イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

ポピュリズム台頭までの哲学史

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12月4日、日本時間22時。
オーストリアでは大統領選挙、イタリアでは憲法の改正の是非を問う国民選挙が間もなく始まる。
どちらも、自国のEU離脱を促す排外主義的な政権樹立の可能性が秘められているのだが、Brexitやトランプ氏の勝利など、昨今取りざたされるポピュリズム政治台頭の背景を、経済格差や金融の仕組みなど形而下学の諸問題からでなく、僕の知るところの哲学史から追ってみようと思います。


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人々を魅了した哲学の歴史
(2017.2.5updated)

●~16世紀
宗教的価値観(西欧・近代以前)
➡︎人々は律法や教義を価値の中心に据えていた。

●17世紀〜
経験主義(イギリス)
➡︎金銭や既に価値の認められるものや快適さ、など即物的な価値に基づく利己心が判断の基準にされやすかった。
「人は、真っ白な状態(タブラ=ラサ)で生まれてくる」ジョン・ロック(1632~1704)
「パン屋がパンを売るのは、博愛の心からではなく利己心からである」アダム・スミス(1723~1790. 『国富論』)

大陸合理主義
(フランス・ドイツ=神聖ローマ帝国
➡︎人は、生まれた時から理念によって本質に関わることができると考えられた。
「物を見る時に絶えず理念が働いている」ライプニッツ(1646~1716)


●18世紀
カントの哲学
➡︎ドイツの哲学者イマヌエル・カントによって経験主義と合理主義が統合された。

人は三つの能力(分析力・理性・判断力を含めた体系的能力)を通して、主観と美意識を働かせ、さらに世界平和や優れた芸術を産み出したり評価できると考えた。

1. 分析力(...悟性)は、瞬時に物事を分析する力、例えば、利益を把握する、経験主義の視点
2. 理性は、物事を推論立てる能力、夢や将来の構想を描く、合理主義の視点
3. 判断力は、道徳や美学的なセンスを伴う能力。例えば、公共哲学や芸術の視点

1->利己主義になりやすい 
2->理想論になりやすい 
3->平和の視点を育てる

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カント賛成組
● 19世紀
ドイツ観念主義etcフィヒテヘーゲル
➡︎世界精神(理念)が社会を発展させると考えられた(絵に描いたモチだと批判も)
Ex. 国連の基礎を作る。マルクス主義を生む。
共産主義や、普遍的人権の構想、コミュニズムを生むetc

カント批判組 
●20世紀前半
実存主義etcサルトル
➡︎観念主義は絵空事にすぎないと論じられた
「人は何かの目的に従って生きるわけでなく、生きることが目的そのものである」
「人は絶えず自由の刑に処せられている」
「実存は目的(..本質)に先だつ」
サルトル (1905~1980)
(経験主義や個人主義が広まる)
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●20世紀中盤
構造主義実存主義の否定) 
人の主体性は、構造側に決められている、と考えられた。

Ex. 自然界にある無数の元素から少数のものが集まり、例えばタンポポを形成する。同様に無数の音の中から少数の音声が組み合わされ、その地域の言語、例えば日本語が形成される。各々の形成過程は無数から少数が選択され、同種のものを構成するという共通項がある。そのため、人間の主体性にも普遍的な構造が備わっている。と、考えられた。

➡︎比較文化人類学において人間の普遍性は開かれている。
➡︎サルトルを論破。『野生の思考』
レヴィ=ストロース(1908~2009)

●20世紀後半
ポスト構造主義(脱・構築主義
➡︎人の普遍性や体系的な哲学に対して、または実存主義のような内向きの哲学に対して、それらの概念は曖昧なものだと指摘した。

ドゥルーズ(1925~1995)
・人の主体性は非連続と連続の混ざるリゾーム状態。
・人は矛盾する
・考え抜かれた賛成票と思いつきの賛成票には差異がある。
・普遍性には、奇跡のニュアンスが含まれる
これらのことに着目しよう!見直そう!
➡︎
Ex.「反復」「差異」「記憶」の概念を導入する。etc

