イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

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シンポジウム『25年目のスレブレニツァ』②

 先月1月13日、聴講させていただいたシンポジウムでは、被害者遺族の代表団『スレブレニツァの母』への賠償金の割合について、知ることになりました。(前回のブログ)

 シンポジウムのリンクはこちら⬇︎

昨日1月12日(日)と今日13日(月・祝)の2日間、本研究科主催の公開シンポジウム... - 立教大学大学院 21世紀社会デザイン研究科 | Facebook

 この話題を取り上げる理由は、日常生活で不条理に思うことが仮にあっても、その背景や因果関係を知ると多少なり将来に向けて、今何をしたら良いかが見えてくるからです。
 わからないものを無理にわからなくても良いですが、世の中に対して必要以上に悲観的になったり臭いものに蓋をしたりする、諦観からは抜け出せると思います。
 (今回のブログは世界で最も複雑と言われるバルカン半島の歴史を扱う内容です。誤謬箇所などは随時訂正していきます)

 というわけで本題。

 原告『スレブレニツァの母』とは、ボスニア紛争中のスレブレニツァで亡くなられた8372名以上の犠牲者の遺族の代表団です。
 第1次大戦後、六つの国*で構成された旧ユーゴスラビア連邦は、1980年、カリスマ的指導者、チトー大統領を失うと、各国で独立機運が高まり、崩壊に向かいました。
 ユーゴスラビア崩壊の過程で犠牲となった様々な民族のうち、一部の民族の遺族の代表が『(ジェパと)スレブレニツァの母』です。少し離れた地名、ジェパを含めることもあります。 *スロベニアクロアチア北マケドニアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロ

 80年代に本格化したユーゴスラビア紛争の中で、1991年、いち早く西側に近いスロベニアクロアチアが独立を果たしました。続いてギリシャに接する北マケドニアが独立すると、92年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ国民投票を強行して独立を宣言しました。セルビアコソボ自治州もすでに独立を宣言していましたが、軍事力によって新しく国境を設けることは許されていませんでした(1648年のウェストファーレン条約以降の国際慣行)セルビアも許容できませんでした。にもかかわらず、西洋諸国は介入せざるを得ず、国家樹立を承認する事態となりました。人命保護のための特別な措置だったと言われます。(日本は2008年にコソボ共和国を承認)
 残るセルビア・モンテネグロで連邦は維持されましたが2006年に分裂し、ユーゴスラビアは瓦解しました。

 

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Yugoslavia - wikimedia


 スレブレニツァは、セルビアの国境に接するボスニア・ヘルツェゴビナ東部の4万人弱の街です。クロアチア人(カトリック)、セルビア人(東方正教会)、ボスニャック人(イスラム教)、主に三つの宗派の民族が、共生していました。
 独立の前年、91年に隣国クロアチアが独立していたために、クロアチア人以外の2つの民族セルビア人とボスニャック人の対立が激しさを増しました。ボスニアの東部では、フォチャをはじめとする幾つもの地でボスニャック人の被害が、より甚大となりました。スレブレニツァでは、8千人以上が殺害されました。95年の話です。第二次大戦以降、最大のジェノサイドだと言われます。
 これらの惨事を、日本をはじめ先進国各国は止められませんでした。

 2007年、オランダ・ハーグ地方裁判所にて、遺族団は提訴しました。派兵を要請した国連と現場の任務に就いたオランダ軍に対して住民の保護責任をめぐり賠償を求めるものでした。
 虐殺をなかったものとするセルビア政府のために、それが行われたかどうかを示す証拠を揃える必要もありました。
 以下は雑駁な進捗です。
 2014年 ハーグ地裁は自国オランダ軍の責任を認める
 2017年 賠償割合が定まる。被告・原告ともに折り合わない
 2019年 最高裁の判決が下される。原告『スレブレニツァの母』に支払われる賠償額は請求額の10%と決定される

