第11回マチノキッド学習会、無事終わりました。
前回ブログに引き続き今回も江戸時代が舞台です。なぜこの時代に、「会読」が盛んに行われたのか、という問いは『江戸の読書会』の著者、前田勉先生の探求するものでした。以下、平凡社の文庫版から。
江戸時代の儒学を考えるにあたって、まず押さえておかねばならないことは、江戸幕府が学問することを名誉や利益から動機づける科挙を実施しなかったという点である。『江戸の読書会』P26
経済的利益や社会的権勢を得られないにもかかわらず、儒学に励む人々が江戸時代に現れたのはなぜかという問題は、一層不可解な謎として浮かんでくるだろう。実はこの問題は江戸思想史の大問題である。P28
本書の前半では、この問いに向けて論を展開します。
広義の会読(かいどく)は、講義形式の講釈(こうしゃく)、参加者が順に講義する輪講(りんこう)、そして身分を問わず自由に意見を交わす会読(読む会読)と大きく三つにわかれていました。
本書では三つ目の会読を主題とします。その会読は、遊びのようなものではなかったか、とフランスの社会学者、ロジェ・カイヨワを通して前田氏は分析します。
カイヨワによれば、遊びの主要項目は4つに区分できるという(『遊びと人間』)。サッカーやチェスやビー玉をして遊ぶアゴーン(競争)、ルーレットや宝くじで遊ぶアレア(偶然)、海賊遊びをしたり、ネロやハムレットを真似て遊ぶミミクリー(模擬)、回転や落下など急激な運動によって、自分の中に混乱狼狽の有機的状態を作る遊びをするイリンクス(めまい)の四つである。
会読はこの中の競争という形をとるアゴーンに相当するだろう。 P125
さらに根源的な心理に関わる、ルドゥスであったとも言います。
ルドゥスとは、…「故意に作り出し、勝手に定めた困難ーーつまり、それを乗り越えたという事実が、それを解決したという内的満足以外のいかなる利点も持たないような困難ーーを解決するという喜び」(『遊びと人間』カイヨワ)を伴う遊びである。…「クロスワード・パズル、数学パズル、アナグラム、…推理小説の積極的読書」など… P125
江戸時代に会読で扱われた書籍は漢籍のものが中心で、のちに蘭学のものが増えました。それら難解な書物を通して会読をする動機は、ルドゥスにあった。と前田氏は考えたのでした。
その様子は、例えば「解体新書」を翻訳した杉田玄白らの記録に基づきます。
(杉田玄白と前野良沢)らは、眼前の実物にてらして「ターヘル・アナトミア」をオランダ人ディクテンが蘭訳した書(1734刊)の銅版画の正確さ・精密さに驚いた…
帰る途中、翻訳を思い立ち、翌日、前野良沢の家に集まり、「ターヘル・アナトミア」の翻訳を始める。しかし、この時点で、良沢以外、オランダ語をかじったものはいなかった。玄白などは、アルファベットさえ知らなかったのである。P127
…着手したこの日、明和8年(1771)、3月5日から、翻訳を完成して刊行した安永3年(1774)8月までの足掛け4年、良沢の家に定期的に集まった。
玄白はそれを「会業」、すなわち、会読と呼んでいる。「かくの如く思いを労し、精を磨り、辛苦せしこと1ヶ月に67会なり…」 P128
杉田玄白、アルファベットを知らずに「解体新書」の翻訳を、呼びかけたのですね。
のちに国学を興隆させた宣長の述懐からは、別の側面を読み取ります。
「なにすとしもなく、あかし、くらしつつ、いけるかぎりのよをつくして…」
日常性に没してしまうことなく、何か生きた痕跡を残したいという思い… P146
遊びとは違う、世に名を残したいという思いが、宣長の記述に描かれておりました。
このように、本書の前半では、経済的動機ではない、会読の動機が語られました。
ページの後半に進むにつれ、時代は幕末に移ります。そして自由闊達だった会読の本質的な思想が論じられていきます。
松陰の松下村塾の教育が生徒の一人一人の個性を伸ばすものであったことは、よく知られている。会読はその中で中心的な位置を占めていた。しかもそれは、…自由闊達な会読だった。P303
松陰は嘉永3年(1850)21歳の時に平戸、翌年には江戸に遊学する。江戸遊学中には、安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山の私塾に通い…自主的な会読を開いて1日を空けずに読書会に参加した。兄に宛てた書簡の中に、「会事の多きに当惑し候」と述べて、1851年5月頃の会読三昧の日常を報告している。P304
…合計すれば、「右の通り一月三十度ばかりの会にござろう」p305
吉田松陰は21歳の頃、1ヶ月に30回ばかり会読をされていたそうです。
次いで、著者の前田氏は、吉田松陰とも親交のあった横井小楠(よこいしょうなん、1809-1869)の学校論に焦点を移します。
はやくから横井小楠の学校論「公共」思想の卓越性に着目してきた源了圓(みなもとりょうえん)は、公論には二つの意味があることを指摘している。一つの公論は多数意見としての衆論の意味であり、もう一つの公論は、「徹底的に討議討論を重ねてそれによって形成された結論」の意味である。後者の公論が横井小楠のそれであることは明らかである P336
では、どうすれば「天下と公共の政」をなすことができるだろうか。この点、公開の場で、討論する公論こそが、小楠の求めたものである。源了圓が指摘する、「衆論」とは、異なる、「徹底的に討議(公議)・討論を重ねてそれによって形成された結論」としての公論である。
小楠の考えによれば、普遍的な天地公共の理に基づいているので、公開・解放できるのである。ただ、問題はある。この公開討論の場が、水戸藩のような徒党同士の暴力的な衝突の場とならず、理性的な討論の場となり得る保証はどこにあるのかという点である。ここで大事なのが、「講学」し合うことによって涵養される「誠意」の心であるのはもちろんなのだが、心構えのみではいかにも危うい。そこには、制度的な保障がなくてはならない。小楠にとって、そのモデルこそが西洋の議会制度だった。(苅部直「利欲世界」と「公共之政」--『歴史という皮膚』、岩波書店、2011年)P340
現在の議会制度が奏功しているかは別に、多数決の衆論と異なる、公論を保障する制度に着目した小楠の視点は新鮮です。余談ですが、開国に尽力した勝海舟も、坂本龍馬を小楠のもとへ遣わせて広い知見に触れさせたそうです。
そして、明治維新の1868年に出された、明治政府の基本方針、五箇条の御誓文の起案者、由利公正、木戸孝允らが、それぞれ、横井小楠、吉田松陰の門下生だったことを述べ、その成果を強調するのでした。
明治新政府の方針として公議公論の理念を明白に述べた(五箇条の)誓文の第1条は、横井小楠・吉田松陰などの会読の輝かしい成果だったのである。P345
やがて明治政府に議会制度が設けられ、貴族院と衆議院の二院制が採用されてゆく過程に、公論と衆論の区別に尽力した横井小楠らの思想があったのですね。
特徴的なのは、彼らの親しんだ会読が、経済的目的、党利党略や、利己心からではなく、自発性や「縁を離れた競争」に基づいていたことです。その自由闊達な議論が「公共の政」を論じるために機能したのだと、幕末、明治初期の会読の記録を通じて、知るところとなりました。
前田さん、良い仕事ありがとうございました。
そして、次回。
西周の仕事を追った『百学連環を読む』を読みたいと思います。
著者は、山本貴光、大先生です。
乞うご期待!