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『暴力批判論』(1994, ヴァルター・ベンヤミン )

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第26回MK学習会:5月31日、調布にて開催 
参加者3名

『暴力批判論』(1920, ヴォルター・ベンヤミン, 1994, 訳 野村 修, 岩波文庫

 『暴力批判論』の書かれた1920年、ドイツ共和国は前年にヴァイマル憲法が制定され、ヴァイマル共和国と呼ばれていた。この時、議会の過半数を占めたドイツ社会民主党は、そもそも暴力を背景にその座に着いた政権だったが、新政権下で暴力は禁じられた。当時の対立政党は、国民社会主義ドイツ労働者党 で、1921年に、ヒトラーが代表に就任するナチスである。この頃、ゼネストを牽引する労働組合の反政府主義いわゆる、サンディカリズムが興隆しており、議会に対して一定の勢力を持っていた。本書を読む限り、ベンヤミンは、この労働者の革命的ゼネストに関しては、どうやら否定していない節がある。

 ところで、現代の法的秩序を鑑みれば、どのような場合の暴力も許されないことを、ベンヤミンは指摘している。

現代ヨーロッパの法関係は、権利主体としての個人について言えば、場合によっては暴力をもって合目的的に追及されうる個人の自然目的を、どんな場合にも許容しないことを、特徴的な傾向としている。P34
(自然目的:生まれ持った人間の権利を守る目的)

 私たちの日常的な感覚も、どのような場合も暴力は控えるべきだと考えるのが普通だろう。しかし、例外に着目すれば、正しい目的の暴力が存在することに気がつかされる。

 例えば、強盗に襲われた時に身を守る抵抗の暴力だ。それは、正当防衛であって、正当な目的を持っている(と考えている)。一方、正しい目的の暴力があるとしても、すべての暴力が許されるわけではない。止むを得ずの暴力も、実際には程度問題に直面するからだ。

 ベンヤミンは、この暴力(行為)の限度や、適法性について、下記のように考察する。結論から言えば、適用される客観的な尺度は存在しない。

 暴力批判論では、実定法の尺度は適用されるのではなく、むしろ、もっぱら判定されるのである。そのような尺度ないし区別がそもそも可能だとすれば、暴力の本質はいったいどう言うものになるのかーー言い換えれば、そのような区別の意味は何なのかーーこれが問題なのだ。P32

 合法性と違法性の間の境界線がどのように定まるかは、『暴力批判論』の主要なテーマの一つである。現代の実定法は、主権者の目的を十分に顧慮するよりも、法の維持、あるいは権力の維持を目的とする場合も少なからずある。従って、目的そのものではなく、目的と手段の実際の関係を精緻に理解することが、ベンヤミンにとっては暴力の正当性を理解するための近道なのだ。

 暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係を描くことだ、と言って良いだろう。…まず法の概念について言えば、あらゆる法秩序の最も根底的で基本的な関係は、目的と手段との関係である。そして暴力は、さしあたっては目的の領域にではなく、もっぱら手段の領域に見出される。P29

 正しい目的の暴力があったとしても、手段の適法性の基準は、(明文化された)実定法の中に書き記されてはいない。この場合には、暴力の生じた情状を具に鑑みて、その行為が妥当か否かを斟酌する必要がある。(本書では「戒律」を通して示唆される)

 本書に描かれる、法と暴力の関係性に明るければ、世界中で絶え間無く続く紛争の原因や、身近に起こる衝突の、より実態に近い因果関係に着目できる。もし、目的の正しさだけを主張して、手段の妥当性を見失う時には、正義のつもりになって人に危害を加えたり、その人々の行き過ぎを指摘するための適性な判断基準を失うことになる、というわけだ。

 暴力批判論が示した言葉でよく知られる言葉に、神的暴力神話的暴力があるが、この二元論の中には、上記のような法についての力学が吟味されている。そのため、明瞭にされた出来合いの言葉を覚えるよりは、その背後の関係性に思いを巡らせる方が、ベンヤミンの主旨、『暴力批判論』の描く克明な現実を、グッと理解しやすくなるはずである。

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3回にわたって取り上げたベンヤミンでしたが、次回は彼の著作から一旦離れ、『日本人の身体』(著者:安田登さん)について、学びたいと思います。

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