
第36回 MK学習会
今回の学習会では嘉戸一将さんの『法の近代』--権力と暴力をわかつもの-- を取り上げました。MK学習会は、課題図書を決め(選書係さんに候補を選んでいただき)、各自、可能な範囲で読み進め、学習会の場で自由に意見交換をします。ひとり読みでは着目しなかった意外な点が往々にして当日の話題となるもので、そのような面白みがあります。今回の課題図書『法の近代』は、明瞭な主題が設定されており、課題を共有するには、絶好の図書だったと思います。ですが、派生する議論は数多とあり、答えの出ない問答が蓄積されて解消しない。そのような印象を個人的に抱きました。本書の主題とは、たった一つの明確なテーマです。
「何によって権力と暴力は区別されるの」か。p2
この問いが、二ページ目に述べられる本書の主題です。
以降、多岐にわたりこの文意が、嘉戸氏により、パラフレーズされます。
「憲法を誰が決めるのか」という問いこそが19世紀以降の法と国家の根本である。p11
「権力と暴力の峻別は可能か」p15
「言い換えれば、政府と盗賊を分つものに関する問いが…『ボダンからケルゼンまで』を揺り動かしてきた」p27
「政府と盗賊を分つものが何か」と、いささか物騒な視点が投じられますが、この問いは考察を深めれば深めるほど難問でして、蓋し、正鵠を得た問題提起に思えます。本書はこの点を詳細に語ります。
先の問い、「何が政府と盗賊を区別するのか?」に対するケルゼンの答えとは、次のようなものだ。すなわち、その主体の行為に、当為としての「客観的意味」があるか否かである。人が金を差し出すことを強制されることが、納税であると判断されるか、強盗であると判断されるか、あるいは人が命を奪われることを、死刑執行であると判断されるか、殺人であると判断されるかは、それを強制した主体以外の人々にとって、その主体が権限を有しているか否かによるのである。p37
本書では、ハンス・ケルゼン(1881〜1973)の法哲学に焦点が当てられます。具体的には、法の正当性が、法を強制する主体それ自身ではなく、主体以外の人々にとって客観的意味を有するところにある、といった趣旨のものです。「当為」というのは「為して然るべし」というカント哲学で言うところの実践行為なのですが、多数決原理を採用する議会制民主主義の問題に対して、ケルゼンからすれば、(当然)下記のような点に言及せざるを得ません。
国民としての意思決定には、多数決原理を機能させるための条件が要請される。即ち、同質性である。というのも、多数派と少数派との対立の深刻化は、時に国家としての単一性の瓦解をもたらしかねない…p131
多数決は、少数派を議論の場から退けてしまいます。それが国家としての一体性(単一性)を危ぶむものと考えられたのです。
そのためケルゼンは、多民族国家においては、少なくとも民族的文化問題は、中央議会の所管とはせずに、各民族団体の代表機関に委ねられるべきだという。p131
なるほど多民族国家を取り巻くこの状況からすれば、各民族の代表によって議決を行使する代表機関は設立されて然るべき。とケルゼンが考えたのがわかります。
一方、同時代の政治哲学者、カール・シュミット(1888-1985)の主張は、議会制度そのものへ向かいます。
...シュミットが言わんとするのは、議会制の危機である。即ちブルジョワ市民層の教養に基づく自由な討議によって意思決定するシステムは、大衆民主主義には合致しない、と。P135
嘉戸氏の解説によれば、シュミットは討議の場が、ブルジョワ市民によって、いわば牛耳られる、と考えていた、というのがわかります。したがって代議員に、議論を委ねるよりも、むしろ大衆に支持される神話を重視した、というのです。
シュミットは、大衆が自らの信じる世界観のために殉ずることをも厭わず、暴力行使へと駆り立てる「神話」に、大衆民主主義の原動力を見出すのである。ブルジョワジーの「金権政治」に堕した議会主義を脱し、民主主義へ導くのは、ゼネストへの信仰に見られる大衆の「神話」である、と。p136
神話、物語、あるいはフィクションに法秩序の正当性を見出すのは、シュミットを始め、歴史のさまざまな局面に垣間見ることができます。
人が「獣性=暴力性(brutalite)を脱して秩序を形成するには、「フィクションの力」が必要である。p136
例えば、三木清『構想力の論理、第一』(1939)が、ソレルの「神話」やヴァレリーの「フィクション」に基づいて、記紀神話に代わる神話・フィクションに準拠する秩序の再創造を主張しているように、こうした神話論やフィクション論は、法秩序の論理に属している。pp136-137
このような趣旨を読解すれば、権力と暴力を区別するものは、万人が承認できるような、優れた「フィクション」であり、その物語を、法の根底に有しているのかどうか。ということになりそうです。
