『人間の条件』 (1958 ハンナ・アーレント)
この著書は、志水速雄氏によって1994年に翻訳されました。英語版の『Human Condition』を基に翻訳されましたが、アレントの主題を的確に表したのは、もしかすると、母国語、ドイツ語版『VITA ACTIVA』だったのかもしれません。ラテン語で意味するところの『活動的生活』です。
アレントは画一主義・行動主義と戦う哲学者です
知識と思考とが、永遠に分離してしまうなら技術的知識の救い難い奴隷となるだろう p13
これに勝るとも劣らないほど驚異的なもう一つの出来事は、もっと身近にあり、やはり同じように決定的である。それはオートメーションの出現である。p14
行動主義(ビヘイヴィアリズム)とその「法則」は、不幸にも、有効であり、真実を含んでいる。人々が多くなればなるほど、彼らはいっそう行動するように思われ、いっそう、非行動に耐えられなくなるように思われる p66
世の中の趨勢から解放される「活動的生活」を提唱しました
私の意図は…「活動的生活」の活動力の政治的意味をある程度確実に明らかにしようとすることである。p110
歴史は「活動」を、なかなか明確に区別しませんでした
伝統的ヒエラルキーにおける観照の圧倒的な重みのために、「活動的生活」それ自体の内部の区別と明確な文節が曖昧となった…
この状態は、近代が伝統と訣別し、最後にマルクスとニーチェがこのヒエラルキーの順位を転倒したにもかかわらず、本質的には変化していないということだけである。p31
私たちにとって重要なのは、その後の事態の発展のために、このような区別を理解しようとしても、それが異常に困難だということである。私たちの理解では、この境界線は全く曖昧になってしまっている。p49
新しい公共とは
労働・仕事・活動の区別を明確にすること
※「労働」は私財・消費財を生む働き、「活動」は公共・世界につながる働き
無世界性の経験に厳密に対応している唯一の活動力が、労働なのである。p172
このような生命過程の内部では、人間は労働する力を得るために生き、消費するのか、それとも逆に、消費の手段を得るために働くのかというような、目的と手段のカテゴリーを前提とする問いを発することは意味がない。p235
人間の活動力は、すべて、人々が共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人々の社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。p43
※「仕事」とは耐久性のある制作や生産物の事
ときに消費財(労働の結果)になり、ときに生産物(活動の結果)になる
「社会化された人間」の内部では、労働と仕事の区別は完全に消滅するであろう。
なぜなら、すべての物が客観的で世界的な特質において理解されるのではなく、生きた労働力の結果であり、生命過程の機能であると理解されるために、全ての仕事が労働となるからである。p143
社会が自ら進んで受け入れている唯一の例外は芸術家であって、かれらは、厳密にいえば労働する社会に残された唯一の「仕事人」である。p189
公・私の区別を明確にすること
「公的」という用語は、世界そのものを意味している。p78
ある活動力が、私的に実現されるか、それとも公的に実現されるかということは、決してどうでも良い問題ではない。p71
公的領域のリアリティは、…無数の遠近法と側面が同時的に存在する場合に確証される。…他人によって見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人が、皆このようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である。p85
時間と労力が一層多く費やされているのは、私的領域においてか、公的領域においてか?その職業の動機となっているのは私的なものに対する配慮(cura privati negotii)か、公務に対する配慮(cura rei publicae)か? p138
・私的配慮?
(労働生産物、生命過程…)
※労働の目的は、ほとんどが消費活動に向けられている。目的は多様であっても、最終的にはほとんどの場合、私的消費に結びつく。
労働と生命過程の循環運動の結びつきを強調するのは珍しくなかった。例えばSchulze-Delitzschは、その講義Die Arbeit(Leipzig,1863)にて、「欲望ー努力ー満足」の循環を描くことから始めている。「最後の一口ですでに消化が始まる」p207
近代社会では、…生産は何よりもまず消費のための準備行動であって、ここでは、「工作人」の活動力の特徴としてあれほどはっきりしていた手段と目的の区別そのものが単純に意味をなさなくなっているのである。p235
・公的配慮?
(公的生産物・言論・活動…)
※アレントの言う「生産」とは、個人の創意工夫、卓越性の発揮される公的活動。公的世界で耐久性をもつ物質や政治体制を意味する。
ギリシア人ならareteと呼び、ローマ人ならvirtusと名付けたはずの卓越そのものは、いつの場合でも、人が他人に抜きん出て、自分を他人から区別することのできる公的領域のものであった。p73
教育も、創意工夫も、才能も、人間の卓越にふさわしい場所となっている公的領域の構成要素に取って代わることはできないのである。p74
活動と言論の「生産物」があり、それらはともに人間関係や人間事象の網の目を構成する。p149
活動と言論の「生産物」は、そのままの状態では、ほかの物が有する触知性を欠くだけでなく、消費のために生産されるものよりも耐久性がなく、空虚である。
それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、聞かれ、記憶され、ついで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など。要するに物にならなければならない。p149
ここまでたどり着いた方に質問です
言論と活動は、人間が物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式である。この現れは、人間が言論と活動によって示す創始にかかっている。しかも、人間である以上、止めることがでいないのが、この創始であり、人間を人間たらしめるのもこの創始である。p286
「活動する」というのは、最も一般的には、「創始する」「始める」という意味である。p288
活動しますか、労働しますか?
論旨は複雑かもしれませんが、著書からは、アレントの見識の凄みを随所に感じることができます。ぜひ手にとってみてください。
- 作者: ハンナアレント,Hannah Arendt,志水速雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/10/01
- メディア: 文庫
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