イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

人それぞれと人らしさ

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何か日常生活で意見がすれ違ったり、友達と喧嘩したりしたとき、はたまた議論が煮詰まった時「人それぞれだから」という言葉で、話を終わりにすることってないですか?

今回は、「人それぞれ」の深い意味を教えてくれる哲学を紹介します。
人それぞれと言っても、同じ人間だから共通する心があるだろう、そんな予想が立ちますね。これまでの学者はどのように考えたのかを、追ってみます。

そもそも人類に共通する何かを探求するような、人間を俯瞰したような考えに興味がある人とない人がいます。
それを、MAP LOVER とMAP HATER とある学者は表現しました。(福岡伸一、2012)
この、世の中の俯瞰図を好む人と、好まない人がいるという話は、実はすでに紀元前 400年頃から語られている哲学の人気テーマの一つです。
知恵を身につけようとする人は、むしろその全体像を知らないで良いと考える人たちにとって害となる、という内容です。(プラトン, B.C427~B.C357)

なので、いろいろな人がいてそのタイプの違いで主張も分かれますが、それを含めて、哲学一般は答えを探求していきます。

例えば、MAP HATERに好まれるような「人それぞれ」は、宗教的な価値観から解放された近代哲学で重宝されました。フランスの哲学者サルトル(1905~1980)は実存主義という哲学を主張しました。それは結果的には、「人それぞれ」の個人主義的な解釈を世間に広めるものとなりました。

個人主義的な意味での「人それぞれ」って、なんだか味気なくないですか?その時代、個人の主体性=実存という言葉だけでは、人の本性を説明できないことを、同じフランスのレヴィ=ストロース(1908~2009)が言及しました。

人間の多様性についての認識は、むしろ自己のアイデンティティの罠にひっかかっている人の方にときにはより容易に見えるものである。
しかしそれは、人間の普遍性の認識への扉を閉ざすことになる。ところがサルトルは、自分のコギトの虜となっている。(レヴィ=ストロース、1962、La pensée sauvage、邦題 :『野生の思考』

コギト:cogito ergo sum(我思うゆえに我あり)の"我"

そこまで言うなら、すべての人に備わる共通性(普遍性)ってなに?
という話になります。

それを、たとえば「趣味」だ。
と論じたのは国連の構想を最初に公表したドイツの哲学者、イマヌエル・カント(1724~1804)です。

カントは前時代の哲学者でしたが、すでに、「趣味」≒その人らしさ、の性質を、「主観的普遍妥当性」と呼ばれる性質を用いて分析していました。(カント, 1790)
ちなみにカントは、人は誰も寿命がある、人はみんな違う個性があるという事実としての客観的な普遍性と、心の問題を扱う主観的な普遍性とを区別しました。

さらに、人の主観はそれぞれの在り方で人類に共通する美しさや道徳に関わる。との旨をカントは分析しました。

ある人の美しいと思うものが結果的に誰にとっても美しいものであるような美意識を、僕たちは備えている。なんてキザな主旨のことも言います。これが、主観的普遍妥当性の性質です。

MAP LOVERは、この性質に興味を抱くので体系や全体像を知覚しやすく、
MAP HATERは、そんなものを必要としないので気にも止めません。諸説ありますが、この感覚は"分量"の差がある、との旨をカントは記述します。

なので「人それぞれ」を単に「人それぞれだからお互いを尊重しよう」と解釈するよりも、

その人らしさを失わないそれぞれの生き方を尊重しよう

と解釈したほうが面白いぞ、と哲学は語りかけます。
この哲学は、ぼくらは人それぞれと同時に"人らしさ"を共有していて、本質的なものに向けられた共感の力を備える。ということを意味してます。

賛否はさておき、こんな風に、それぞれの個別性と普遍性の関係について、歴史的にも議論を経ていたというのは、カント、サルトルレヴィ=ストロース、その後の、ジル・ドゥルーズなどを読んでみたところの自分の拙い見解ですが、まったくもって面白いですよね。



それから、私事で恐縮ですが、今年度から地元の図書館で働くことになりました。良い本を知るきっかけにしたいです。

野生の思考

野生の思考

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

たむくるや むしりたがりし 赤い花

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自分が社会学系の本を好きになったきっかけは、ある本です。大学へ入学したての頃、社会学部の方に薦めてもらった見田宗介先生の『社会学入門』という新書です。その中で紹介されていたある俳句が目に留まりました。

手向くるや むしりたがりし 赤い花

まず、この句を読んでどのように思えたか。

...