現代
・ポスト構造主義の哲学によって、言葉には二重の意味があることや、生体の記憶や差異の影響があることが、論じられた。人は、理念をもって生まれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
また、実存主義構造主義も、同時に成立するような多くの矛盾を肯定する哲学が直近の哲学である。

ーーーーーーーー
僕の知るところの哲学史は、上記のようなものです。

そこで、なぜ、現在のポピュリズム政治や排外主義に傾向するのか、仮説を立てました。

・ポスト構造主義の哲学が象徴するように現代社会は複雑で、体系的な理解が困難である。

・思考を疲弊させるより、シンプルな理解や、開放感、いわゆるカタルシスを、ぼくらは欲している。

・はっきりと目に見える価値を重宝する経験主義は、判断の基準としやすい。

・結果的に、多様な矛盾を抱える現代の哲学ではなく、複雑な問題を切り離す排外的な哲学を、受け入れやすい。

➡︎ポピュリズム大衆迎合主義)が社会に台頭する
(UK離脱問題、トランプブームetc)

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こういうと身も蓋もないですが、上記の仮説は、ぼくたちが、わかりやすさを求めたり、認知コストを削減することが好き。ってことが背景にあるのかと思います。

なんども歴史は、経験哲学だけに基づくいわゆる利己主義と、知恵への愛情(フィロソフィア)に基づく公益優先の利益重視の立場との間を行ったり来たりしている様子。

そこで昨今離れつつある、フィロソフィアに基づく流れを取り戻すには、一言で言えば、「頭を耕す」という意味での、Culture、Cultivation=「文化を育てる」ことに、尽きると思います。
どうやって?。
という問いに、ポピュリズム社会は直面しつつ。その答えは、一人ひとりがすでに自分の方法で探っているそれ、ですね。
自分にとっては、知恵や命に対する愛情をどう育むか、という問題に直結します。


今年もお世話になりました。
8月には祖母が亡くなり、10月には新しい命が誕生しました。
命の不思議さ、輝きのようなものを感じる年でした。
みなさま、来年もブログ書くのでよろしくお願いします。^^

形而上から形而下へのパリ盆地

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写真:Chim↑pom 『明日もまた見てくれるかな』の会場にて

先日、図書館員の方からある本を貸してもらったのですが、今回はその受け売りです!

『シャルリとは誰か?』(エマニュエル・トッド、2016)

この本は、2015年1月7日のシャルリ・エブドの事件の後、フランス全土で見られた大規模な民主運動について、「私はシャルリ」とメッセージが掲げられた、その現象を歴史人口学者の見地から検証した本です。
トッド氏の見解は冷淡なもので、フランス国民の行動が一種の倒錯やヒステリーのようなものだと断罪して、その根拠を詳細に語りました。

データに基づいた緻密な分析もさることながら、この辺の大胆さも面白い。

たとえば。
1960年以降のフランスで、脱キリスト教が本格的に進んだ、ということを受けて一言。

信仰が変質したり崩壊したりすると、その後にしばしば革命的な事件が起こる。形而上学的な枠組みが消失すると、人々の間にほとんど機械的に代替イデオロギーが浮上する。それらのイデオロギーは、それぞれが標榜する価値において多様だが、たいてい物理的に暴力的なものとなる。

人々から哲学(meta-physics)がなくなると、価値観は多様になるが、その大体は物理的(physical)に乱暴になるという話です。

それから社会学の中ではとても有名な、キリスト教の"予定説"(免罪符を買えば救済されると考えたカソリックに対するルターの宗教改革の時、出現したカルヴァン派の説)に言及します。この説では、何かをしたら救われるという条件を排斥した信仰に基づくので、救済される人は予め定められている、と考えられた。
そこで、カルヴァン派の影響下にある信者は、自分が選ばれているに違いないと信じて勤勉に資本を蓄え、フランスではユグノー、イギリスではピューリタンとなり、産業革命を通じて、現在君臨するアングロ・サクソン経済の基盤を作ったと言われる。そこで...

