イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

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美しさを定義した人たちの話

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リサーチサイトに新しい記事を更新しました。
www.machinokid.net

(9/6updated)
 ところで本日は美学の話を掲載することにしました。

 太宰治の著作として『走れメロス』という短編小説があります。これは友情という美学をテーマにしたものとして有名ですが、実は、この内容は、独詩人シラー(Schiller 1759-1805)によるものでした。
 ベートヴェンの第9の歌詞を書いたことも広く知られるシラーですが、友情や美について詳細に考察を重ねた哲学者でもありました。考察を重ね、そして「美」を定義したのでした。
 一般的に、誰にでも当てはまる共通の美しさはないと言われます。人によって解釈も違うからです。だとすれば、定義など、無理だと思うのが普通の感覚だと思いますが、どうでしょうか。

 ところで、シラーの美の構想の基礎となったといわれるカントは、著書『判断力批判』の中で、道徳の根底にあるものを美学という形で定義付けました。シラーの場合は、どのような論旨だったのでしょうか。追ってみたいと思います。

『カリアス書簡』の中の例え話は以下のようなものでした。

厳しく寒い日に、一人の男が追い剝ぎにあって、丸裸にされて倒れている。
 そこへ、一人の旅人が通りかかったので、彼は旅人に事情を訴えて救助を乞うた。旅人は心を動かされて言う、
 「まことにお気の毒です。私の持っているものを喜んで差し上げましょう。しかし、その他の助力を要求しないでください。あなたの様子を見ることは私には耐えられないから。向こうから人々がやってきているから、この財布をあの人たちに与えて、助けてもらいなさい。」

 その負傷した人は言った
 「あなたの志は良い。しかし人としての義務が要求するなら、苦痛をも見ることを忍ばなければなりません。あなたの財布に手を入れることは、あなたの弱い感情を少し押さえつけることの半分にも価いしないでしょう」

 この行為はどういうものであったか。
 功利的でもなく、道徳的でもなく、寛大でもなく、また美的でもない。ただ単に感情的であるにすぎないところの感動から生じた親切というだけです。

 第二の旅人が現れた。負傷した男は再び助けを乞うた。
 この人は金には惜しいが、しかし人としての義務は尽くしたいのである。そこで彼は言った、「もしあなたのために暇をつぶすと、私は1グルデンの損をするだろう。もし損をするだけの金をあなたがくれるなら、あなたを肩に背負って、ここから1時間足らずの僧院に連れて行ってあげましょう。」
男は答えていう、「賢いやり方である。しかしあなたの親切は、あなたにとって名誉あるものではないと言わなければなりません。向こうに馬に乗ってくる人が見える。たった1グルデンであなたが売る救助をあの人は無償で与えてくれるでしょう。」

 この行為はどういうものであったか。
 親切でもなく、義務を果たすのでもなく、慈悲でもなく、美でもない。ただ単に功利的であるというだけです。

   旅人が高飛車すぎて度肝を抜かれるほどですが、それはさておき、旅人の譬えから読み取れるのは、ただ感情的な親切心、損得、義務、高慢、美的行為、といった五つの特徴です。

 第三の旅人が負傷した男のそばに立ち止まって言った。


 「病身な私の体にとって唯一の保護であるこの外套を手放すのは私には苦痛です。また私は疲れているから、私の馬をあなたに手放すことも苦しい。しかし義務は、あなたを助けることを私に命令します。だからあなたは、この馬に乗って私の外套を着なさい。そこで私はあなたが助けられるところまであなたを連れて行ってあげましょう。」

 負傷した男は答えた、「あなたは感心な人です。あなたの誠意に対しては感謝します。しかしあなた自身も困っているのですから、私のために難儀をさせられません。向こうから丈夫そうな二人の人が来ます。その人たちに私を助けてもらいましょう。」

 この行為はどういうものであったか。
 それは、純粋に道徳的であった。なぜなら、その行為は感情の関心に反抗して、法則に対する畏敬の念から行われたからです。

 

 次に二人の旅人が傷ついた男に近づいてきた。(男は)彼らの不倶戴天の仇敵であり、その男を殺して仇を報いるために、後を追っていたのだった。
 男は言った「今や、あなたたちの憎しみと恨みとを果たしなさい。私があなたたちから期待することのできるものは死だけである。」
 「否」と彼らの一人が答える「我々は二人であなたを抱えて、あなたが救われることのできるところまで連れて行こうと思う。」(略)これに対してもう一人の男が冷ややかに答えた。「待て、私があなたを助けるのはあなたを許すからではない。あなたが惨めな状態にいるからだ」(略)

「私はどうなっても良い。高慢な敵のおかげで助けられるよりは、惨めな死の方を選ぶ。」彼は起き上がって立ち去ろうとした。


 その時、重い荷を背負った第五の旅人が近づいてきた。
 この旅人は彼を見るやいなや、自分の荷物を下に降ろして自ら進んでいう、「あなたは負傷している。そしてあなたはもう全く無力である。次の村はまだかなり遠い。あなたがそこへ行き着くまでに倒れてしまうだろう。私に背負われなさい。急いで連れて行ってあげよう。」

 

 この旅人の行為がなぜ美であるかを考えておいてください。





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友人・ケルナーに宛てた手紙より
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『美と芸術の理論』-カリアス書簡 シラー(1973)
訳 草薙正夫(1936、岩波書店

   最後の旅人、キザですね。
   美しさというよりも、キザの定義にも聞こえますが、そういうことをシラーは構想しました。どことなく、走ろメロス、を想起させます、なぜ、第五の旅人の行為は、美しいのかを、シラーは説明します。
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