イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

拝啓、マルティン・ハイデガー

(2020.5.12 updated)
 ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーのとある文献を読み、この著作から引用をはじめる前に、自分に思い当たる幾つかのことを備忘録にまとめることにした。
 
ものの「機能と機能以上の何か」について

 ある日、「UCCKEY COFFEE以外、ネットで豆が買えない」と、落胆するコーヒー豆にこだわる友人と話をした時のことである。
 普段からコーヒーの美味しさを伝え合ってきた友人との会話だっただけに、その時点から、自分の冷蔵庫に鎮座する豆が、UCCのお徳用だったことは墓場までもっていくレベルとなった。

 ところで、コーヒー、タバコ、お酒など、楽しむことを目的に造られたこれらの製品は、嗜好品と呼ばれ、必需品とは区別されてきた。それは、人間生活にとって最低限必要な機能以上の何かであることに思いが広がった。


 趣味のDIYに用いる道具、お気に入りの食器、身に付けるブランドも、鑑賞したり、所有したりするだけで楽しめることがある。そこには機能以上の価値がある。場合によっては、水をグラスに入れて眺めて充実感を抱ける人にとっては、水でさえも水以上のものになるだろう。
 これらは、嗜好品ではない。けれど「嗜好性」はあるのだ。 
 必需品と嗜好品の区別は明確である。だが「嗜好性」に着目すれば途端に不明瞭になる。この線引きの難しさはもどかしいので、一旦ここで整理したい。

 店頭に並ぶ商品は、商品の機能や特徴が明確でなければ、売り上げにつながらない。
 一方、一人一人の経験に依存する「機能以上の何か」は十人十色である。
 どうしたら、多様な人それぞれの興味の領域を、商品化(機能化)できるかを売り手は考えた、と仮定する。考えた際、人の五感の中でも特に生理的な感覚や、専門家の評価のような、評価の定量化しやすい分野に関しては、商品化を進められることがわかった、と想像できる。例えば「鎮静効果」や「文化的たしなみ」としての機能があることに着目できた機能以上の何かは、ハーブティーとなり、現代美術と分野を設けられただろう。

 ものから感じられる十人十色の機能以上の領域だが、全て機能に置き換えられるわけでもない。ハーブティーにならないティーもあれば、芸術にならない創作もある。そこで、刺激や効能や、ステイタスやブランドが、嗜好性のあるものを嗜好品や芸術としての役割を付与するものの、そのロールモデルに収まりきれないもともとの余剰の嗜好性は、ずっと宙ぶらりんに、市場で亡霊のように漂っているのだ。

 ここまで確認すると、「機能と機能以上の何か」について、前者を左辺、後者を右辺ととれば、必需品がもつ明確な価値の方向へ、娯楽の要素が抽出されて商品開発へと進み、右辺と左辺の配分が右から左へ、機能以上のものから機能の方向へと移っているのがわかる。
 それでもまだ余る嗜好性に関して、人々の意見は分かれていく。それを重要だという人もいれば、断捨離する人もいる。この辺りが「機能と機能以上の何か」に対する損益分岐点なのだ。  

別の見方
 「機能と機能以上の何か」について言えば、前者は、定量的な価値を扱うので理系やAIの分野が、後者は、曖昧模糊な価値を扱うので文系の分野が扱いそうなものなのだけれど、そういうわけにもいかない。
 価値の平準化を推奨して経済効果を上げるため、文系の能力はソリューションや最適化の問題に費やされてしまうから、結局は文系の領域だと思われた余剰の価値の補強の問題については開発研究が進まず、次第に、文系の屋台骨が細っていく、そんな見立てもできる。

 イノウエは、少しづつではあるけれど、機能以上の価値の領域に、需要を見つけようとする一人だ。それも、人それぞれの主観的な視点、愛着、詩的感覚、想像力を、そのまま残す形でだ。そのために、哲学や疑問を広めている。
 そんな折、この物の二つの面「機能と機能以上の何か」は、すでに綿密にギリシャ時代に考えられてきたことがわかった。また、現代ではマルティン・ハイデガーが、とある著作の中で取り上げたイシューだと知った。批判も多い哲学者であるけれど、現代で取りざたされる問題に重なる部分が多くある。
 だとすれば、この問題は伝統的に引き継がれている現代の主要問題の一つだろう。それは、いたって日常的な課題なのだ。

 そういうわけで、あらためて、機能以上の価値に、需要を見つける文系の挑戦は、まだ、はじまったばかりだと思わされる。
 そんな思いにかられる読書体験となった。
 その著作は『芸術作品の根源』(平凡社ライブリー)マルティン・ハイデッガー