『方丈記』(1212)の有名な一節を、改めて反芻してみると、今までと違う感覚に襲われました。そのことを今日は書いてみます。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
著者、鴨長明の、この書き出しは、世の中に常なるものはない。日本古来のいわゆる「無常観」を随筆に込めたものだと解説されます。
確かにそうなのだと思います。
ですが、ふと感じることになった別の解釈をさせて貰うと、この随筆の肝は、愛情じゃないでしょうか。
というのも、この川の流れに着目した時の長明さんの心情が、淀みに浮かぶうたかたの、その時の太陽に照らされた輝きや、移ろいゆく表情の豊かさなどの情景に基づくものだとしたら、この文は、無常を表しているというよりも躍動感や、哲学的な意味で言うところの「実存」を表していると思うからです。もっと言えば、川の情景への親しみの結果として、無常観が表現されたと思うからです。
かく言う理由は、ここ数年、社会学にまつわる文献や両義的な語句、つまり同時に反面的な意味を含む語句(例えばLaïcitéなど)に関心を抱いていたから、かもしれません
さらに、昨今、地域優先、現状追認、自国優先など、あまたと綴られる即物的価値を象徴するキーワード、『ポピュリズム』が跋扈していて、逆説的に好奇心を刺激されたからかもしれません。
方丈記からは、期せずして自分の興味の要、好奇心の核を際立たせられたように思います。
分野を跨いで、哲学の視点から、スラヴォイ・ジジェクはこう言います。
キルケゴールにとって、反復とは『反転した追憶』前方への運動、(新しいもの)の生産であり、(古いもの)の再生産ではない。("反復" - イノウエさん 好奇心 blog)
さらに。
カントの思想の『精神』を反復するためには、
カントの字義を裏切らなければならない。
カントの思想の核と、それを支える創造的衝動を実際に裏切ることになるのは、まさしくカントの字義に忠実であり続けるときなのだ。このパラドクスを徹底することによって、何らかの結論を引き出すべきだろう。
(スラヴォイ・ジジェク、『大義を忘れるな』2010)
寄り道すると、カントは平和や美の基準を徹底するために、公法や芸術の在り方に着想した人でした。なので、ジジェクは、カントの法(あるいは芸術批評)そのものに賛同するかどうかより、それらを新たに発見するような、『力』に着目する方が良い。そんな視点が、この箇所に綴られています。
パラドクスとは、既存の字義や存在そのものの価値でなく、それを生み出した側の活力の価値という、あたかも同居しないような価値同士の矛盾を抱くこと、と解釈できそうです。
最初に戻ると、『方丈記』から。
ぼくは、盛者必衰の比喩として投影される川そのものでなく、常に別の様相を呈して流れる川の躍動感という、愛情にも似た妙な感覚を、鴨長明から教えいただいたように思います。それは既に表面化された現実と、現実を生み出す側の価値との共存の感覚です。
というわけで、そんなパラドクスを携えて、また頭を柔らかくしたいと思います。分野の定まらない話題で、読みにくいという方もいるかもしれないですが、、それはそれで、今日はよく眠れそうな気がします。快眠。
- 作者: スラヴォイ・ジジェク,中山徹,鈴木英明
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