ルター派の運命予定説は、救済の可能性の前で人々が不平等であることを、人々が生まれる前から永遠の神の意志によって意義申し立ての余地なく、選ばれているか除外されているかが決まっているということを断定していた。この権威主義的で不平等主義的な神学が、1933年には、地上における即時の奴隷と不平等という要求に置き換えられたのだ。人種によって人間が選別された。人間の資格はアーリア民族の占有物となり、ユダヤ人は絶滅収容所の地獄へと宿命づけられた。ルターのいわゆる永遠の断罪が世俗の次元に転移されたのだった。

トッドさん、なんと、宗教改革の偉業とナチスの暴挙を結びつけてしまいました。さすがw

もともとの原義は形而上学(知覚できない観念的な思想を扱う学問=哲学)によって血が通っていたはずなのに、形而下学(知覚できる現象を扱う学問=実学)を通して世俗的になり、差別を生む。というような価値の両義的な問題は、とっても面白いです。

結局、あの「私はシャルリ」のデモは、脱キリスト教と貧困格差を特徴とする現代の、街ゆく人たちが、理性では否定しているはずの人種差別を、実は生理的乱暴さに関わるところで肯定したものだったと言います。
それは、まさしく難民受け入れの問題や、EUからの離脱問題、扇動政治、日本で言えば、外国人恐怖症など、もろもろ単純化される価値観に帰因するのだそうです。

ちなみに、トッドさんが乱暴と感じているのは、この著書の中ではIS関係のテロリストに焦点を合わせるのでなくて、テロリストの個別的な問題とイスラム教徒全体を積極的に分離しようとしなかったシャルリの姿勢を受け入れたフランス政府と国民の暴力性に対して、なんですね。

それから前から自分が気になっていた二つの疑問の一つを解消してくれました。

A. 風刺とはいえ少数派の拠り所とするものを冒涜するデリカシーの無さはどこからくるのか?
B. 教典に過激派組織の生まれやすい構造があるかを検証できるか?

この著書では、Aの回答を社会背景に見つけていたので、半分、腑に落ちました。ということで、

Laiciteの言葉もそうですけど、記号化による理解しやすさと、もともと血の通う原義との間にある、アンビバレンス(両義的)な価値の問題に、ポピュリズム化する現代社会は、いま直面してる、そんな感じを受けました。

ところで、先月はブログを初めて飛ばしてしまいました。本が読めなかったというのもあるんですけど、友人のクラウドファウンディングの目標額が達成されたり、なにより、井上家にNEW BABYが誕生したりと、盛りだくさんでした。やる気がないわけではありませんw

ということで、これからも、よろしくおねがいします。
読んでくれてる人で質問などあればどうぞ、コメントしてください。

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 <a href=*1" title="シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 *2">

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 *3

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

なんて面白いんだNHKで紹介された今縫えるさん

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(2017,1,17updated)

NHKの100分de名著で、名著57の回は『永遠平和のために』でした。著書はイマヌエル・カントさんです。

名著57 永遠平和のために:100分 de 名著

【指南役】萱野稔人津田塾大学教授)

聞き役に徹する伊集院光さんが、いつも敷居の低い目線に言い換えてくれます。

ところで、4回に分けて名著を紹介するこの番組、今回は、今縫えるカントさんです。
ちなみに、自分の働かせて頂いている図書館では、一部の嘱託員の間でなんと「今日のNHKカントだよ〜」の触れ込みがあったほど、期待する方もおりました。今回はこの4つに分かれた構成でした。