...口ぽかーん

 

だったのを覚えてます。
もともと少年ジャンプしか読んでこなかったので仕方ないです。

 

ところで、この句、どんな意味が込められてると思いますか?

手向(たむ)くるとは、有難いものに手を向ける=供える。
あとの部分は、むしりたがった赤い花、

を意味するそうです。これだけ聞いてもパッとしません。

 

この句は、小林一茶が、可愛がっていた幼子が亡くなったときに詠まれた俳句なのだそうです。

さらにあるエピソードがこの本の中で紹介されます。
民俗学者レヴィ=ストロースが著書『野生の思考』を執筆しているときのことです。

 

アメリカの原住民は、自分たちと白人の違いについて、現代人の着目する違いよりも先に「白人は平気で花を折るが自分たちは花を折らない」ということを挙げた、とのことです。

 

これは比較社会学の核心に触れる問題なのだそうですが、それはそうと見田先生は、その句の読まれた江戸時代にも花が咲き乱れていた、と補足します。
そして、それは畏(おそ)れと感動に満ちたものの一つだった、なので、幼い子でも花をむしることは止められていた。だから、この句は

「あんなにむしりたがっていた赤い花だよ」

と一茶がその子に手渡すように詠んだ句だ、と紹介されて、改めてその句を読んでみると

...
たむくるや むしりたがりし 赤い花
...

素晴らしい句だ..

 

と思わされたんで、不思議です。ところで、今では意味を知ったので、面白いと思わされますが、それまで写真ばかり撮っていた自分には新鮮でした。フレームの中に、良い感じで活字が混ざってきた感じがしました。


 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

ういういしさ哲学

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自分は学士の学位なので、専門家とはいえないキャリアですけど、それでも、実践的と思える哲学に出会ったら、大学4年間の講義を参考に、文献紹介をしたいと思います。

ところが今回、あえて過去の自分の手記から、とあるエピソードを紹介することにしました。自分なり後から読み返してみて、初々しい哲学が、面白かったんです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当時、20代前半の自分。
所属して間もない事務所から、初めて海外ロケの撮影が舞い込んできた。
行き先は、パリとミラノだった。
それを聞いて浮き足立ったのも束の間、結局のところ、帰りの飛行機の中では、窓ガラスに腹をたてることになった。

空はくすんだように見えて景色も楽しめない。曇り空なのか、ガラスの方が汚れているのか、思った以上に視界が悪い。フライトアテンダントの仕事に若干、腹を立てた。そもそもFAが窓拭きの仕事を任されているのかは知らない。ただ気分は冴えなかった。その気持ちの発端は、実は、ある人との出会いにあった。

現地で同行したスタッフさんの一人、フリーのライターさんは初めて顔を合わせる人だったけれど、最初の挨拶の時には、すっかり見入ってしまった。艶やかで魅惑的な雰囲気を放っていたからだ。
どんな関係なのかは知らないけれど、クライアントの大手広告代理店、そこのディレクターさんと懇意の仲のようだった。
彼女は容姿端麗だけれど、なによりも色気がある人だった、それも男ウケする色気、俗にいうフェロモンの量が尋常じゃない人だった。なんとなく、気をとめるようになっていた。


初日
自分は新人カメラマンの立場。仕事に専念することだけを考えた。
この日、そのライターさんと知り合うことになる。

2日目
パリのホテルで、早くも自分は彼女から相談を受けていた。仕事の進め方とか、写真は縦位置に統一したほうが映える、とか、レイアウトに関してのことだった。

3日目
彼女が例のディレクターさんに呼ばれていた。
後から聞けば、現場の空気があまり良くないとのことだった。さらに、その現場を乱す原因の一端が、そのライターさんにあるかもしれない、とのことだった。たまたまその時、ホテルのロビーでいっしょにいた彼女は一言「いってくるね」と残して、ホテルの一室に向かった。その後ろ姿を今も覚えてる。
体のラインがなんというか肉欲感があって、その容姿を目にすると撮影対象の某女優さんでさえ霞んで見えた。

