6月7日、第9回マチノキッド学習会、無事終わりました🎊
課題図書は、ハンナ・アーレント『全体主義の起源』
長編の歴史哲学書でした。
参加者それぞれで、部分ごとに読みましたが、バスケットマンの方にも参加して頂いて、分かりやすくなり、感謝です👍
全体主義の起源とは?
ふつうに生活するぼくらが、何気なく同意してることにも、その芽があるそうです。
「これは、けんけんガクガクしかじかで、ダメと言わざる得ない!」という、論理性にも、その起源が見え隠れします。
何か、失敗が起きた場合、暴言や汚職や不摂生、時にはただの嫌悪感ですら、暴露された時、その人の責任は、どこまで追求されるでしょうか。
誰もが持つような世間一般の論理性≒常識Aに照らし合わせてみると、Aを支持すればBと言わざるを得ないことがある。そしてCの関係が見えたとするとDについても責任を問わねばならぬ、と、アルファベット順につづいて最終的にZにまで、論理は、結論にまでたどり着きます。
もしくは、途中で論を止めて仕舞えば、失敗者を擁護していると見なされかねない。
そんな状況が、論理の強制力として普通の人の中にある、のだそうです。
拙い想像力で恐縮ですが、例えば、このような事件が思い出されるのでした。知る知らないに関わらず、反社会組織の忘年会に芸能人を呼んでしまった芸人が、いたとする。
その芸人さんの、個別の事情に配慮してしまうと、反社会的な活動を擁護すると見なされるかもしれない、そもそも反社会的な活動は許されない。
芸能人の仕事は公の性質を帯びている。だから模範にならざるを得ない、それを踏まえれば、本人の自覚の有無はさておき解雇が当然。そんな論理が立つ。(このケースはそれが妥当だとしても)
ロジックの強制力とは、そういう普通に思える常識的な判断の水面下にあるかもしれない、と思わされました。
ちなみに機械的な議論でなく、人間らしい議論が不可欠になるわけですが、例えば、そのために必要な生活態度を、活動的な生活によって着目するのが別の著作『人間の条件』の要旨です。
ふむふむ。
ところで、
『全体主義の起源』で描かれた題材には、ある時期のユダヤ人への憎悪がありました。ドレフュス事件と言われる冤罪事件も、その引き金となったそうです。
歴史に根付いた特定の民族への憎悪と、思想主義が重なり、さらにカリスマ指導者の呼びかけのもと、法そのものより、法の根拠に信頼がおかれ、普通の良心的な論理性をもった国民全体が、AからB…Zへと向かい、最終的に支持をしたのが、民族浄化だったそうです。
これが民意を圧政する専制政治とは似て非なる、全体主義の象徴的事例となりました。
全体主義…の仕立て上げを行うものはイデオロギーそのもの--人種主義もしくは弁証法的唯物論--ではなく、イデオロギーに固有の論理性である。この点において最も説得力のある論法、ヒットラーとスターリンがともにすこぶる愛用した論法は、Aと言った以上Bと言いCと言わねばならず、このおそるべきアルファベットの最後まで続けて言わねばならぬという論法である。
論理性の強制力は、ここに起源するもののように見える。
全体主義的統治の理想的な被統治者は、筋金入りのナツィでも筋金入りの共産主義者でもなく、事実と仮構の区別をも真と偽の区別をも、もはや見失ってしまった人々なのだ。
アレントは、希望を書きます。これを人間の偉大な能力、先日ブログでも取り上げた「創始の力」と言ったり、「活動的生活」と言ったり、します。
ぼくたちの生活に全体主義の芽があるというと、少し怖いですが、人間らしく思考をすることは、その処方箋になると思えば、いくらか安心です。
上記は、今回のイノウエの着眼点でした。
その他、南ユダの地が、ユダヤ人の名称の由来になった説を紹介していただいたり、どこの国の人でも接点があれば信用が生まれるなど、参加者それぞれの視点が持ち寄られ、新鮮な時間となりました。
選書をして頂いてる司書さんも、参加者さんも感謝。
なにより、今回も参加費、200円で聞けるとは!
第10回目のマチノキッド学習会も、乞うご期待👌
The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)
- 作者: Hannah Arendt
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