イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『文学とは何か』(1950, 加藤周一)

神代植物公園

第32回MK学習会 12月1日 
参加者4名

 『文学とは何か』(加藤周一 2014 角川ソフィア文庫)について取り上げました。

 選書理由は、これまで課題図書として文学を扱ってこなかったから、というものがありました。なぜ、文学を扱ってこなかったのか、数年前のことを振り返りました。

 学習会の開催準備をしていたころ、平和のための知識を学びたいと、個人的な思いを抱いておりました。それが、現在も選書をお願いする図書館員さんの当時の興味とも重なり、集って関連するテーマ図書を学ぶことになったように思います。関心ごとだったリベラルアーツの歴史を調べたり、参加者を募ろうかと企画したり、準備が進みました。
 いよいよ始まった学習会の第一回目は国連に関する文献を取り上げ、また第二回では戦間期について取り上げ、第三回以降は、社会学や哲学に関する著作を取り上げることになりました。

 戦争に向かう時代の教訓や、そもそも人間の本質について知識を集めたいという思いが人文学、社会学、哲学へ向かい、それが学習会の方針に繋がったのだと思います。この頃には、20代、30代に小説に親しんでいた時期とは学ぶ方針も変わっていました。過去には、ボリス・ヴィアン村上春樹ジョン・アーヴィングヘルマン・ヘッセ司馬遼太郎村上龍ボルヘスなどを遍歴したこともあったのですが...。
 そのような経緯で、(小説だけが文学ではないものの)先人の知識から学ぶ会を「学習会」と呼んだことを思い出します。

 『文学とは何か』は、加藤周一氏、31歳の1950年に執筆されたものです。書籍化は71年。さらに文庫版として2014年に発刊されたものを今回の学習会では取り上げています。執筆当時の若さも相俟って、「果敢な」記述だと、文末に添えられた解説の担当者、池澤夏樹さんは仰います。
 また、文章の流れや見出しの構成が理系ならではの整え方になっていると思わされます。ここには医学博士の経歴を持つ加藤さんの思考の「果敢な」特徴が顕れていたように思います。

 冒頭から文学が何かと、概念を規定する積極的な試みがなされます。例えば、過去の文学作品に共通する特徴をもって、文学を定義できるか、と、加藤さんは疑問を抱きます。
 その問いに対する結論は「文学が何であるか」は、「文学は何であったか」からは直接、獲得できないと言うものでした。
 ちなみに、この結論は17世紀、D.ヒュームの「帰納の問題」を知っていれば、なるほど、と頷けるものですので、今回のテーマから逸れるにしても、合わせてご紹介いたします。加藤氏の記述は、下記のようなものです。

 文芸学に関連して、どうしても指摘しておきたいと思うことが、一つあります。それは、文学とは何であったかという問題が、文学とは何であるかという問題から独立して、あらからじめ客観的にはあり得ないということです。

『文学とは何か』p18

 過去の作品に共通する特徴から、文学の定義の(客観的な)一般論は得られないと考える加藤さんの立場は本書で度々言及されます。個々の文学作品に対する歴史的評価が定かでないことも多々あります。

 19世紀末のフランスの大文学史家フェルディナン・ブリュンティエールは、その文学史のページを、マラルメのためにはほとんど割きませんでした。しかるに、最近の史家アルベール・ティボーデは、マラルメの抒情詩集一巻を十九世紀フランス文学の代表的作品の一つとしています。『同書』p19

 帰納の問題とは、抽出するデータの範囲内では整合的な推論を導けますが、そもそも出現していない対象や、評価を見落とした対象を考察に含むことはできず、データの集合から一般論や抽象解を導出できないというものです。17世紀にニュートンの自然哲学が物理世界を席巻する中、帰納的に得られたものが、自然法則であってさえも、客観性が危ぶまれることをヒュームは指摘します。さらに、推論としてより正確な方法は、前提として抽象解を掲げ、その抽象的特徴に当てはまる具体的作品を実例だと推論するものです。こちらは演繹的な推論です。