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https://www.getyourguide.jp/sarajevo-l2281/srebrenica-massacre-and-drina-canyon-tour-from-sarajevo-t139268/

 シンポジウムでは、この判定の根拠として、国連の責任が免除されている点に着目されました。下記の条項と、さらに国内法規で、具体化されていたことを、知ることができました。(登壇者、岡田陽平さんの報告から)

国連憲章 第105条

1. この機構は、その目的の達成に必要な特権及び免除を各加盟国の領域において亨有する。
2. これと同様に、国際連合加盟国の代表者及びこの機構の職員は、この機構に関連する自己の任務を独立に遂行するために必要な特権及び免除を亨有する。
3. 総会は、本条1及び2の適用に関する細目を決定するために勧告をし、又はそのために国際連合加盟国に条約を提案することができる。

国連憲章テキスト | 国連広報センター


 オランダ政府は、国連の任務で現場に配属されました。その点では、最高裁が、10パーセントだけでも、オランダ軍の単独の過失を認めたことは、被害者側にとって不幸中の幸いだった、という見方もあるかもしれません。(注:下級審では30%と判断されていたが減率している)

「10%」

 

 そもそも国連の免責条項は、妥当なのでしょうか? 

 国連の正当性を知るために、バルカン半島の歴史を確認することにしました。

 国連は創設以来、75年の歴史があります。
 セルビア国教となるギリシャ正教系の民族と、イスラム教系の民族との争いの歴史はざっと700年ですオスマン帝国樹立1299年)ユーゴスラビア紛争に関わる、国連による治安維持の正当性は、この土地の、利害関係の歴史と密接であることは想像に難くありません。そこで、世界史の必要性に直面します。

 バルカン半島の南部は、かつて東ローマ帝国が存在しました。オスマン帝国によって1453年に滅ぼされ、さらにセルビアボスニアも侵略されました。18世紀、パクス・ブリタニカと言われる時代には、中国・インドとの貿易路の確保のために、この地にイギリスが介入することもありました。19-20世紀には、ハプスブルグ家がボスニアを管理下に置き、その後、統治を進めていきました。独立を望むボスニア内のセルビア人は、サラエボ事件を起こします。第1次大戦に突入するも、終戦後、民族主義は強まりました。
 クロアチアナチス・ドイツの傀儡政権が生まれました。そもそもバルカン半島の各地で、ロシアはスラブ人主義を煽り、介入を繰り返してきました。半島はロシアにとっても勢力拡大の要衝だったからです。東西にも南北にも、民族主義的、地政学的な意味を、この半島は荷ってきたとわかります。典拠:世界史の窓

 ボスニア紛争だけを見れば、一方的に加害者側のように見えたセルビア人も、大国の息がかかっていない時期を見つけられないほど、歴史の中では、列強の政治戦略の渦中に位置したのかもしれません。

 なお、資料映像から知ったところ、スレブレニツァでの惨事の時、国連は住民保護のための十分な軍力を行使できませんでした。
 国連軍は無理だとしても、西欧諸国で組織したNATO軍の空爆でさえも、エリツィン大統領から批判を受けるものでした。
 安保理の決定を経ない初めてのNATOの爆撃は咎められ、その後のコソボの独立時のNATO軍事作戦も、2014年のクリミア侵攻時のロシアの口実ともなりました。
 当時の、国連の人命保護の合意形成が十分に築かれなかった理由は、大国の攻防戦の延長にあると言えば、一旦の説明はつきやすいかもしれません。
 なぜなら、歴史は、列強とロシアの攻防が絶え間なくバルカン半島近郊を支配してきたことを、顕著に示すからです。MachinoKidのリンク参照)

  『スレブレニツァの母』にとって加害者側の責任を問うときに、バルカン半島を舞台に繰り広げられた利害の対立が、責任を担う主体の一部だったと仮定すると、問うべき課題に着目しやすくなる、というのが、リサーチ後の所見です。


 
下記にて、列強がロシアの勢力拡大を防いだ時期をベンチマークに、まとめました。

 

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