4日目
仕事の後、ホテルに戻ると電話が鳴った。ライターの彼女から相談がある、とのことだった。部屋に行くと、そこで悩みを打ちあけられた。
なんとなく想像していたことと大して変わらない、思った通りのはなしだった。
それよりも問題は、下着の透けてみえるシャツを着て、酒を勧めてくることだった。笑
素肌がより色っぽく見える。目がくらむ。

5日目
ミラノにロケ地は移動。
仕事内容は、某メイカーのワインカクテルを紹介していく旅で、女優さんが現地のスタイルで案内していくというもの。女性誌各社に同時にビジュアルを寄稿して、カクテルの流行を作り出すという流れだった。
赤文字系と言われる女性誌7、8社が、同時に記事を連動させる。すると読者はそれを流行だと錯覚するそうだ。"広告代理店らしい"面白みが詰まった仕事だった。

ところで、仕事後、ホテルの客室に戻ると電話が鳴った。その日、別の現場で取材を終えた彼女の話は、仕事のことだけでなく、とりとめがなかった。彼女の部屋へ行くと、彼女はパジャマ姿だった、素肌ばかりが気になり....ぼくは、完全に彼女に肩入れしていた。

6日目
その日、彼女は現場にも、他の現場にもいなかった。

7日目
ミラノに来てからは怒涛の仕事量だった。半ば浮かれそうになっていた自分には良い薬になった。クライアントの指示のまま、良い結果を出せた。彼女は一足先に帰国したと、話を聞いた。

8日目
帰りの飛行機の中では、後悔していた。
ミラノに移動した5日目の夜は不思議だった。ホテルの部屋の内線が鳴って、彼女の部屋に赴いて、そのままドアをノックして、言われるがまま中に入ったのだけど、そこには落ち込んだ表情の彼女が立っていた。顔を覗くと疲れが滲み出ていた。

単刀直入に要件を話してくれた。
例の広告代理店のディレクターの話だった。
「ヤツはわたしとヤりたくて迫ってくる」のだそうだ。そして彼女は困惑していた。
その日は、まるで違う一面をぼくに見せてきた。彼女の作ってる詩を聴かせてくれたり、iTunesで雑多な曲を聴いて感想を言い合ったりした。

それから、薄暗がりの中で流れに任せてソファに横になって、彼女も寄りかかってきた。結局のところ、一緒にベッドの上で横になった。
髪の毛が顔にかかって、近くにいるだけで溶けそうだった。酒も入っていたし火照った彼女の肌が変な湿度で触れ合ってきた。科学変化を起こしそうだった。そしてなにより、そのままどうにかなりそうだった。まだ会って5日しか経っていない二人が、同じベッドの上で寄り添っている。顔が近づいて頰が触れていた。
そのとき、こんな一言が口をついて出た。
「疲れてるみたいだし、だからといって、そのスキにつけ込むわけにいかないよ。」
と、僕は見栄を切ったのだ。そのあと、他愛のない話が続いて、いつのまにか彼女は眠っていた。

今は飛行機の中、思い出すとため息が出た。
機内の窓ガラスがさらに曇った。もともと、汚れていただけかもしれない。
フライトアテンダントに不満をぶつけながら、自分のプライドの浅はかさを思い知らされた。
もったいないことした。と、本音のため息がこぼれてた。

あんな美人はもう会えないだろう。
そう思うと、余計、視界が悪くなった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

誰が得するわけじゃないですけど、若気の好奇心と浅い哲学でした。
何が言いたいのかというと、男をからかうな、ってことじゃなく、初々しさがあるって話です。
ちなみに、具体名、背景など、バレて迷惑になると嫌なので、多々変えてます。

来月は、学術系テーマにもどりたいと思います!

