イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

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続・社会学入門

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(2020/10/20updated)
 先月は、岩波新書赤版『社会学入門』の、第1章・第2章に触れさせていただきました。
 今回は、しばらく個人的には難解に感じていた序章と巻末の部分に踏み込みます。

 社会学ならではの、ドイツ語の耳慣れない用語も多々出てくるのですが、関連する問題意識をすでにお持ちの方であれば、理解は難しくありませんし、そうでなくても、本書の丁寧な文脈に沿っていけば、理解も難しくはないかと思います。
 見田氏のいうところの、社会構造の4つの形態については、今回のブログでも記しておきたいと思います。
 
 ちなみに、本書での論旨は個人的には、カントの純粋理性批判で示された先験的な判断力の論旨にも通じていると思われ、社会学の分野でありながら哲学史の文脈上にも据えられる内容かと思います。 好きな人にはたまらない論旨を扱えそうです。
 そんなブログに読んで頂く方がいることを嬉しく思います。祝🌟

 はじめに、ゲマインシャフト、についてはご存知ですか?

 僕もそうでしたが、初めて耳にした人の為に、独社会学者、フェルデナンド・テンニース(1855~1936)の提唱した社会形態の分類のための用語を確認します。 ゲマインシャフトと、その対概念となるゲゼルシャフトです。

 ・ゲマインシャフト:地縁・血縁・友情で結びつく社会(非打算的…テンニースのいう本質意思による社会)
 ・ゲゼルシャフト :共同体の利害調整のため、人々が構築した社会(実利的…テンニースのいう選択意思による社会)

 を意味する言葉です。

 ゲゼルシャフトの社会では、利害調整のために人々は社会を設計します。なので、この社会では、明確な価値の対象を判断の基準にしやすいです。

 ところで、この二分類を表明した当時のテンニースの論旨は影響力を持ちましたが、同時に、批判の対象にもなりました。
 岩波文庫
から翻訳本を著した杉之原さんでさえ、
「社会的事象を社会構造の変化及びその規定因素との関連において把握するということがほとんど顧慮されていない」と言います。(吉田浩、2003『フェルデナンド・テンニエス』、東信堂

 というのも、テンニースはゲマインシャフトゲゼルシャフトの二つの領域を、さらに、生理的なものと、経験的なものと、思考的なものの、3段階の区分けを設けて、詳細な分類を試みるのですが、添付画像にあるように、生理的な段階では、男性はゲゼルシャフト的・女性はゲマインシャフト的で、思考的な段階では、それぞれ、庶民的・教養的だと示すような部分などもあり、批判の対象となりやすい論旨を含んでいたのも、批判の一つだと思われます。

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 というわけで、ここまでを確認しつつ、見田氏の見解を見てみます。


 見田氏は、テンニースの示した非打算的社会=ゲマインシャフトと、実利的社会=ゲゼルシャフトの区分けを採用せず、むしろ、ひな形として扱い、前者を共同態、後者を社会態として扱いました。
 そして、もうひとつ意思の有無(濃淡)の軸を設けて、4つの社会構造を提示して、現代の様々な社会状態を網羅する分類を示しました。

 

 見田氏の言葉を用いれば

1. 意思的な共同態   ... 交響体 ... 意識や意思によって人格的に繋がる集団
2. 意思以前的な共同態 ... 共同体 ... 地縁、血縁、友情によって人格的に繋がる集団(家族、同僚、農村共同体)
3. 意思的な社会態   ... 連合体 ... 相互利益とそれらを維持する秩序を構築して集う集団(会社、団体)
4. 意思以前的な社会態 ... 集列体 ... 相互利益に生きる人々の相補的に繋がる社会(損得勘定を基にした集い)

の分類です。さて、この4つの分類、なぜそうする必要があるのでしょうか。

  一つは、先述した、哲学の文脈上にある、物事に血を通わせる直観などの価値とその価値を共有しようとする集団が、意思のある共同態(非打算的)、見田氏の言うところの、交響体の集団に反映されている点です。

 面白そうです。

1.2の共同態=ゲマインシャフト
3.4の社会態=ゲゼルシャフト

 

 交響体は、解りづらいかもしれず、私なりに捕捉するとこう言えるかもしれません。

 交響体というのは、見田氏のいう「意思」的な共同態です。
 共同態とは、ゲマインシャフトを基にする集団で、意味するところは、地縁・血縁など、「本質意志」で繋がる集団でした。

 なので、交響体の構成員は、自発的に行動する、という特徴があります。

 ところで、これは、すごく不思議な特徴があります。この点に触れて、捕捉を終わります。

 というのは、多くの場合、趣味の集いやある意識の繋がりから交響体が形成されても、体制の維持が難しいという特徴があるからです。

 なぜなら、仮に交響体が形成されても、成員同士は、物理的な身近さによって生じる縁etc.の集団=共同体に変容しやすいですし、組織を運営するために権力構造を有する集団=連合体(相互利益に基づく関係性)に、変容しやすいからです。

