イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『パサージュ論 III』(2020,ヴァルター・ベンヤミン)

f:id:Inoue3:20211202183454j:plain

2019.11_Paris


第25回MK学習会:11月26日、調布にて開催

参加者3名

 

 ヴァルター・ベンヤミンの書き留めた『パサージュ論』[DAS PASSAGEN-WERK](1928~1940)は、A~Zまで異なる見出しが設けられており、各項目には、それぞれに関連する種々な引用が詳細な典拠とともに編纂されている。欠番はあるものの、当時の生活様式や風習が描かれており、本書はさながら習俗資料集である。

 一方、『パサージュ論』は、ナチスの検閲と戦禍を免れ、1982年になり独・出版社ズールカンプから発行されるまで、J.バタイユ始めとする文人たちの協力が欠かせなかった。以上の経緯は、前回の学習会からも学べたが、こうした経緯を含めパサージュ論』が単なる資料集でないことは容易に理解できる。出版に腐心した彼らの労力を通しても、ベンヤミンの記述を通しても、資料集というよりは思想書としての性格をより強く含んでいるのだが、やはりこの著作をどのように分類して良いかは、簡単に結論できないように思う。

 前回、パサージュ論の『概要』において、都市の発展と人々の葛藤について学んだが、今回取り上げる第3巻では、NとSの項目からベンヤミンの歴史概念について読解に取り組んだ。

 

『パサージュ論 III』(岩波文庫

S. 映画、ユーゲントシュティー

「歴史の残骸そのもので歴史を創造する」レミ・ド・グールモン P428 

歴史学の構成は軍隊の秩序になぞらえられる。つまりそこでは真の生が苛まれ兵舎に入れられるのだ。これに対して、挿話(アネクドーテ)とは街頭蜂起である。挿話は事態を空間的に我々の方にグッと引き寄せ、我々の生の中に立ち入らせる。一切を抽象化してしまう「感情移入」を要求する歴史学と、挿話は鋭い対象をなす。S1a,3

 上記の「歴史学」が言及する歴史とは、記録として残された歴史である。歴史の背景に消された事象は無数にあるが、存在したはずの事柄が、もし顧慮されるとすれば、その手がかりをベンヤミンは、アネクドーテに求める。
 アネクドーテとは挿話、あるいは逸話と訳される。その事実性は保証されず、史実としても残らない。歴史学とは「鋭い対象をなす」のだが、なぜアネクドーテが対象なのか、また、どのように歴史に関与するのか、そして、歴史について書かれる項目が、なぜ、ユーゲント・シュテール(仏語のアール・ヌーヴォー)の見出しを持つ、この項目に記述されるのか、理解し難い点かもしれない。

---
Anecdote:
 ①小話。逸話。
 ②ブレジネフ時代のソ連で盛んになった政治諷刺小話。広辞苑 第7巻』

語源
 古代ギリシャ語 an-(否定)+ekdotos(公表した),「公にされていない話」の意..
*1

---

 一方、ベンヤミン歴史観は下記のようにも読める。19世紀に到来した意匠様式であるユーゲント・シュティール(アール・ヌーヴォー)は、主に植物を題材に、自然界に見られる種々な形状を抽象化して意匠に取り込む様式をなしている。*2 この意匠は、決して歴史的様式を折衷することなく、取捨選択により大胆にモティーフを切り捨てる。残された特徴が形象に反映されるゆえ、歴史と形象と、どちらにおいても捨象されたものの痕跡が見えてくる。
 ベンヤミンの歴史概念が光をあてたのは、この捨てられた部分に対してだと見立てれば、
歴史の概念と意匠は関連してくる。関連するばかりか、レミ・ド・グールモンの「歴史の残骸そのもので歴史を創造する」という引用は、この論稿の核心のように感じさせられる。

N. 認識論に関して、進歩の理論

 唯物論的歴史叙述において構成される事象はそれ自体として弁証法的形象である。この形象は歴史的(historisch)事象と同一である。そしてこの形象は、歴史の流れの連続性から歴史的事象が偶然によってもぎ取られたことを正当化する。N10a,3

 「認識論に関して、進歩の理論」と題されたNの項目では、上記のように、弁証法的形象という言葉が用いられる。この箇所は、歴史が単に弁証法の連続によって叙述されるのではなく、意匠様式に見られるように「偶然によってもぎ取られた」ことを表明する。
 「もぎ取られた」歴史はどの程度、客観的なのか。
仮に客観性が約束されないのなら、歴史とアネクドーテとは、単に歴史に残るか残らないかの違いにすぎないのかもしれない。何れにしても、アネクドーテに関するベンヤミンの眼差しは、その矛先が「」に向けられる。

 Sの項目では、歴史は軍隊の秩序に、アネクドーテは街頭蜂起に見立てられた。アネクドーテにおいては、我々の方にグッと引き寄せ、我々の生の中に立ち入らせる」のである。
 捨てられつつある歴史をどのように捕捉するか、というベンヤミンの関心事は随所に見られる。下記の引用からは、「救い」の概念が、「風」という言葉によって言及される。

「救い」の概念について。概念という帆にあたる絶対的なものからの風(風の原理は循環である)。帆の角度は相対的なものである。N9,3 

 とある。

 ベンヤミンは、歴史と形象が遺棄する言わば"屑"のような事柄に、「街頭蜂起」のような性格を見出し、同時に、風をうける側の相対的な角度によって「救い」の概念を見出している。ベンヤミン歴史観に、相対的な「生」との結び付きが欠かせないことが見えてくる。「生きる」こととパサージュ論の試みは、隣接している。あるいは、「生」に入り込んでくる性質によって、歴史の屑が拾われる、と言う視点が見えると思う。

この仕事の方法は文学的モンタージュである。私の方から語ることは何もない。ただ見せるだけだ。価値のあるものだけを抜き取るというようなことは一切しないし、気の利いた表現を我が物にするようなこともしない。そうではなく、ぼろくずにーーそれらの目録をつくるのではなく、ただ唯一可能なやり方でそれらに正統な位置を与えたいのだ。つまり、それらを用いるというやり方で。N1a,8

 ぼろや屑を、ことさら手厚くもてなすことをしない理由が重視されるのも、それが「生」を引き込む方法だから、と見立てれば、街頭蜂起や、救いの概念といった上述の表記は、理解しやすい。そして、我々の日常の些細な出来事の中に、この視点がありありと見出される。

(略)…些細な出来事にこそ永遠に同一のものがありありと現れる、ということが示さねばならない。S1a,2

 ベンヤミン歴史観について見てきたが、上記のような仮説を、引き続き吟味しつつ、今後もパサージュ論の理解を深めていきたい。学習会では「『パサージュ論』は歴史書ではないか」という意見も出たが、それも納得感のある視点だった。

*1:Siedeno語源英和辞典』

*2:アール・ヌーヴォー | 現代美術用語辞典ver.2.0