 この、帰納と演繹と、同様の思考の流れが加藤氏の記述に顕著です。はじめに掲げる抽象解を、加藤氏は美学や人間的真実として掲げます。

 従って、我々にとって文学が何であるかということは、我々にとって美が何であり、人間が何であるかといういわば文学以前の問題から切り離しては考えられません。『同書』pp38-39

 なぜ文学に美学が関わり、人間的であることを「切り離して考えられない」のか、本書ではそれほど明確でないかもしれません。急に議論が展開したと感じる読者もいると思いますが、そのような推論方法を選んでいたからとも読めます。

 わたくしはその前提に触れたのちに、文学固有だと考えられるやや特殊な問題について、すなわち、詩について、散文の文体について、また小説家の意識について書きたいと思います。そこまでが、「文学とは何であるか」という議論の例証であり、解説であり、もしそう言って良ければ展開のようなものです。『同書』p39

 明確ではないかもしれない抽象的な定義も、その条件に適う文芸作品を、文学の実例と考える思考の流れがよくわかります。どのようにして人間的であることを限定していくのかと興味が広がりますが、一つの具体的解決が下記の引用から見られます。

 ジャン=ジャック・ルソーは、彼自身の人生を告白したので、人生一般を論じたのではありません。しかし彼の「告白」が、人間の感情に関する普遍的な真理を提出しているという点で、一束の心理学的事実に劣るとは考えられないでしょう。

 統計だけが普遍的な知識を獲得する唯一の方法ではない。特殊なものをその特殊性に即して追求しながら普遍的なものにまで高めること——それこそ文学の方法であり、文学に固有の方法です。『同書』p36

 一人の人間の告白から人類に敷衍可能な一般解が導かれることに、加藤さんの文学についての希望的な基準が見え隠れします。
 ルソーの『告白』と言う作品の表現形態は、加藤氏の論じる文学の定義にとっての好例でした。さらに日本文学では夏目漱石の『明暗』...
 しかし普遍的価値への言及は、(そう主張する本人にとって)伝統や歴史的経緯に関する専門的見識が必要のように思われます。
 すると、幅広い読者の抱く「文学」という平易な語句を一掴みにして、個別から普遍への一般解とする加藤氏の結論は、いささか勇み足なのではないかとさえ思わされます。

 この日の学習会の終わり間近には「ピンとこない」と言う意見が出ましたが、当日の談話中に投げかけられる率直な視点は、興味深いです。その後、自分なりにこの点に考えを巡らせると、ふつふつと何か、湧き出る思いがありました。

 それは、加藤周一氏の語る文学は、文学のとある一面ではないかということでした。

 文学は、一人一人の読書体験に根ざすものであり、個人の思考の領域も含まれると思えるのですが、どうでしょうか。文学の哲学があるとすれば、哲学者の哲学とは異なるのではないでしょうか。美学や人間的真実、これらが示す未来の倫理的インフラのようなものを追求する哲学とは異なり、文学は、その哲学的範囲に限定されないのではないのでしょうか。
 文学は、哲学的な普遍性に関わる必要もなく、その枠を超える無限性に関する普遍性を背景に持つのではないでしょうか。

 作品が読者に寄り添う時もあり、読者の個別の体験が文脈に重なり、現実に直面する身体性や自己投影の契機にも意義がある。結論に至らないことや葛藤する読者の思考の過程のどれもが、文学の射程なのではないか。

 と、思いが広がりました。

 学習会を開始した当初、「平和のための知識」を学びたいという思いは、現実を精緻に把握するための見識だったと思われます。それは、読解力や分析力のような洞察を含むものだったように思います。
 加藤氏の論じた美学は、その哲学の系譜において真摯な主張であり、普遍的な政治思想を条件とする文学的方向性を描いたのではないかと思えます。
 それはいかにも重要で平和的構想に違いないのですが、権威とは無縁であってほしいと切に思わされます....。という思いです。

 長くなりましたが、この辺りでブログを終えたいと思います。

 今回の学習会も自分の考えを広げられ、良い時間を過ごすことができました。ご参加いただいた皆様、意見交換有り難うございました。

 次回は、夏目漱石『明暗』...

 良いお年を