イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『未完の憲法』(奥平康弘 木村草太, 2014)

 

i'm exciting all

 猛暑日が記録的に長く続いた2024年も、ついに歳の瀬を迎えます。この社会派ブログも7年目に突入です。一年を振り返れば、ウクライナ・ロシア戦争が悪化の一途をたどり、パレスチナイスラエル間にもまた新たな紛争が起こりました。喫緊では、内戦状況の続いたシリアの政権崩壊が起こりました。世界情勢は波乱続きで、残念ながら期待するような平和状態は遠のくばかりです。
 学習会では、人文系の資料をいくつか取り上げましたが、一方で現実に対する無力さにも直面します。この先10年も、状況の変化がないのであれば、自分にとっての学術研究の意味が問われ、現在の活動の継続も厳しくなりかねません。今こそ自分には想像力が必要だと思わされます。
 そのような忸怩たる思いを抱く年の暮れには、誰しも空想のスイッチが入ってしまうのかもしれません。例えば、10年後、「こんなはずじゃなかった」と無粋で陳腐で情けない弱音を吐く人生が、自分の身に訪れるとすれば、それが将来の自分だと認めたくはないと思います。彼と自分は別人だ。おそらく彼は、ただの怠け者の他人に違いない。身勝手な妄想を駆り立てる逃避癖の誰かなのだ、と思うことでしょう。そんな彼は、過去に戻りたいと、懇願すると思います。そして、ある日、彼は行動を起こします。近所の本屋に駆け込んで、とある本を購入して懐に抱えて架空のタイムマシーンで過去に戻ろうとするのです。過去の自分に会って一冊の本を渡そうと試みるに違いありません。「この本を読みさえすれば将来を変えられる」と、あたかも10年後の未来が変わると信じているように、計画を遂行するのです...。もしそのような願いを叶える著作があるとすれば、今回、学習会で取り上げた『未完の憲法』なのだと思います。

 本作は、2014年に発刊された奥平康弘先生と木村草太先生の対談記録をもとに編纂されたものでして、33回目となる今回の学習会のために、選書係の方が丁寧に選んでくださったものです。決して未来の自分に手渡されたわけではありません。ですが、それでも今朝、僕は誰かに声をかけられたような気がするのです。「後は、よろしく...」と、ポケットにしまいこまれた気がするのです。そのような空想が、年の瀬には働くものです。

 仮にこの本が未来からではなく、過去から送り届けられた手紙だとしたら?そのように思いが膨らんでも、不思議ではありません。なぜなら、本書の刊行された翌年にお亡くなりになられた著者、奥平康弘氏の生の言葉が(印象ですが)まるで次世代へのメッセージのように収録されているからです。今朝、聞こえてきたあの声は、思っていた人物とは別の人、ということになるでしょう...。ですよね、先生? 

 長い空想もここまでです。空想スイッチをOFFにして、本作の対談内容に触れたいと思います。

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 先日開催されたマチノキッド学習会には3名が参加されまして、それぞれの意見もお互いに刺激しあいながら交わされました。課題図書となった『未完の憲法』は、著者の木村草太氏が34歳、共著の奥平康弘氏が85歳の時に出版されました。なお、以下のような論点で構成されます。

第一章 立憲主義とは何か?

第二章 改憲論議をどう見るか? 

第三章 現代の憲法をめぐる状況と課題 

第四章 日本国憲法の可能性と日本の進路

 第一章では、一見すると親和性の高そうな、立憲主義と民主主義の二つの概念が、実は対立するという視点から展開されました。対立するだけでなく、実際には憲法制定時の政府の要人は、国体の護持を最重要課題としたという主旨の背景が語られます。まさに二つの主義は大きく隔たる状態で現憲法は制定されたのです。
(以下、O=奥平氏、K=木村氏)

O 阪口正二郎氏の『立憲主義と民主主義』はまさに対立概念として両者の関係を捉えた著作であったわけです。 …例えば裁判所は民主主義的な制度の枠外にあります。裁判官は国民が選ぶわけではありませんからね。p28