1回目「戦争の原因は排除できるか」
2回目「世界国家」か「平和連合」か
3回目「人間の悪が平和の条件である」
4回目「カントが目指したもの」

特に、最初の回では、誤解されやすいカントさんの言いたかったことを、分かりやすく紹介します。
例えば、「戦争の原因」である軍隊。について、カントは、常備軍を廃止せよ。と命じます。

そこで、
「軍を廃止なんて理想論は現実で通用しない。カントは理想主義すぎて現実を見ていない」
と、誤解されるといいます。

しかし実は。
カントは常備軍という名の傭兵(報酬を目当てに雇われる兵)を禁止しただけで、祖国のために武器を持つ志願兵は否定しなかった。という展開で、ほんとうは、カントって現実主義なのだよ。と指南役の先生が案内してくれます。わかりやすい。

カントの誤解を解く、といえば、有名な誤解の一つに、このようなエピソードもあります。

ある日、友人があなたの家を訪ねたとします。
聞けば、殺人犯から逃げてきた、とのことで家に招き入れます。
しばらくすると犯人がやってきて、「誰かこの家に逃げ込んでこなかったか?」と、あなたに尋ねます。
この時、嘘をついても良いか?

という質問に、カントは嘘をつくのは許されないと、考えます。
この考えは、あまりに堅苦しい印象がもたれると、指南役の方も指摘します。

そもそもそんな状況に立ち合わない、と言われるとそれまでですが、もし自分がこの状況に置かれたら、友人を助けるために「ここには居ない」と答えると思います。

カントは、なぜこの嘘を許さないのか。

それはつまり、こういうことです。
場合によって嘘をついても良い、いわゆる必要悪の嘘を認めると、例えば、より多くの命に関わる嘘も、必要であれば、許されることになります。
重大な国家間の取り決めの場においても、その場しのぎの嘘が許されてしまい、条約の反故や、隠蔽工作、人命に関わる様々な口実に援用される。とカントは考えます。

もともと、個人と国家を、同一の原理に遡って展開するカントの哲学は、大きな話のように聞こえる永遠平和についての話も、だんだんと何を言おうとしているのかが、わかってきます。

ところで、カントの哲学の骨子を論じた有名な著書に三大批判書があります。この三つの著書も『永遠平和のために』の理解を助けるので、番組で取り上げられる日が楽しみです。

とはいえ著書は難解で、本を手に取る時間もない方のために、イノウエの理解した範囲でのカント哲学の面白さを、できるだけ分かりやすい表現で解説を試みたいと思います。間違いのご指摘もあるかと思いますが、ぜひ、ご批判ください。

わかりにくすぎて、触れることもできなかったカントを、少しでも面白いと思えるような試みです。
篠田さん翻訳の原著では使わない表現もありますが、ご了承ください。
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今縫える・カント

1724年生まれのカントは、18世紀まで社会に浸透していた損得で物事を判断する一般的な習慣、いわゆる経験主義に、苦言を呈します。
(経験を重宝することは良いことであっても、過度になると、快適さや金銭など、即物性の高い価値ばかりが信奉され、主観の美意識は損なわれやすい、と考えられた)

近代以前、経験主義を抑制していたのはカトリックを中心とする宗教やその他の、神秘主義でした。1648年に、ウェストファリア条約で新教(プロテスタント)と旧教の対立する30年戦争が終結すると、公式に新教が認められ、新教の流れをくむイギリス経験主義がますます勢力を強めていきました。

イギリスではジェームスワットの蒸気機関が発明され、実利的な哲学が推し進められる中、ヨーロッパ大陸では理念が常に至高の価値だとする合理主義の立場が優勢で、フランス革命も間もなく始まろうとする激動の時代に、カントは現れます。

カントはイギリスの重視する経験主義にまさり、さらに宗教を語らずしてそれまで、人々が神と言っていた神秘性を、人間性や主観の中に見いだします。そして、その主観=主体性の美意識を語り尽くしたんです。