ショーペンハウワー2016

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年始はソウルから

 詩人は花をもたらす人に、哲学者その精をもたらす人になぞらえることができる。

2016年、今年も張り切ります。
ところで、なぜ好奇心ブログを書いているのか、簡単に書いてみます。

理由は、言葉はお守りだからです。必要ではないけど持ってるだけで、あるとき効力を発揮するような、お守りです。

例えば、こんな文章に出会ったとき。

 詩人は人生の絵図を人の想像力に描いてみせ、それらすべてを活動させ、(略)これらの絵図に触れて考えを運ぶのに委せる。(略)これに反して哲学者は、詩人のようなやり方で人生そのままを示しはしない。彼らはそこから引き出してきた整頓された思想をもたらし、その上で、彼の読者が彼と同じように、また彼と同じ所まで考えを進めることを要求する。このことのために、彼の読者層はすこぶる小範囲に限られてくる。
 こういうわけで、詩人は花をもたらす人に、哲学者その精をもたらす人になぞらえることができる。

『知性について』ショーペンハウワー P12

もともと自分は仕事で絵を描く機会があるんですが、実際に色や構図を考えるときと、哲学や社会学系の文章を書くときの違いについて、こんな風に思わされる。
その違いは、人の想像力に働きかけるか、理性に働きかけるか、じゃないかと。
そんな風に、なんとなく思わされていたところ。
ちょうど良い流れで、このショーペンハウワーの言葉に遭遇したんです。おかげで、しっくり安心できる言葉の効力に触れました。

ところで、絵を描くとき、文章を書くとき、どちらも自分を駆り立てる何か、共通項があります。

それは、大げさなものではないですが、どちらも共通するところからエネルギーが湧いてきます。そんな風に思うと、また、あるお守りと遭遇します。

 鳥はまだ知らないひなのために巣を作る。ビーバーは目的も解らずに建造物を築く、アリ、ハムスター、ミツバチはそれらの知らない冬のために蓄えを集める。クモやアリ地獄はそれらの知らない将来の獲物のために慎重な計略によるかのように罠を作る。昆虫はやがて生まれてくる幼虫がいつか食物を発見できるような場所に卵を産む。
(略)
 雄のクワガタムシの幼虫は、変態に備えて木に穴をあけるとき、この幼虫はその穴を雌の二倍の大きさにかじりあけ、将来生える角のための余地を確保する。〜動物の本能は自然の持つその他の目的論を我々に最も良く説明してくれる。

『ショーペンハウワー全集2巻 』P294

こんな言葉です。

将来を予測できない動物と、統計予測を用いる人間は、まるで違う生き物ですが、まだ知らないことのために、ワクワクの動機はフル稼働させておきたいです。

好奇心ブログ
今年もよろしくお願いします。

アダム・スミス問題

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経済学の父、"見えざる手"でおなじみの、アダム・スミス(1723~1790)は、カントの一才年上のイギリス人です。
こんな言葉を残したことで良く知られています。
(追記12/8)

われわれが食事を楽しみにするのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心からでなく、彼らの利己心からである。
国富論』第一編二章
It is not from the benevolence of the butcher, the brewer, or the baker, that we expect our dinner, but from their regard to their own interest.

=======

ところで、
日経新聞6月18日 29面 

経済学にちなんだ面白い話が掲載されてました。

 日本人の精神性と経済の関係を考える上では、経済学の父として知られる英国のアダム・スミスが著した「道徳感情論」が重要となります。
 同著はスミスの名声を最初に確立した大著です。英グラスゴー大学の道徳哲学教授だった頃の講義の産物で、「国富論」(1776)より17年前のことです。

 冒頭、スミスは有名な「共感」の理論を提示します。人間は確かに利己的で自己中心的な存在ですが、他人に深い関心を抱き、他人の幸福を見る以外に何も得はしないのに他人の幸福を共有できる、と説きます。
 西洋の経済学は、利己心と競争が根本原理でした。その「父」であるスミスが他人の幸福を自分自身の喜びとする「共感」を重視したことは奇妙に思われます。実際「国富論」の利己心「道徳感情論」の共感とが矛盾しないのかは、「アダム・スミス問題」としていまも未解決です。

 「共感」を日本人の精神性と比べましょう。「共感」の本質を利己的と見る解釈は「情けは人の為ならず」という考え方です。2001年の文化庁の調査では、回答者の半数以上が、このことわざを、同情は相手にとってかえって悪い結果を招くという意味で理解していましたが、正しい解釈は「他人に同情するのは自分が困った時に助けてもらえるから」です。
 他方、利他的な解釈の「共感」は他人の苦しみを思いやる「憐憫(れんびん)」を意味します。かつて新渡戸稲造が著書「武士道」で指摘した「仁」など.....(略)


