イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『判断力批判』(1790 イマヌエル・カント)

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イマヌエル・カント
(1728-1804)第三批判書

 を取り上げました。


 同時代の、文学者、哲学者にはもちろんのこと、後世の哲学だけでなく、芸術を語る時にも、この人の文献が出典として頻出します。

 彼の文献は難解と言われます。その難解さが、カントの人気の秘密の一つかもしれません。わかった時は登山者のような気持ちです。苦労して登頂した結果、そこから見えた太陽が美しかった、という感じかもしれません。もはや読了後には山頂に旗を立てる気持ちです。

 もちろん、カント哲学は難解だからという理由で後世に影響したわけではないです。カントから、フィヒテシェリングヘーゲルを経て、ドイツ観念論は完成した、と解説するドイツ哲学の入門書に何度も出会うほど、後人を裨益(ひえき)しました。(裨益…さっそく翻訳者の篠田さんの語彙を真似ました)
 また、批判された面も多々あります。

 カント哲学を完成させたと称されるヘーゲルの哲学は、その後、キェルケゴールによって批判されました。また、サルトルは、カント哲学を「認識の哲学」だ。と、形骸的な哲学と見なしたほどでした。(1956『存在と無』)

 キェルケゴールの批判とサルトルの批判は少し違います。

 サルトルは、自由とは「自己の深淵から湧き出る」と自己の自由を主張しました。その哲学を、同時代の社会学レヴィ=ストロース(それが正しいかは別に)批判します。「自我の檻の囚人となったサルトル(1962 『野生の思考』)という風に。その論調はかなりの迫力でした。

 ところで、ヘーゲルの哲学は、あたかも未来を予想するような哲学だったので、この哲学を「媒介」の哲学だと、批判したのはキェルケゴールでした。本来の自由は、言葉の媒介を必要とするわけではなく、自分の深淵にある、と主張したので、サルトルの主張とキェルケゴールの主張は似ているようですが、普遍的な知の有無について、相違があります。

 レヴィストロースやキェルケゴールは、その点で普遍性を擁護します。すると、ヘーゲルへの批判は説得力があったけれど、カントへの批判は、それほど功を奏しなかったことがうかがい知れます。
 個人的な感想程度のものですが、
こう見ると、哲学者の戦いが面白いですね。

 ヘーゲル哲学のその後は、言わんこっちゃない!という感じです。

 当時のヘーゲルは、弁証法という哲学を有名にしました。この哲学への信頼はやがて、弁証法唯物論という論理を展開したのでした。

 弁証法とは、正・反・合の過程を経ます。
 Aと否Aの統合する際に、新しいA'が誕生する。このA'が次の否A'と合わさり、新しいA"が誕生する。という考えです。すると、思想は必ず、絶対的な知へと向かっていくはずです

 弁証法唯物論とは、別名マルクス主義といいます。資本主義は、やがて社会主義を経て、共産主義へと導かれるという論理的背景に、その正統性を元に、強硬な手段も採択されてきました。よくも悪くも思想家の影響は甚大なのですね。

  ところで、カント自身が影響を受けた哲学者も何人もいます。普遍性の哲学を疑ったヒュームの経験哲学にも、自由を称賛したルソーの自然哲学にも、目的論を神学に高めたヴォルフにも影響を受けました。もとは天文学の専門だったのでケプラーも愛しましたし、と話題も膨らみます。

 そこで、要点をお伝えします!

 
 カント哲学にとって、ぼく自身がもっとも有り難がっていることは何か!

 と聞かれれば、一言で『判断力批判』への取り組み、だと言います。

 というのも、カントの「判断力」への分析は、個人の潜在的才能を開花させる役目を帯びているからです。日常の中の誰にでも当てはまる調和する能力について、この著書は触れるからです。

 カントのいう、断力とはどのような力なのか。

 一言で言えば

 思考に頼らず感情に関わらず、目の前の価値を識別する力です。

 カントはその能力を、Reflexion(投影・反省)のフォームだと考えました。思考に頼らないのであれば、その判断は独善的になるもしれません。それを、どうしたら区別できるかも問題になります。検証方法は簡単です。

 重複しますが、思考に頼っていないか、感情に働いていないか、を地道に確認することです。

 すると、自分の判断が、独善的か普遍的か。或いは、主観的か客観的かを、ある程度、検証できると言います。

 なお、正しい判断が働く時、調和(harmony)の心地が生まれます。その意味するところは、第三者もその心地よさを共有できる性質があり、その性質が発見された、ということだと言えるかと思います。

 これは実感する他に検証のしようがないものなので、カントの理論は仮説です。さて、この仮説の正しさは、証明は出来るのか。


 上記に書いたように、個人が実感することや、
この仮説を支持する人がマジョリティとなることでしか、証明できないと思います。

 ちなみに、前回の学習会で取り上げた「ハンナ・アレント」は、判断力を基盤に、政治論を展開しましたが、ここにも実感を伴う人と伴わない人で、著作から抱く感想は変わります。

 少なくとも、知識として哲学者が何を構想したのかを知るだけでも、面白いと思いますので、どうぞ、機会があれば、図書を手にとってみてください。 

 カントは様々な学術書に引用されるので、文体に馴染んでおくことをお勧めしたいです。

 マチノキッド井上の、イチオシ著作『判断力批判』どうぞ、一度、手にとってみてください。

 

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)