 民主主義と立憲主義の関係からすれば、確かに公正中立であるべき裁判官は国民から選ばれません。この点では、民主主義というものの本質を考えさせられます。何もかも国民によって選択されることを意味するのか、など考えさせられます。*井上の疑問は文末に

 なお、立憲主義が脅かされる事態も本書の主題の一つです。1930年代ニューディール政策に象徴的です。公共投資を重視したケインズ経済学が、当時のルーズベルト大統領の中心的政策でした。本書には「裁判所に圧力をかけ判決を覆した」という旨が語られます。本来、司法が違憲だと判断したら、行為者がたとえ大統領であっても修正しなくてはなりません。 

O ルーズベルト大統領がニューディール政策を進めた頃には、司法権の優位が脅かされました。世界恐慌からの巻き直しを強力に推進していくにあたって、新しい法律をどんどん作って、アメリカ社会の改革をしていかなければならなかった。でも、その時に「司法権の優位」がどうしても邪魔になったんですね。そして、連邦政府の力を強化していった。ニューディール政策のいくつかの立法を違憲とする判決が相次いだこともありましたが、ルーズベルトは裁判所に圧力をかけてその判決を覆しました。

 ですが、裁判所と政府、いったいどちらが正しいのか?と、比較をすれば軽々に結論は下せません。二ューディール政策は、雇用を生み世界恐慌からアメリカの産業を復興させました。大学受験の、政治経済の分野では必出の巨大ダム、TRVによる建設など懐かしいです。一方、大規模な国家政策のために、例えば住環境にまつわる個人の権利が脅かされたことも想像に難くありません(推測です)。
 一方で、裁判所の判決が万能でないことも歴史に明らかです。奴隷禁止という近代的な法律を違憲と論じた1857年のドレッド・スコット事件はその有名な判例です。

K 最高裁は、”奴隷は憲法にいう「国民」には当たらず、「財産」である”と判決しました。つまり、奴隷禁止とすることは財産権侵害にあたり、奴隷禁止は違憲である、という判決だったわけです。P31

 この判決は、奴隷の禁止そのものを違憲としたのです。
 人間の平等原理からすればあり得ません。現代の常識からも言語道断ですが、立法の正当性が、どのようにして担保されるのかは、なお争点なのです。そこで、奥平さんはある意味で信頼をおく学者ジョン・ロールズの「民主主義的な立憲主義」を重視します。

僕は、ジョン・ロールズが名著『正義論』の中で用いている「democratic Constitutionalism」―「民主主義的な立憲主義」という言葉を使って、僕が想定する立憲主義をここで限定しておきたい P34

 と述べられるところに明快です。それにしても、民主主義と立憲主義を考える上で、「民主主義における『民』ということの意味について」(P35)、という問いには、一定の回答が必要に思われます。

 第二章は、改憲論議をどう見るか?です。本書の出版された2014年は、多くの有識者が政府への懐疑を露わにした年でした。それも翌年の8月に、安保関連11法案が強行採決されるに至る途上です。例えば、政府の表明した96条先行改憲案などは物議の的で、国民の3分の2の賛意を集めてから憲法改正の発議が行われることを定めた96条だけを、先に変えてしまわないか?という提案がなされました。
 あまりにも変則的な手段だと非難の対象となったのですが、木村草太先生は、安倍総理に直接お伺いを立てたそうです。するとこの批判に対して当時の総理は、

「いや、違うんです。国民に憲法を近づけたいんですよ」P82

 と、国民のための手法ということを強調されたそうで、さすが政治家さんです。政府への懐疑は第三章、「現代の憲法をめぐる状況と課題」の争点につながります。要人の取材拒否が一つの争点でした。例えば下記のような指摘があります。