では、どうやって?
一つ目は『純粋理性批判』を通して、です。

人は知覚したり経験したりできない対象にまで、理性を広げていく結果、検証できないものまで信じこんでしまったり、無用な対立を生んだり、時には、どこそこの啓示が降りてきた、や、なんとなくそう思うという根拠で人を説得しようとする場面に、出くわします。
普通の人から見ると困ってしまいます。

憶測ではなく客観事実だけを、話せ、と僕らはよく考えたりします。

ですけど、結論から言うと、カントは理性が推測したり何かを探求していく性質を重宝します。それは、危険なものではなく、方向を間違わなければ、誤解を避けることができるばかりか、自分らしさを引き出す実践的なものだとカントは考えます。

ということで、まずカントはこの著書で、理性と感性の違いを大きく分けて、さらに、理性の働きを解明していきます。その中で、人間の知性は、いわゆる、悟性、理性、判断力の三つ構造を持つことを暴きます。

悟性ってなんだか聞きなれないですよね。
現代風な理解を書くと。
・悟性は、物事を知覚して判断する、現在でいうところの分析力に近いです。
・ちなみに理性は、知覚できないものの因果関係を探究する論理性に近いです。
・判断力は、そのどちらの間にも働く美意識を伴う主体性、です。

この三つの知性が、人間性の中に混ざり合い、ある時には混乱を生じさせたり、経験主義に陥らせたりしますが、ある時には、実践的な自分らしさに気がつかせ、自由な人間を育てていく、という感じで、知覚や認識の構造をひも解いていきます。

ちなみに、悟性を中心にした価値観、現代風に言えば、分析力を中心にした価値観は、損得や快適さを偏重して物事を判断するので、これを従来の経験主義になぞらえ、自然の状態と、解釈します。

それから理性に偏重した価値観は、神の有無に固執したり、経験主義を否定するような展開を生んだりして、対立を生みます。これを大陸合理論(当時、イギリスの経験論に対抗した)になぞらえました。

また、判断力、いわゆる生まれ持った主体性は、芸術と公共哲学、自分らしさやユーモアに関わるものとしてカントは重宝しました。

という流れで、1冊目の批判書では、人の知覚の構造を通して人間性が何かを解明していきます。


二つ目の『実践理性批判』では、
人は悟性を中心にした状態、いわゆる「自然の状態」から理性を中心にした状態「自由の状態」へ移り変わることができると言います。それは単に利害関係を分析する状態から、自分らしさ、いわゆるカントでいうところの判断力を働かせた状態への移行を意味していて、やがて公共性に関わるポリシーを自分に課すことになる、という旨を伝えます。
その自由の状態を発見する理性を「実践理性」とカントは呼びます。

では、どうやって「実践理性」をもつことができるのか?
このことについてカントは、美意識に関与することだと考えます。その方法は、知への愛情を抱くことを匂わせる内容を綴りますが、それが美意識を育む方法だとしたら、それよりも、そこに美意識があるかどうかを経験的に確かめる方法を、より具体的に書きます。

例えば、ある行動をするとき、それが利潤を目的にした場合には美意識に関わっていない状況だという旨を、伝えます。
自分らしさ=主観・主体性を含んでいる状態は、美意識に関わる状態だと言います。この主体的な状況が、どんな状況にも通用する場合、自分にはブレない規律が生まれているはずです。これが公共に関わるポリシー=実践理性だと考えます。

・損得で判断していないこと。
・どんな状況にも通用するブレない振る舞いをしていること。

この2つを確認できれば、美意識に関与しているとカントは考えます。

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寄り道をして補足すると、有名な言葉にこのようなものがあります。

汝の意思の格律が常に普遍的法則に妥当しうるように行為せよ
実践理性批判』(1788)

"意思の格律"というのは自発的にもつ自分への規律です。普遍的法則というのは、何か一つの決まった振る舞いを指すのでなく、利益や快適さだけを重宝しない振る舞いを指している、とのことです。

