図書館員として働きながら、いろんな図書が市内の分館や地下書庫をめぐって、行き来して、手に触れていきます。
仕事後『キェルケゴールを学ぶ人のために』を手にとって読んでみました。
Søren Kierkegaard (1813~1855)
デンマーク語は、読み方難しいので、日本では、セーレン・キルケゴールとも言われます。
ぼくは、この人、好きです。主観がビビッときます。
第一回目のブログにも引用させて頂いた、この人は、『反復』の哲学を、恋になぞらえたりします。
実存主義の創始者とも言われますが、そう説明されると難しいです。
日々の生活を血の通ったものにしようとした人、と言われると分かりやすいです。
ところで、この人、自分にとっては不思議なことを起こす人です。
それまで書かれていなかったのに、ある日、自分の直面する発見を誰かと共有したいと思わせられた時、改めてその文面に目を通すと、突如、自分の体験がその中に浮かび上がる、という魔法をかけてくれる人です。
僕は、写真が好きですが、前は日本一好きだと言えました。毎日、写真のことで頭がいっぱいでした。
人並みかそれ以上かビジュアルに対する感度が高かったと思うのですけど、今は、このブログを始めた通り、活字にワクワクします。
キルケゴールはそれを見透かすように、
自然の感覚の中で生き生きする状態から、
善きものに対して生き生きする状態へ移りゆく人たちのことを書き綴ります。
この状態で、謙虚でない状態を、アイロニーと呼ぶらしいのですが、この状態をあっさりと批判します。(理由:善きものは教科書どおりになりやすいから)
もう一つの状態があります。それは、聖なるものによって生き生き、させられる状態で、これをフモールと呼びます。こっちも謙虚でない状態を批判します。
本当に人生に血を通わせて生きる人たちはそのどちらも備えるとのことで、贅沢なことを言います。ちなみにフモールはユーモアの元になった単語です。
自分の話に戻ると、以前は確かに自然と写真を撮ることで充実していたけれど、もう一歩深く、社会に関わろうとした時、哲学や社会心理学の世界に足を踏み入れることになりました。
その世界には、知識の積み重ねが次々に社会で起きていることを噛み砕いてくれる楽しみがあったので、ワクワクしました。それと同時に、いつの間にか教科書のような答えに縛られてしまうこともありました。
キルケゴールは、善きものが、言葉を媒介して一定の選択肢に絞られることや、その危うさに無頓着になってしまう状況に警鐘を鳴らしました。
このような指摘を受けると、わかったような気になっていたり、漠然と、アイロニーの状態に陥る人々の中に、自分がいるのかと思わされて、さらにハッとして面白くなります。
興味ある人はブログ1回目に目を通してください。キルケゴールの視点がもう少し分かると思います。
ありがとうございやす。
ということで、キルケ兄さん。
またまた、面白かったです。
ついていきやす。
All we need is somebody to lean on.
(誰だって頼る人が必要よね)
デンマークのMØの歌に出てくる詩が思い出されたのでリンク掲載しますー
(文脈はまるで違います)
www.youtube.com
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