イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『社会学入門』(見田宗介 2016 改訂版)

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京都 元・淳風小学校

 

【マチノキッド学習会20:終了】✨

 テーマ図書:『社会学入門』(見田宗介 改訂版2017 岩波書店
 参加:3名

 上記を今回の学習会のテーマ図書としました。
 この図書は、著者の社会学へ対する姿勢が明確で、自分にとっては著者が感じたと思われる言葉の力や想像力の広がりを、わずかだけでも追体験させてもらった(と思えた)ような一冊でした。

 前回の学習会では大澤真幸さんの図書を取り上げましたが、大澤氏が見田研究室のゼミ生だったこともあり、今回は、その師にあたる見田氏の著作です。お二人の論旨の関連にも気がつかされ、楽しむことができました。謝意を込め、以下、敬称を先生とさせて頂いています。

 本書では、見田先生の体験談や、民俗学者柳田國男氏の文献などを通して、社会全体に対する社会学の役割について言及されます。
 “一人の人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題と繋がって”おり、“アクチュアルな問題を追求していく上での「学問領域的」な障壁のほとんどない”分野が社会学の特徴、といった旨も論じられております。

少なくとも社会学という学問の問題意識においてだけは、ぼくたちは、禁欲してはいけないのです。

 話題も多岐に渡ります。旅をして得られた1人の人間の素朴な視点から、現代社会の課題を俯瞰する視点まで、一冊を通して、豊富な視点が語られます。
 先生の試みを知るための鍵の一つは、社会に生きる生活者の自由が、その人自身と社会制度との双方に息づくための社会構造への理解です。この論稿では、<交響するコミューン・の・自由な連合>という概念が導入されます。

 学習会後に気がついたのですが、本書は2017年に改訂版が発刊されています。加筆された「あとがき」にはこのような案内が、記されておりました。

 補章「交響圏とルール圏(略)」は、未来の社会を人間の喜びに満ちた生の共存する世界として構想するときの理論的な骨組みを整理したものだけれども、『入門』としては少し難解と感じられる時は、ここは省略して、将来このような問題に関心が向かわれた時に改めて手にしてもらえれば、すっきりと論旨が納得されるかと思う。

2016年12月 見田宗介

 序章と、6つの章と、補章、で本書は構成されます。『補章』は、以前、この図書を読んだ時、脳がパンクしたことを覚えています。
 
 改めて、本書の内容ですが、序章・<越境する知>では、社会学の特徴とも言える領域横断的な研究の是非について触れています。

 けれども重要なことは、「領域横断的」であると言うことではないのです。「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかと言うと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である。と言う態度の結果なのです。p8

 この箇所では、日頃、感じていた研究活動のあり方について、自分なりに気がつかされるところがありました。
 明らかに、こうも読めるし、ああも読めると言う場合の論旨に対しては、その文章の論旨を精読して理解を深める必要がありますが、それはごく普通の態度ですし、アカデミックな作法も同様です。

 また、すでに共感したり納得しているような文章だったとしても、そもそも、その文面を通して、他の読み方も可能だった場合は多々あります。その場合であれば論旨に「共感」したり「引用」したり、する前に戻り、さらに論旨を精読していくことが、正しい作法です。
 読解の正誤については、客観的な判断がある程度できるので、その分野において確認されている水準に至ってもなお、査読が進められることになると思われます。なにより、その分野を突き詰めることで研究者であれば専門を深められますし、学問全体にとっての分業を進められます。

 一方、本を手に取った1人の読者は感じることに自由です。
 正確な読み方を重視するアカデミックな作法から言えば「感じる自由」がどこまで説得力を持っているかを問う事になると思います。専門分野において確証のない論旨をもとに論が進んだ場合に、その主張には慎重になるざるを得ないからです。
 明らかな誤読は訂正されるべきですが、正誤判断のできない論旨に基づいて論旨を発展させることより、もともとの論旨の背景をできるだけ正確に分析する方が、研究者の姿勢として優先される、としても不思議ではありません。
 すると、こと専門分野において、とある論旨に対して、他分野にも連想を生むような1人の人間の「感じる力」は、上記の場合には低く見積もられると、見立てられます。

 ところで、見田先生の論旨は、”近代の知のシステムは専門分化主義”であって”あちこちに「立ち入り禁止」の札”がたっていると周知するものです。それでも、ある条件のもとでは、前進することを奨励されます。
 つまり、その課題が自分にとって「誠実」である限り、最初に感じたものを消滅させず、探究を続けよと、エールを送るのです。おそらく、その時に働く主観は文献の背景や論者の主張の読解に対するものよりも、自分自身の課題に対するものだからだと思います。この点で序章の言及は、人文系学問に通じて重要だとも思わされます。

 しかし、この立ち入り禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむに止まれず境界を突破するのです。p8

 この点は、次回の学習会で取り上げる『ことばの危機』(集英社新書)を通して、また別の視点からも考えてみたいと思います。図書館司書さん、選書ありがとうございます。
 
 また、2章は、わずか18ページの中に、分野を横断するようなエピソードが語られ、人々の感じる力のようなものを丁寧に描いており、文学的にも情緒的にも瑞々しい章だと感じずにはいられません。
 個人的な思いとしては、実際に本書を手にお取り頂き、この2章だけでも目を通してもらいたい、と思うほどです。恐縮です。紫色の倫理や、魔力の話や、ベートヴェンの『歓喜の歌』の詩の内容が語られます。