おそらく、恋愛でいうところの、何か新しい物を相手に買い与える愛情ではなく、なんとなく一緒にいて落ち着く、という場合に働く愛情が、普遍的法則に合致する意思のように思います。
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ということでこの著書では、人間性、美意識に関わる理性、カントは超感性的基体とも名付けますが、これらが、実践理性であり、ユーモア、自由に関わると言います。


三つ目の『判断力批判』では、
この超〜の性質が、判断力に関わることを語ります。
結論は、この性質が「芸術」と「公共哲学」に関わります。

そのため、著書は二つの分野に分けられます。カントの言うところの「美学的判断」と「目的論的判断」の分野です。前者は視聴覚表現に関わる美学について論じるので、芸術の分野を扱い、
後者は、概念や理念を扱う判断について論じるので、公共哲学の分野に関わります。

この二つは似て非なるものであるけれど根本はどちらも、知覚や経験の価値観では得られない、超〜に関わる。という内容です。


一冊目で、知性の構造を解き明かして、人間の認識能力がどのような仕組みかという点に気づきを促します。
二冊目で、どういう風にして、その知性は実践されるのかというプロセスを伝えて、わかりやすくします。
三冊目で、芸術と公共性に関わる超〜の主体性が、その実態だと伝えます。


これらの一連の著作を通して、カントの哲学の基本は、自然状態から、自由状態への移行にあると知っておくと、難しい部分につまづいても、先へ進めると思います。

その他の著書を読むと、カントは、ルソーに人間そのものへの尊敬を学んだといいます。ルソーは子供の状態(自然状態)を重宝するので、簡単に言うと、子供から大人へ成長の話だと思うと、カントの哲学は少し理解しやすくなります。
どちらが悪いとか良いとかではなく、
自然の状態(子ども?)は、周囲の損得勘定に、いつまでも振り回されるが、自由の状態(大人?)は、損得に振り回されず、のびのびできて、結果、振り返れば得だってしてしまうのだ。とまとめます。
これが超絶大雑把な見解ですけどカントの理解の基本的なことではないかと、思います。


この「自然から自由の状態」に関わる話が、カントの哲学の基礎にあって、これをそのまま、国家の単位に当てはめたのが『永遠平和のために』だと理解すると、分かりやすいです。

自然の状態、概して自国の短期的な利益を中心に考えると、徒党を組んだり同盟を作ったり。採算の見合う傭兵を雇って常備軍を作る、という発想につながります。

自由の状態、に基づいて考えると、自国を戒めることで世界に共通するルールを発見できる。それが長期的に自国の利益につながって、つまり、経験主義の側からも検証ができる。

というわけで、世界平和の話に連結する。

こう解釈ができるんです。
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カントの分析は、普段の生活にも必ず関わるものに対して向けられているので、もし、自分の考えや知識に穴が見つかったとしても、問題ないです。カントさんを思い出せば、すぐにその穴を、この場で、今、縫えるんですね。
というとで今回は、イマヌエル・カントさんでした。
長文失礼しました。

永遠平和のために

永遠平和のために

祖母と教会

 三鷹の病院で静養していた祖母が亡くなりました。小沼博子、享年92でした。
 シャンソンや琴に親しんだ祖母だったので、病床では、生前歌っていた『愛の讃歌』などを、静かに流すなどしてエールを送りました。葬儀は教会式でした。
 調布に引越しをしてきた10年ほど前から近くの教会へ通うことになり、日曜日と、確か、木曜日の週二日、教会へ行くのが楽しみのようでした。家から教会まで、僕の足で5,6分、おそらく祖母の足ではその倍くらいですが、ある日、その距離を歩くのが大変じゃないかと尋ねると、ぜんぜん平気よ。と、答えられていて、教会への楽しみの度合いも伝わるようでした。
 今月6日に葬儀を終えて、牧師さん夫妻をはじめ懇意にしていただいた信者の方々と、身近な親族に囲まれて、無事、天に送り出しました。
 クリスチャンの方が亡くなられた場合、神様と永遠に生きる、と解釈されるらしく、死を憐れむというよりも悲観に暮れず、和やかな雰囲気で式も行われました。お焼香ではなく、献花をします。たくさんの花々に囲まれたり、思い出話が行き交ったりする、葬儀の様子を見ると、祖母がいろんな場と人に慕われていたと、わかるようでした。家を出る前に娘の写真を撮りましたけど、バカ親の目線から言わせてもらうと、こんな時、幼児は天使みたいに見えます。
 生前、お付き合いのあった方も、このブログを見られるかもしれないですが、ありがとうございました。