なお、学習会当日は、コロナ禍のドイツの首相、アンゲラ・メルケル氏の演説に話題が及びました。この時の演説は、第19回MK学習会『コロナ時代の哲学』で取り上げたものでした。
緊急事態の只中で、人々は移動の自由が制限されました。賛否はあるにせよ、急を要する感染防止法を受け入れてもらうため、政府は、国民にメッセージを投げかけ、一連の法的根拠の共有に成功したように見えます。こうした事例から、法の正当性は、権力そのものにあるというよりも、権力者の提示する物語にある、と結論されてもよい文脈が垣間見えるのですが、嘉戸氏の本意は少し異なります。
本書の序文の段階で、カール・マルクスの以下のような論旨が紹介されます。
例えば、カールマルクスが、歴史は繰り返すこと、そして一度目は悲劇として現れ、二度目は茶番として現れることを指摘している。そのとき、同時に彼が言っていたのは、革命的な法秩序の創造が、人間の意のままになされるのではなく、フランス革命の担い手たちがローマの英雄たちを演じることで創造を遂げたように、新たな法秩序の創造において、「過去の亡霊」を呼び出すことで「由緒ある紛争と借物のセリフで世界史の新しい場面を演じようとする」ことが不可欠であるということだった。
おそらく、カールシュミットなら、騒乱の無垢で実存的な「決断」を見出しただろう場面に、マルクスは「茶番」を見出していたのである。pp19-20
この点だけに着目すれば、法の正当性というものは幻想にすぎないと言わざるを得ないのです。その視座は、第三章の小見出しがそのまま「茶番としての危機」と題されるところにも顕著です。さて、嘉戸氏の結論はどのようなものでしょうか?嘉戸氏は、国内の思想史に着目します。そして、結論から申し上げれば、「無」についての議論に集約します。
二章にて話題は国内に向けられます。明治憲法の憲法義解の、とある議論から以下のような点が示されます。
「シラス」とは、憲法発布の五日後におこなわれた井上毅の講演によると、天皇の理性の働きである。すなわち、「シラス」は「知らす」と表記される言葉で、「知る」の尊敬表現であり、本来、天皇が支配する様態を指している、と井上はいう。井上によると支配を意味する古語には、この「シラス」と「ウシハク」とがあり、後者が豪族の実力行使によって人民と土地とを私有化することを指すのに対して、前者はあくまでも天皇の理性によって秩序を実現することを指す。P85
さらに、「シラス」、「鏡」、「無」の関係が語られます。
「シラス」について論じた講演で井上毅は、「知る」という言葉が、「鏡のものを映す如く」物事を知り明らかになる「心持」を意味すると言っている。つまり、たとえ「シラス」という動詞が天皇に聖別された言葉であったとしても、それは天皇が能動的に物事を明らかにすることを意味するのではなく、それとは反対に、ただ受動的に物事を映し出す「鏡」のような「心持」、境涯を意味するのである。… 重要なのは、「鏡」を通して、あたかも<絶対者>が要求しているかのように演出することなのである。その意味において、<絶対者>そのものは何者でもない。<絶対者>とは無なのである。P115
日本の神話が「鏡」など重宝した歴史を踏まえ、上記のフィクションの延長において着目されるのは最終章へ続く「無」についての議論です。
しかし、この<無>は鏡のようにして至高性=主権を映し出す。これが主権論の論理であり、...主権とは実体のあるものではなく、機能としてあるのだ。そのことを、再び歴史に問うことが私たちに求められているのである。p199
ハンス・ケルゼンとカール・シュミットの議論を経て、法秩序の正当性をめぐりました。フィクションの力が、その正当性を裏付ける場面が歴史のさまざまな局面に見られましたが、結論からすると、嘉戸氏は「鏡≒シラス」というキーワードを通じて、「機能≒非権力」に、その根拠を見出した、というのが終章から読解できます。なお、嘉戸氏は、現在の国際情勢などへ、話題を展開してはいないですが、確かに国家間の紛争など(例外状態)に思いを馳せれば、権力がどこに集中しようと、法機関の「機能」が実効性を持って稼働することは、なお重要に思わされ、終章も個人的には、共感できるものがありました。
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2025年1月、我が家に新しい家族が増えました。
現在月齢四ヶ月になる男の子です。出生後二ヶ月間は父母ともに寝不足に翻弄されましたが、以降も母子共に病を患うこともなく成長しており、夫婦協力して日々乗り切っております。息子の笑顔が、パパママを奮い立たせます^^
2025年も早くも5月末、新緑の鮮やかな公園を家族三人でいくつか探訪しています。中でも電車で10分のとある駅から、さらにまた10分歩く、美しい風景の公園が、最近のお気に入りです。(冒頭の写真)