 ところで、今回の学習会では、格差の構造など固定化される「軸の時代」や黙示録の話題を含む5章などにも、話題を振りたかったのですが、力届かず、でした。

 序章・2章の他、補章に重点を置きました。
 巻末に位置する『補章』では、
 現代社会が、親近感や共感でつながる共同態の性質と、社会的関係からつながる社会態の性質で形成されており、その相補的な構造が図示されたり、それぞれの生活の圏域において、人間の魂の自由がどのように関わるかを論じます。
 ちなみに以前の好奇心ブログでは、この項の関連文献にも言及させて頂いています。

 なお「魂」については、バタイユニーチェ論を引用する箇所があります。ニーチェの考えていたことや、魂のことなど、僕にはまだよくわからないことばかりですが、ただ、見田先生が繰り返し着目するこの二つの圏域については、ある程度理解を進められたように思います。

 自分にとっては難易度が高かった論旨なので、興味ある方は、参考まで眺めてみてください。中心的と思われる論旨を添付しておきます。
 
 今回の学習会も、参加いただいた方といろいろ意見交換が出来て、良い学習会となりました。ありがとうございました。

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社会学入門』
 補章

 社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった2つの発想の様式がある。
 一方は、喜びと感動に満ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実のうちに実現することを目指すものである。
 一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。これは、社会思想史の歴史的な分類ではなく、社会の思想の現在的な課題の構造である。
 社会思想史的に言うなら、そのどちらでもないようなもの、プラトンからスターリンに至る様々なイデオロギーや宗教を前提とした社会の構想史があるが、現在の我々にとって意味のある社会構想の発想の様式は、究極、この二つに集約されると言っていい。

 前者は、関係の積極的な実質を創出する課題。後者は、関係の消極的な形式を設定する課題。p172

 

 社会の理想的なあり方を構想する仕方の発想の二つの様式は、今日対立するもののように現れているが、互いに相補するものとして考えておくことができる。
 一方は美しく喜びに満ちた関係のユートピアたちを多彩に構想し、他方はこのようなユートピアたちが、それを望まない人たちにまで強いられる抑圧に転化することを警戒し、予防するルールのシステムを設計する。p173

 

 現代日本の都市に住む平均的な階層の1人の人間を考えてみれば、食料を生産する国内。国外の農民たち、牧畜者たち、石油を産出する国々の労働者たち、これら幾億の他者たちの存在なしには、一つの冬を越すことも困難である。この意味で人は、幾億の他者たちを「必要としている」ということもできる。 

 けれどもこのような、生存の条件の支え手としての他者たちの必要ならば、それは他者たちの労働や能力や機能の必要ということであって、何か純粋に魔法の力のようなものによって、あるいは純粋に機械の力か自然の力などによって、それが十分に供給されることがあれば良いというものであり、この他者が他者でなければならいというものではない。つまり他の人間的な主体でなければならないというものではない。
 他者が他者として、純粋に生きていることの意味や喜びの源泉である限りの他者は、その圏域を事実的に限定されている。

 これに対して、他者の両犠牲のうち、生きるということの困難と制約の源泉としての他者の領域は、必ず社会の全域を覆うものである。

 現代のように、例えば、石油の産出国の労働者たちの仕事に我々の生が依存し、またわれわれの生の形が、フロンガスの排出等々を通して、南半球の人々の生の困難や制約をさえ帰結してしまうことのある世界にあっては、このような他者との関係のルールの構想は、国家や大陸という圏域の内部にさえ限定されることができない。例えば一国の内域的な社会の幸福を、他の大陸や、同じ大陸の他の諸地域の人びとの不幸を帰結するような仕方で構想することはできない。

 つまり我々の社会の構想の二重の課題は、関係の射程の圏域を異にしている。

 生きることの意味と喜びの源泉としての他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、生きることの相互の制約と困難の源泉でもある他者との、関係のルールの構想という課題の全域性はある。圧縮すれば、我々の社会の構想の形式は、

<関係のユートピア・間・関係のルール>

 という重層性として、いったんは定式化しておくことができる。p177 

 

 つまりわれわれの社会の理想像において、すべての他者たちは相互に

<交歓する他者>and/or <尊重する他者>

として関わる。

 関係のこの二つの基本的なモードは、我々の社会の構想が、<他者の両犠牲>のそれぞれの位相に対応する仕方である。

 *「社会の理想像」をめぐる現代の代表的な論争である「リべラリズム」対「共同体主義」の対立も、この「圏域の異なり」という視点を導入して初めて現実的に解くことができる。p179

 

 核となる論点なのであえて繰り返して展開すれば、社会のこれまでの理念史のうちの「コミューン」という名称のほとんどが強調してきた「連帯」や「結合」や「友愛」ということよりも以前に、個々人の「自由」を優先する第一義として前提し、この上に立つ交歓だけを望ましいものとして追求するということである。このことの系として、それは個人たちの同質性でなく、反対に個人たちの異質性をこそ、積極的に享受するものである。

 …われわれにとって好ましいものである限りの<コミューン>は、異質な諸個人が自由に交響するその限りにおいて、事実的に存立する関係の呼応空間である。

 このように、…個々人の異質性をこそ希求し享受するものであることを表現するために、これを<交響圏>あるいは、<交響するコミューン>と名付けておくことができる。
 <交響するコミューン>というコンセプトには、…同質化し「一体化」する共同体の理想に対する、批判の意思が込められている。p182

 

 

社会学入門-人間と社会の未来 (岩波新書)
 


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