慶応大学 坂本達哉教授


アダム・スミス問題」、未解決なんですね。
あと

「情けは人の為ならず」

この言葉、照れ隠しの言葉、でもありますよね?
「情けをかけるのは、いずれ自分にまわってくるから」、なんていって、優しいことする。
粋じゃないですか^ ^


...続きもあるんです。

日経新聞6月22日 17面 

 行為者に対する「共感」と自分自身の行動とのバランスを取ることが適切な道徳判断に繋がり、そういう行動をする人を「公平な観察者」といいます。
 「公平な観察者」はキリスト教の「神」の言い換えなどと言われてきましたが、最初に「公平な観察者」と唱えたアダム・スミスは「胸中の人」と言い換えて、その超然とした性格を強調しました。

原文では、こう表記されてます。
「胸中の人」=「the great inmate of the breast」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記:
ところで、この問題。こんな感じで考えると解決するんじゃないでしょうか?
素人意見ですけど、

そもそも、いろんな人が居て、それも、時と場合に寄りますけど、共感をわりと高感度に持つ人(公共系と言うことにして)と、共感より自分の得を優先する利己系の人がいる。
前者は、自分の損得勘定よりも、社会全体の利益を優先したり、なんとなく共同体の未来に共鳴する人なので、公共政策の仕事に就くとバリバリ良い仕事をするはず。
この人達は、胸を張って、共感=胸中の人、を優先させた方が良いと考える。

"利己系"の人は、周囲に気を配りながらも、自己利益を目標にして商業的にも良い仕事をする。そこで、この人達は自分の利潤に適うことを優先させた方が良いと考える。

そこまでなら、立場によって意見が違うから、問題の答えはまとまらない...

ですけど。
実のところ、社会は公共の仕事に関わる敏腕な人達が働いて、うまく回ってる。それを踏まえると、公共系の人達の抱く"共感"は大事だと思わされる。

彼らの社会へ対する共感の力が強ければ強いほど、社会には精度の高いルールや政策が生まれて、秩序も保たれる(特定の地域の人が儲かるような、へんな法案とか作らない)。最終的には、うまく回って生活者に福利が返ってくる。

結論。
共感しやすい人でも、共感しにくい人でも、(本音はさておき)「自己利潤より共感が大事」と思っておいた方が、公共のルール作りをする人達を大事にできて、社会の恩恵を受けやすくなる。

こんな理由だと、解決するんじゃないでしょうか?


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道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

アルスラーン戦記とジョン・ナッシュ

アルスラーン戦記、面白いですね。

Anitubeで後追いで、ちらっと見たんですけど。
ペルシャ人(現イラン人)の戦いを描いたアニメで、史実を元にする部分もあって面白いです!
ついでに、主人公のアルスラーン太子は、甘いんですよね。
でも、人はついてくるんですよね〜

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(画像:アルスラーン戦記」製作委員会)
http://tvanimedouga.blog93.fc2.com/blog-entry-23550.html

ところで話しは変わりますが、
去年まで大学生だったせいか、勉強を面白くないと思う人に言いたいです。
それは迷信です、と。せっかくなので、アルスラーン戦記にあやかって、面白い!と思えた経済理論を一つ、紹介します。これは、在学中、池キャンの図書館の踊り場でリョウジ氏に教えてもらいました。


西暦352年、パルス国に、AとB、二人の罪人が捕らえられていたとします。

この二人は黙秘を続けて7年の刑期を言い渡されました。
その日は、運が良いことにパルス国、アルスラーン太子が二人罪人に恩赦を与えるとのことで、
下のような条件を出しました。

もし、AとB、どちらかが自白すれば、その者を釈放する。
もし、AとB、二人とも自白をしなかったら、口の固さに免じて、どちらにも5年の恩赦を与える(→刑期2年)
もし、AとB、二人とも自白をした場合は恩赦は2年とする(→刑期5年)。

という条件です。
さて、自分がAだとしたらどうしますか?

刑期はこうなります。
自分が自白をして、Bが自白しない場合は0年、Bが自白する場合は5年
自分が自白をしないで、Bも自白しない場合は2年。Bが自白をする場合7年。


Aの立場で、少しでも刑期を短くしようとすれば自然に、自白を選ぶはずです。
Bが自白しても、しなくても、どちらにしても、
Aの刑期は、自白をした方が軽くなるからですね。

ところで、これが最善の策なんでしょうかね?

