『芸術作品の根源』(1960 マルティン・ハイデガー )
音や騒音の殺到を聞き取るのではない…われわれは三発エンジンの飛行機を聞くのであり…我々にとってはあらゆる感覚よりも、物そのもののほうがはるかに近いのである(マルティン・ハイデッガー)
"われわれは芸術の本質が何かを問うている"
平凡社『芸術作品の根源』(関口浩訳)を取り上げる。本書は、序言、本編、後記、補遺と、ハイデガーの講義を聴講していたハンス・ゲオルグ・ガダマー氏による解説、訳者の後記からなる。
ガダマー氏によれば、本編の第一章は、時期的に、最後に書かれたものである。本書を通して論じられる幾つかの基本的な認識の類型を整理していることから、認識構造の分析論と捉えて良いと思われる。この章では、従来の認識の在り方を吟味した上で、さらに真理に関わる認識がどのようなものかに言及する。
ハイデガーは従来の認識の仕方を、下記の類型に識別する。
1. 物には様々な特徴があると認識する仕方
2. 物から直接知覚できる要素のみを認識する仕方
3. 物の形と素材といった把握作用によって認識する仕方
3こそ、物そのものの本質、上部(形相-客観)と下部(質料-主観)に、我々を関わらせる認識なのだが、あまりに伝統的な認識であるために、結果、「通俗的にして自明なものとなってしまって」いると、ハイデガーは論じる。
すでに語られてきた古くからの哲学的認識のあり方を知ることで、認識を「先取り」してしまい、物の本質を遠ざけるからだ。
本書で言及される真の認識の眼差しは、例えば、そっとしておく(auf sich beruhen lassen)ことを含むのである。
第一部で語られた物の認識の在り方を捕捉できれば、難解と言われる本書の全体像が理解しやすくなるだろう。
二部、三部を通して、ハイデガーは、物そのものの、本質を隠す働きに着目する。それを「伏蔵」(verborgen)という概念を用いて論じ、さらに、物そのものの本質の開かれていく性質を、「不伏蔵性」(Unverborgenheit)という概念を用いて提示していく。
美とは真理が不伏蔵性としてその本質を発揮するひとつの仕方である
『芸術作品の根源』P88
人の認識と物との関係、ハイデガーの言う「物性」が見えてくると、自然によって生み出された神羅万象も、人間の作った道具も、そして、創作を通して生み出された芸術も、その本質が何かを問えるようになる。
特に芸術作品に関して、それ以外の物の性質と区別して、このように述べる。
われわれは芸術の本質を問うている。
我々はなぜそのように問うのか。われわれが問うのは、次のような問いをいっそう本来的に問えるようになるためである。すなわち、芸術はわれわれの歴史的な現存在の根源であるのか、否か。
『同書』P129
この問いには、「芸術」は人間が人間であることを裏付ける根拠(根源)を持つと、期待されているのが、読み取れる。
この省察による知は、芸術の生成にとって先駆的にして不可避的な準備なのである。
ただそのような知のみが、作品に空間を、創作者に道を、見守るものに立場を用意するのである。
『同書』P129
本書で描かれる知のあり方は、物の多元的な価値に出会わせる視点を養うはずだ。自然物、道具、芸術の本質を捉える示唆に満ちているからだ。
ハイデガーは『芸術作品の根源』を言い表すのにふさわしいと考えた、ある詩の一片を引用して、三つの章を、終える。
ヘルダーリンはそれをこう言うことによって名づけている。
「根源の近くに住むものは、その場所を去りがたい。」
『同書』P130
本書では、物質と認識の間で経験される考察と葛藤が描かれている。俗に言う「多様性」を論じる際に、理解を深める手がかりとなるに違いない。