K 報道機関に対して取材拒否をするというのは、報道姿勢に対する一種の名誉毀損であったように思います。p106

O こういうケースについてはやはり、裁判とは別のところで関係修復を図っていくしかないでしょう。いわば「文化の力」で、名誉毀損表現の自由の間のバランスをうまくとってやるしかない。p107

 木村先生は、政府要人の取材拒否の態度を既存メディアに対する名誉毀損として扱うべきだと考えます。これとは状況は異なるものの、クラスで無視され続ける生徒がいたら、その状況には何かしら暴力性を感じます。取材拒否が、直接名誉毀損に繋がるかは別に、看過できるものとは思えません。

 一方、奥平先生は、文化の力という言葉を用いて、全体像を捉えようとされているのがわかります。名誉毀損の対象を特定できない場合、それはどのように補償の対象を特定するでしょうか。この点も、議論の俎上に上ります。

 不特定多数に対する侮蔑は1950年代から問題視されるようになったことが、奥平さんの時代背景のご説明から、知ることができます。参考までに抜粋します。

O 従来の法で罰せられる名誉毀損というのは、侮辱する側とされる側が個人として特定できた。しかし、ある人種やある宗教の信者などという不特定多数を対象にした侮蔑行為の場合、従来の名誉毀損の概念ではカバーしきれない。しかし、侮辱された側の集団に属する人たちが不快な思いをし、被害を被っていることは間違いない。そこで、集団を対象にした侮蔑行為についてヘイトスピーチという概念が新たに生まれたわけです。p115  

 新しい社会ではヘイトスピーチや対象を個人に特定しない集団差別を、仮に許容したり放置する管理者に対して、責任が課される、というのは、頻繁に耳にします。近年SNSの管理者は、被害者のユーザーから情報開示請求があれば応じなければなりません。古典的な課題とは異なり、被侵害法益の公共化と個人化が進行しているとも指摘されます。

被侵害法益ーー法によって保護される利益(法益=所有権など)が、現代社会において、旧来の古典的な人身侵害や、所有権侵害などに加えて、「被侵害利益の主観化」と「被侵害利益の公共化」という、二つの方向で拡大と変容がなされている。いわゆる私的な利益と公共的利益の二重性をめぐる問題が発生しつつあり、困難な判断が迫られている。「景観利益をめぐる国立マンション訴訟など」pp115-116

 これらは現代社会に特有の権利問題なのです。上記のような内容は現代的で学びがいのあるものでした。
 第四章は、さらなる現代的な課題に木村先生が警鐘を鳴らし、奥平先生が穏やかにご対応される印象を持つ内容でした。奥平先生からは、「日本国憲法が完璧な内容だなどとは思っていない」ただ、前文は「理念を語る部分なのだから理想主義的でいい」また「日本人の憲法理解もまんざら捨てたものではない」と、国民を信頼する様子が伺えます。未完の憲法を常に是々非々において、更新されるべきものと考えておられるところにも感慨深いものがありました。それも、常に立法の根拠に立ち返り体系立てながら背景をご説明される姿勢には、学ぶべきことが多々ありました。また真摯にご自身と奥平先生との考えの違いを整理する木村先生の真剣な眼差しからも、学習することの意味を感じます。今回の著作も読みやすい中に本質があり、考えるヒントも満載でした。

 毎回お集まりいただいてる皆様、そしてブログをお読みいただいた方、ありがとうございました。

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*井上の疑問
立憲主義と民主主義の関係について。民主主義という場合、裁判官が民主的に選ばれていなくても司法の従う法律は立法府が定める以上、司法権も民主政治の枠に収まっている。なので、司法そのものは民主的なのではないか。

立憲主義という場合。憲法が権力者の専制を抑制する役割がある、という点を重視すれば、権力者と立法者の所属が分立していることが根本的に重要なのではないか?その場合、立法府内閣府を明確に分離する方針こそ、積極的な民主的立憲主義なのではないか。そのような疑問がありつつ、今回のブログは以上です。

今年もお世話になりました。皆様、良いお年を。