これは『囚人のジレンマ』と言われる有名なエピソードの一例です。
利潤を優先して考えると、結果が、非合理的になるジレンマで、近代経済学の基礎理論の一つなんですね。

この場合、AとB、二人とも沈黙することが、一番、刑期を少なくする選択です。個々の刑期が短くなるだけでなく、全体の刑期を合計しても4年。

もしお互いを知っていて信頼できれば、この選択肢が選ばれます。
この見解を発表したのは、1950年、当時米プリンストン大学にいたジョン・ナッシュ氏(1928~2015)です。このナッシュの均衡理論は、応用できる範囲が広くて面白いです。


現代にはどういう意味があるのか、と考えると面白いです。
現代社会は、ジレンマだらけです。

大事なものを長く使ってのんびり過ごしていたいのに、経済は血液だから循環させないとダメだ!なんて言われて、消費に向かわせられる。
なんだか、不条理なこともたくさんです。

タクシー捕まえるとき、も不条理です。
長いこと待って、やっと来た。と思ったら、突然どこかのネーさんに横取りされたり。そういうことも、ありましたよ。腹立ちますね。

牛丼だって、不条理なくらい安いです。

ところで、こんな日常にありそうな原価すれすれの過当競争も、ナッシュ均衡の現れです。

タクシーのエピソードは、個人が自己利潤を優先して動くと、無用な競争に他の市場参加者を巻き込んでしまう過当競争の典型例です。この場合、競合の中で競争することが個別の主体の合理的な選択です。

この生存をかけたそれぞれの戦略は、結局、社会全体を最適化しない、というのが『囚人のジレンマ』の結論です。

みごとです。
それもそのはず。
既に、1950年に書かれていたナッシュの均衡理論は、社会への応用性が高く、1994年には、ノーベル賞をとることになったわけです。
執筆当時、大学院生だったナッシュは、誰もが天才と認める人物でしたが、その後、統合失調症になってしまい、苦悩の人生を歩むことになりました。

余談ですけど、今年の5月になくなるまで、数学界と経済界に貢献した彼のその壮絶な半生は、ラッセル・クロウ主演の『Beautiful Mind』で映画化されました。苦悩の日々が衝撃的な映画でした。


ところで
このナッシュ均衡から、どうやって脱出するかという方針は、異分野に広がる創造的な方法が必要なので、面白いです。

里山で、山の幸を収穫する際に、摘み残しをして、来春、また山が生き返るように、その状態を保つことを恩恵とする智慧は、その社会の文化を共有してようやく培われます。

逆に言えば、際限無く採取していた不摂生な時代には、生産性を増加させる潜在性があった、とも言えますね。

身の回りの社会の利潤は、最大化されているのか?そんな視点を持つことができる『囚人のジレンマ』は、知っておいて損はなさそうです。

現代経済学の基礎となる「ゲーム理論」の、そのまた基礎になるような理論です。

ということで、ナッシュ均衡を知って、見えない潜在性に視点を移動する、それが、そもそもの生産の始まりかもしれないですよね〜。


ところで

アルスラーン太子は、甘いんです。でも、人はついてくるんです。
そうですね。もしかしたら、アルスラーン太子。
ナッシュ均衡から抜け出す術を知っていたのかもしれないですね〜。

今、思えば、そんな風にも思えて来ました。

人を楽しませる先生

 私は幸運にも1人の哲学者を知った。それは私の先生であった。

 彼は、そのもっとも元気な時代には、若者のように陽気で、きびきびしたところを持っており、しかも私の考えでは、晩年までそういうところを残していたと思う。
 ものを考えるための広い額は、何事にもめげない快活さと喜びの宿る場所でもあり、ゆたかな思想を含む言葉が彼の口から流れ出て、冗談や洒落などを思いのままに言う事ができ、人を教える講義が、人を楽しませる会話と同じだった。
 ライプニッツ、ヴォルフ、バウムガルテン、クルージウス、ヒュームの考えを吟味し、ニュートンケプラーその他の自然学者の説く自然法則を追求するとともに(中略)、話をつねに、自然のありのままの認識と人間の道徳的価値へと、もどしてゆくのだった。
 人類史、民族史、自然史、自然学、経験から、多くの例を引いて、講義や談話に生気を与えた。知るに値するものなら何にでも興味を持った。真理を拡大し闡明(せんめい)することに比べて、人間同士の悪だくみとか、徒党とか偏見とか名声欲などは、少しも彼の心を惹かなかった。彼は我々を励まし、自ら考えるよう、快く強いた。圧制は彼の心には無縁だった。この人の名を私は最大の感謝と敬意とをもって言うが、それはイマヌエル・カントである。彼の姿を私は今も喜びを持って思い浮かべる。

