
今年度も始まりました。
よろしくお願いします。
ここ10年間。
苦手であったけれど、興味深かった分野。
ひとくくりに言えば、『哲学』を学び続けてきました。
そして私は、今、怒ってます。
学んだにかかわらず、増えるのは、やっかいに思われるもの、だからです。
初めから、それを期待したわけでもなく、どちらかといえば、ひとつづつ減らした方が喜ばれたような、それです。
中学生や、高校生なら、増えるほど賞賛されますが、平凡なただの40のおじさんには、むしろ、世の中の奥様方から、たたんでタンスにしまって欲しいと願われる、それです。
一言で言えば、夢です。
夢というからには、漠然としてます。社会人になると多くの人がそれを置き換えるところの、事業計画書といった具体的なものとは訳が違います。もっと、やわらかくてネバネバしており、そして、大それたもの。別の言葉で言えば呪いです。
まったく、ある日、夢に謎の人物。
キルケゴールという人が出てきて、(夢の中の)高校の図書館から自分を呼びました。ページを開くと、中から森が飛び出したり、立体的なバースデーケーキが立ち上がるわけでもなかったのに。です。
今ふりかえれば、あの時、30歳の時に、受験勉強を始めたのが原因かと思いますし、もっと前からのような気もしますが、きわめつけは図書館で働き始めたことでした。そこで、致命傷を負ったような感じ、、
傷口を広げて、そこに活字という名の辛子を練り込んだような感じ、、がします。
挙げ句の果てには新聞を読むのも日課。本棚に聖書。引き出しにはカントが鎮座する始末。呪われたと言わずに、なんと言えば良いだろう。
こうなると、森友問題、改憲問題、国際紛争、教育問題、が哲学という高級菓子の受け皿のようになり、どれも専門家が指摘するところの諸管轄の責任者の問題であると同時に、その責任の一旦が自分にあると明言できてしまう。(与党以外の議員の趨勢が違法とみなす法案を、次々と可決する不思議な民主政治を到来させた日本の人気争奪選挙での本当の敗者は、私たち一人一人の中から消えかかる哲学自身だと思えるから)
さぁ、責任逃れを果たすべく、釈放を願って、まずブログを書きます。
というわけで、今までクールに哲学ブログという雰囲気のおしゃれブロガーとして歩き出そうとした自分でしたが今後は、いよいよ調布の田舎のおじさんらしく、もう少し、言い逃れ的な、自己弁明型のブログで送りたく思う次第です。
なお、現在運営中のリサーチサイトも継続するので、どうぞ訪ねてやってください。
ふとパソコンの隣をみると、机の上には、エラスムス(1466-1536)の『痴愚礼賛』の訳出し本が。ちなみに、慶応大学出版会のものです。こんな辛子みたいな文章、一体なんの役に立つのか。
そう、思えば思うほどと、ワクワクするじゃないですか、まったく、こまったものだ。