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Laïcité

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(2019.2.5updated)

 勤め先となる図書館で、あるきっかけからポスト構造主義の話になりました。
 先駆者、ジル・ドゥルーズ氏の名前を出すと、スタバのコーヒーのサイズの読み方くらい、覚えにくいと言われました。笑

 その流れもあり、別の日、また他の図書館員さんに、ライシテって知ってる?と聞かれました。もしかするとパン屋の名前かな、と思いましたが、それはさておき。
日本語にうまく変えられない、共存と共生の違いの問題を扱っている言葉だと教えていただきました。

 その方から、白水社の『シャルリ・エブド事件を考える』を勧めていただいたので、書架から拾ってきました。日本十進分類の請求番号は316.1カ

 300番台は"政治"、16は"国家と個人"の分類です。

 熟練の図書館員の方なら本を手に取らずに、この図書の内容を想像できるんですよね。熟練なら…

 ところで、その本の中で話題となるLaïcité(ライシテ)。この言葉は、フランス語で、世俗主義を意味します。

 フランスに住む方々には馴染みのある言葉なのだそうです。そもそも、フランス共和国憲法第1条に書かれた内容が、このライシテの主義に基づきます。

"フランスは、不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出自、人種あるいは宗教の区別なく、すべての市民の法の前の平等を保障する。"

 これが1条の抜粋です。

 単に世俗主義というと、日本の文化のように、宗教性を持たない感じに思われますが、そうでなく。

"宗教共生の原理"

 なのだそうです。
 なぜこの言葉を取り上げたか。

 この言葉は、予期せぬところで、同時に両義的な解釈を生んだ言葉だからです。
 歴史的には「イスラモフォビア」(ムスリムの差別)との関連を生みました。

 例えば、 2004年には、公立学校で、宗教的標章の着用が禁止されましたが、具体的にはイスラム教徒のスカーフ着用が禁止になりました。送り迎えをする親の服装については問われるものではなかったのですが、その後、生徒だけでなく、スカーフそのもの是非が問われるような議論に発展しました。もともと宗教に対する寛容の精神から生まれた方針が、結果的に少数派の文化の抑圧につながる局面を生みました。

 今や、Laïcitéは、原義から横滑りして、宗教性の否定などを含意する言葉に変わりつつあるそうです。

 ちなみに、 字義に反する意味を、同時にその言葉に含む"差異"の問題は、ポスト構造主義の哲学の話題の一つであり、社会学ではアンビバレンス(=両義的)と形容する、まさにタイムリーな話題でした。

 シャルリ・エブド事件の直前に、ラッパーのメディーヌは下記のような歌詞を発表しました。

マグレブ出身のあんたの髭、この国じゃ好かれないぜ、俺の妹のスカーフ、この国じゃ嫌われる、あんたの黒い信仰もこの国じゃダメだ、ご婦人とご紳士のカップルも、この国じゃ好かれない、みんな天国へ行こう、天国へ行こう…」
....(Dont like と Don’t laïc に二重の意味を含んでいて、後者の意味は「ライシテしない」つまり「宗教色を捨てない」という歌意と解釈できる。言い換えれば、フランスのライシテ(世俗主義)を皮肉るようなリリックになっている。(陣野俊史)