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー
『世界の名著32 』中央公論社 p9


中央公論社の『世界の名著32』は、ドイツの哲学者、イマヌエル・カント(1724~1804)を特集しているんですが、本人に教わったヘルダー(1744~1803)によると、当時の講義の充実感が伝わってくるようです。そして、

おでこが広かったとのことです。

これを見ると確かに。
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思いのほか、だいぶ怖そうな方ですねw

さらに、カントの面白い点はこのあたりにも表れているとお思います。

紀元前のギリシャ人は、幾何形体の研究が好きで、中でも円錐(えんすい)を輪切りにしたり、切り口に潜む何らかの特性を調べて、そこから数式を導いたりしていたようなのです。

一見、何の役にも立たないようなこの研究も、実は、楕円と放物線が円錐の断面から生まれていて、どちらも同じ仕組みを持ってることを証明できる、というものでした。

時を隔て、17世紀。
ケプラー(1571~1630)をはじめとする天文学者は、かつてギリシャ人の円錐ゴリゴリ研究で得た楕円の数式を手がかりに、一挙に、地球と太陽系の惑星の軌道を算出します。
さらに、後に誕生するニュートン(1642~1727)の万有引力も、放物線と楕円の関係を応用します。

誰に教わるでもなく研究された古代のギリシャ人達の研究が、天文学と物理学の飛躍的な進歩を生んだ。
と、カントは具体的に学者名を出したり詳しく述べたりしていないですが、物事の本質にせまったギリシャ人を、「その成果は後人を裨益(ひえき)した」と、著書『判断力批判』(1790)の中で評価したのでした。

もっと面白いのは次です。
この例を引用して、カントはギリシャ人の研究能力を評価したわけではないんです。こんな風に教えます。

人は誰に教わるでも無く、そもそも、本質に心を関わらせる理性の力を備えている、と。その一例が、引力のことも知らずに、ひたむきに円錐を研究したギリシャ人と天文学の関係に顕著だ、と考えるんです。

以下、岩波文庫の篠田さん訳でカントの言葉を抜粋。

彼ら(ギリシャ人)は楕円の特性を研究した。しかしどの天体もそれぞれ重さを持っているという事を予測もしなかったし、また引力点からそれぞれ異なる距離に置いて作用する重力の法則も知らなかった、ところがこの法則こそ、自由な運動を営む天体に楕円の軌道を描かせるのである。こうして古人は、自分では意識せずに研究しながら、その成果は後人を裨益したのである。

判断力批判 (下)』岩波文庫 P16

物の本質に根源的に属すると思われるものの必然性にこそ、我々が自然に対して大きな驚嘆の念を抱く根拠〜である、しかしその根拠は、我々の外にあるというよりもむしろ我々の理性に存するのである。
なお、かかる驚嘆の念が、誤解によって次第に狂熱にまで昇じたとしても、それは十分に恕(ゆる)されて良い。

判断力批判 (下)』岩波文庫 P17


この箇所では、同時に、カントのテーマの一つでもあった理性の"誤解"のことが書かれてるので貴重な言及のように思います。理性を追求すると理性は理性内で自ずと対立を生む、この性質が著書『純粋理性批判』(1787)の中で、アンチノミーとして言及されましたが、ここにも関係するのかもしれません。(追記:引用箇所での誤解は、アンチノミーでなく、懐疑論独断論との誤解と解釈した方が文意に近いと思われる)

いろいろ難しい事で有名なカントですけど、自分は、中島義道さんのカント解説から始まりました。

自分は専門家ではないですけど、かめばかむほど、味ある人だなぁ、と思わされます。

生の講義を受けた人達の感想も、もっと聞いてみたいです。

にしても、カント。思いのほか、恐ろしい顔つきでしたね。
額の広さは、たしかに。

 ということで、世界の名著32のカントを学ぶことができました。

世界の名著〈32〉カント (1972年)

世界の名著〈32〉カント (1972年)