まえれば、このように考えられるかもしれない。

 これらが人々の理解の届かない類の対象として見れば、不可解な存在に対するプリミティブな本能を、この著作は的確に描写しているように思える。

 本人でも到底理解のできない癲癇や発作…を、自分自身の中に持つ人間が、自画像にこだわった理由に小林氏は着目したが、ここでは、得体の知れない対象に向き合った一人の画家の姿が描かれている。

 ともかく、そういう場合のゴッホの意識、それも意識という言葉を使って良いとすればですが、その場合のゴッホの純粋な意識こそ、彼の自画像の本質的な意味を為すものでしょう。(同書, P208)

 私たちの日常生活の中でも、不可解なものや、不条理なものに遭遇する。隣人に対してそれらを見出すかもしれない。何れにしても、名伏し難いものをどのように糧とするか。は、(それらを、異質なものとみなして排除するか、糧とみなすかは)私たちの問題だろう。それが後の人生に大きく影響するかもしれない。読解することは社会の複雑さを生きることと同義だとさえ思えてくる。読みやすいとは決して言えない著作だが、その意味で、真摯なものへの道筋が用意されている、正真正銘の良著だろう。

 最後に、1963年出版の『ゴッホの書簡全集』(みすず書房)に寄せられた小林秀雄のことばを抜粋して、次回に、繋げたいと思う。次回は、ヴァルター・ベンヤミンの著作を取り上げる。

 ゴッホの言語的表現には、全く比類を絶したものがある。手紙の終わるところから、絵が始まり、絵の終わるところから手紙が始まる。そういうより他ないもの、いわば、人間には人間を超えるあるものがある、という強い鋭い感覚を、もしゴッホの絵を愛している人々がこの書簡全集を読めば、得ることができると、私は思っている。

 小林秀雄

 

 

 

 

*1:(同書, P14)