 言葉に血を通わせることに大きな価値がある、と思わされる「316.3カ」となりました。迫る2016参議院選でも、誰かからの借り物の言葉でなく、血の通った言葉を語る候補者に、票を投じたいと思わされます。

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

 

スナップワーク

f:id:keitarrow:20160602000350j:plain学術系スナップショットブログ始めて、一年経過したところです。

現在、卒業して2年が経つので、受け入れてもらえるかはわからないのですけど、卒論を書き直しています。

********

追記:

論文"リゾームのカント"を、立教大学、現代心理学部、当時お世話になった宇野邦一先生に、届けさせて頂きました。

キェルケゴール型の人たちへ

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図書館員として働きながら、いろんな図書が市内の分館や地下書庫をめぐって、行き来して、手に触れていきます。
仕事後『キェルケゴールを学ぶ人のために』を手にとって読んでみました。

Søren Kierkegaard (1813~1855)

デンマーク語は、読み方難しいので、日本では、セーレン・キルケゴールとも言われます。
ぼくは、この人、好きです。主観がビビッときます。

第一回目のブログにも引用させて頂いた、この人は、『反復』の哲学を、恋になぞらえたりします。

実存主義創始者とも言われますが、そう説明されると難しいです。
日々の生活を血の通ったものにしようとした人、と言われると分かりやすいです。

ところで、この人、自分にとっては不思議なことを起こす人です。

それまで書かれていなかったのに、ある日、自分の直面する発見を誰かと共有したいと思わせられた時、改めてその文面に目を通すと、突如、自分の体験がその中に浮かび上がる、という魔法をかけてくれる人です。

僕は、写真が好きですが、前は日本一好きだと言えました。毎日、写真のことで頭がいっぱいでした。

人並みかそれ以上かビジュアルに対する感度が高かったと思うのですけど、今は、このブログを始めた通り、活字にワクワクします。

キルケゴールはそれを見透かすように、
自然の感覚の中で生き生きする状態から、
善きものに対して生き生きする状態へ移りゆく人たちのことを書き綴ります。

この状態で、謙虚でない状態を、アイロニーと呼ぶらしいのですが、この状態をあっさりと批判します。(理由:善きものは教科書どおりになりやすいから)

もう一つの状態があります。それは、聖なるものによって生き生き、させられる状態で、これをフモールと呼びます。こっちも謙虚でない状態を批判します。

本当に人生に血を通わせて生きる人たちはそのどちらも備えるとのことで、贅沢なことを言います。ちなみにフモールはユーモアの元になった単語です。

自分の話に戻ると、以前は確かに自然と写真を撮ることで充実していたけれど、もう一歩深く、社会に関わろうとした時、哲学や社会心理学の世界に足を踏み入れることになりました。

その世界には、知識の積み重ねが次々に社会で起きていることを噛み砕いてくれる楽しみがあったので、ワクワクしました。それと同時に、いつの間にか教科書のような答えに縛られてしまうこともありました。

キルケゴールは、善きものが、言葉を媒介して一定の選択肢に絞られることや、その危うさに無頓着になってしまう状況に警鐘を鳴らしました。

このような指摘を受けると、わかったような気になっていたり、漠然と、アイロニーの状態に陥る人々の中に、自分がいるのかと思わされて、さらにハッとして面白くなります。


興味ある人はブログ1回目に目を通してください。キルケゴールの視点がもう少し分かると思います。

ありがとうございやす。
ということで、キルケ兄さん。
またまた、面白かったです。
ついていきやす。


All we need is somebody to lean on.
(誰だって頼る人が必要よね)
デンマークのMØの歌に出てくる詩が思い出されたのでリンク掲載しますー
(文脈はまるで違います)
www.youtube.com

キェルケゴールを学ぶ人のために

キェルケゴールを学ぶ人のために