*今月の学習会はお休みです
こんにちは。
埼玉県の深谷市に詳しい方なら知ってるかもしれません。
この土地にまつわる逸話は多くあります。
中には、明治新政府の外交官、井上モンタこと、井上馨(1836-1915)によって構想された上州遷都論という壮大なものまでありました。
この論は、深谷市の北部、群馬県太田市を含めた一帯に、首都東京の機能をすべて移してしまおうというものでした。明治19年の話です(お詳しい方の話をお聞きしたいです)
ところで、太田市はかつて新田荘(にったのしょう)と呼ばれた荘園の中心でした。鎌倉後期の武将、新田義貞(1301-1338)の故郷です。
義貞はこの地から倒幕の志士を集め、鎌倉街道を南に進んで、武家出身の北条氏を倒し幕府を打倒。後世にわたり人気を博した武将でした。現在も、鎌倉の稲村ヶ崎、府中の分倍河原などに史跡が残されます。
何より、新田家が清和天皇(850-881)の本家の血筋、いわゆる天皇家の嫡流だったことは支持を集めた要因でした。
時代は変わり、その後、戦乱を経た300年後。
徳川家康(1543-1616)は、自らを、新田の末裔と称します。
もともと三河・松平家の家康が、徳川と姓を改めたのも、この新田荘の、徳川町(当時の得川郷)に由来しました。(典拠)
さらに、家康没後、三代将軍・家光は家康の言説にならい、日光東照宮の奥殿を、新田荘に移築させます。
世良田という地に建立され、世良田東照宮が生まれます。
この地は、利根川によって賑わった地域でした。
当時から水運として活用されたこの付近の河原は、近隣から物資が運ばれる要衝だったそうです。徳川御三家の一つ、茨城県水戸藩からの参拝客が少なくなかったと、とある案内人の方から、ご教授いただきました。
一方、利根川を挟んだ南側が深谷です。
県境は凹凸で、南岸に県がまたがる地域もあります。この地が利根川の氾濫原だったことがわかります。〇〇島という地名が深谷の北部に多いのですが、かつての中州がそのまま地名に残されたこともわかります。
その土のおかげか、深谷では藍染の原料がよく採れ、養蚕も賑わいました。また立地から、当時の先端の学問・水戸学も伝わりやすいのでした。
深谷駅から太田まで車で20分
水戸学は、先日の学習会 でも知ることになりました。陽明学(中心となる思想は知行合一、実践を重んじる哲学)を基礎にしたものだそうです。その意味では深谷で実業家が育ったのは、水戸学の影響だったのかもしれません。
例えば、日本の資本主義の父、一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一(1840-1931)は、この深谷、血洗島で生まれます。
栄一が7歳のころに通い始めた私塾は、10歳年上の尾高惇忠(じゅんちゅう)が塾長を務めていました。
のちに富岡製糸場の初代工場長を務めた彼もまた、水戸学の学徒でした。栄一氏とは、いとこ関係であり生涯に渡り親交を深める師弟関係でした。
渋沢家と尾高家は藍染に使う藍玉(あいだま)で財を築いた豪農でしたが、この土地は、商業と学問の育つ土地柄だったことが伺えます。
その後も栄一氏は出世を遂げます。
ある日、惇忠氏は、栄一氏に青淵(せいえん)という諱を与えます。そして自らを藍香(らんこう)と名乗るようになりました。
「青は藍より出てて藍より青し」という言葉が思い出されます。(凡庸な師から優れた弟子が出るという意)
栄一は、のちに水戸の徳川慶喜公に仕えるようになり、さらに、維新後は、明治新政府の重臣、井上馨に起用され、文明開化の日本をともに支えるほどの人物となりました。
井上馨も、この土地に魅了された一人でした。
渋沢なしでは組閣は出来ないと、伊藤博文首相の後任を断った経緯が井上馨にはありました。
彼の構想した上州遷都論も、渋沢栄一の影響があったことは想像に難くありません。
いまでは、ネギとシネマで有名な、静かな町、深谷ですが、訪ねてみると水が湧き出すかのように、歴史のエピソードが溢れるのでした。きっと、充実した時間を過ごせるかと思います。
*尾高惇忠生家にてお聞きした話を元に、リサーチをしました。
たかはしさん、ありがとうございました。
そんな不思議な土地、深谷へは、池袋から高崎線でたった1時間で行けます。
外出に良い時期が来たらその時はぜひ、深谷を検討してみてはどうでしょうか?
東京がいつの日か、この地に移ってくるかもしれません...
世良田の風景