イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『保守と立憲』(2018, 中島岳志)

第28回MK学習会 12月6日 
参加者4名

 今回の課題図書、『保守と立憲』(2018 )は、本書のために書き下ろされた1章と3章、また、既存の媒体に掲載された過去の記事が編纂され、五つの章で構成される。概ね2011年〜2017年ごろの記事が本書に掲載されるが、雑駁には著者である中島氏の、当時の政権に対する見解と、彼の親しむ哲学的見地が折り重なるように記述されている。

 中島氏の支持する主義は「保守」である。保守主義を支持する以上、記事の掲載された当時の与党政権には批判的である。一方、世間で幅広く適用される保守政権という概念は、その呼称が実態を反映しているとは言い難い。中島氏の提言する「保守」は、グラデュアル(漸進的)な変化を必要とし、人々の声を傾聴するものである。だとすれば、「寛容=リベラル」でなければ、保守にとっては語義矛盾なのである。

 概して、安倍政権は「リベラル」の反語的意を含む「パターナル」となり、国政には、「保守」であって「リベラル」な政党が求められていることがわかる。その政治は「リベラル保守」であるのだが、かつて自民党内部の宏池会がこの系譜だったとも述べられる。この点は、以下の中島氏の作成する政局分布の第II象限に、わかりやすい。

©️Nakajima Takeshi『保守と立憲』

 ところで、歴史的な観点からすれば保守主義は、イギリスの名誉革命フランス革命を比較したエドモンド・バークによって主張されたものである。バークは、前者を保守的として賞賛し、後者の急進的手法を批判する(『フランス革命省察』)。
 以降、19世紀、社会哲学者カール・マンハイムは、政治政党の姿勢を表すものとして、より明瞭に、伝統的な保守的傾向と、政治的な保守主義を位置づけた。と、本書では述べられる。
 中島氏の立場は、何れにしても、グラデュアル(漸進的)な変化を前提とする「保守」であり、「永遠の微調整」という語彙を用いて、この姿勢を叙述する。ちなみに、歌手のUAさんはこの視点に興味を抱き、ご本人の作曲作業にも反映したと、NHKのSwitchインタビューにて語られる。

 この著作の特徴は、保守を語るときに「死者の声」について言及する点である。
 保守がいったい何を守るのか?と問えば、それは「現在の制度」を意味しない。結論から言えば、死者から受け継がれる「正統」である。例えば、本書ではそれを「平凡」という語義に関連づけている。

 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことの方が非凡なことよりもよほど非凡なのである。『正統とは何か』

G.K.チェスタトン[1874-1936]

 上記引用は、20世紀初頭のエドワード王朝期、小説、随筆、詩、劇など各分野で健筆を振るったイギリスのチェスタトンの言葉である。コトバンクより)

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 なぜ平凡が非凡なのか?
 という問いへの回答はこの著作の主題でもあるだろう。この答えは簡単には記述し難い。本書では、この視点と共に、過去の学者が気に留めた課題や、哲学的主題について、直接的、婉曲的、メタフォリカルに触れている。

 例えば、西部邁にとっての中選挙区制という選挙制度オルテガにとっての専門分化主義への懸念、イギリスにとっての憲法の歴史、ジグムンド・バウマンの描写したリキッド・モダニティにおける共同体のあり方、小林秀雄にとっての雅言、柳田國男にとっての先祖、柳宗悦にとっての民藝、親鸞における正定聚(しょうじょうしゅ)鶴見俊輔にとっての岩床、のどれもが、専門分野において傲慢にならず、打算的になり過ぎず、進歩を信奉しない「停頓の思想」、あるいは「正統」を含むのである。

 「停頓の思想」は、単なる停滞でなく保守の守るべきものであるにせよ、明瞭には言語化しにくい。それは、まるで死者によって語られると言っても言い過ぎでないような曖昧模糊な知見だと思わされる。この知見は、おそらく長い歴史によって抽出された平和と文化の基盤だろう、と想像は広がるものの、実体験が十分に追いつくことを期待したい。 

 

 今回は4名の参加となり、前回の学習会に引き続き、死者と生者の境目を想起するテーマを扱った。今回の死者についての話題も面白かった。

「生きている死者の復活が必要である」「死者は死んだ」といったパワーワードにも舌を巻いた。
 次回は多和田葉子さんの著作を扱います。