 交響体の成員は、うまく形容し難い、研究者や芸術家や、よほどの才能のある人々など、利益ではない繋がりを維持できる自発的な集団ということになります。

 ちなみに、テンニースは、Gekehrten=Republik(学者共和国)という領域を、構想しました。

 という訳で、雑駁ながら、上記が交響体の捕捉でした。

 一方、集列体や、連合体の違いなども、解りづらいかもしれないので、それもまた説明できると嬉しいです。見田氏は、共同体も交響体も、集列体や連合体に含まれるとバランスが良い、との旨を記しており、現にそのようにシステムを社会は作り出しているそうです。

 今後、機会があれば、また続きを描くことにして、ひとまず、今日はここまでにしたいと思います。

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 
ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

 

  

Zauber(ツァウベル)

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(5.16 updated)

 見田宗介氏の『社会学入門』(岩波新書・赤版)

現在、読み直しているのは、1章、2章、P24P68

たった40ページくらいの中に、さまざまな物語が網羅されています。

興味ある話があれば手に取ってみてください。

ここでは雑駁ながら語られてるテーマ、課題、内容を列記しています。

小見出しはイノウエの任意です。

自分にとって備忘録として書き出しました。

さらに本文の文体を消してしまっており恐縮なのですが。

ご参考まで。

 

1章

旅と旅行の違い

・山本満喜子さん(ナチスの海軍将校と駆け落ちした女性の話。相手の将校はドイツの潜水艦を盗んで、アルゼンチンへ亡命、満喜子さんは陸から合流、その後、ダンスクラブの事務員として働き、昼間は練習を続け、やがて世界的タンゴダンサーとなり、カストロゲバラの目に止まる。満喜子・カストロの信頼が唯一の日本=キューバの国交窓口だった時期もあったほど)という女性にスーパーで出会った話。

・ペルーのバス停で話しかけてくる人たち、時間を費やすのでなく、時間を生きる人たちの話

旅は人に出会わせる、旅行よりも、という話。

 

世界初の公共時計

14世紀前半、ミラノなどイタリアの諸都市で設置。時間の枠組みの中に生活がはめられるようになる。ちなみに時計の針は1本だったが、その後、分針、秒針が加わり当時に比べ3600分の1に細分化された話

 

メキシコの死者の日

11月1日、2日に行われるメキシコの原住民(インディオ)の祭りは墓場で日夜宴会を行う。準備にも幾日もの時間を費やし、死者のための食事を用意する、経済合理性には沿わないという話

 

アメリカの100ドル紙幣

”Time is money"の精神のベンジャミン・フランクリンは、近代化の象徴だが、一方、非経済的なインディオの絶滅が望ましい、との旨を手紙に残す話。

 

見えないものと想像力の翼

以下、1990年のある時期、インドのコモリン岬を訪れた際の見田氏談。

 

明け方、日の出に立ち会いたく岸を歩いていると、周囲の漁師の子たちから金切り声が発せられる。

薄暗がりの中、見知らぬ異邦人に対して、行く先に深い絶壁があることを知らせる声だった。その日、太陽が昇りきってからも少年たちと戯れたり写真を撮ったりして遊ぶこととなった。

15年後、2004年12月スマトラ沖大地震で、コモリン岬を津波が襲う。救助に向かったインド空軍のヘリコプターも水と食料を投下するのみで、沖合の岩場に残された数百人の旅行者を救助できなかった。この時、100人以上の地元の漁師が、高潮の逆巻く海に乗り出して、命を賭して旅行者を救った。と報道で知る。

取材した記者に対して漁師の一人は、「助けを求める人たちがいる。やるしかない」と答えた。年ごろからして、救助に向かった漁師は15年前の彼らである可能性は高かった。

”「やったな、あいつら!」わたしは自分の身内のことでもあるように誇りに思った”、ここには世界に広がっていくような聖域を守る人々がいる。

と見田氏は語る。

 

第2章

小林一茶の歌が紹介される。

 

手向くるやむしりたがりし赤い花

一茶が親しくしていた幼い少女が摘みたがっていた花を、ついに添えてやることができた。という内容。

生きている花を摘むことは、少女だとしても許されなかった。

聖域は世俗が侵すことのできない領域。そんな聖域が人の社会にあった。

民俗学者レヴィ=ストロースによれば、アメリカの原住民(インディオ)が自分たちと白人との違いを説明する時、何よりも先に「白人は平気で花を折るが自分たちは花を折らない」と説明したそうだ。感動と畏怖にあふれたもののひとつが花だった。

 

聖域

紫色とは、かつてポルプラ貝と呼ばれる貝を潰し、その数滴に満たない染料を採集し、定着処理にも時間を費やす貴重な色だった。

ローマ時代にその貝の紫は「帝王紫」といわれ、天然の染料の生む最も高雅な色彩と言われた。フェニキア人をはじめ歴史的にも採取が拡大し現在、ほぼ生存を見ないが、ローマの諸都市はこの貝紫で栄えたと言われる。

貝紫は、ユーラシア交易ルートを通って中国に伝わると、それまで黄色を最も気高い色としてきた儒教文化の中国では、孔子をして「紫が天下を乱す」と言わしめるほどの影響力を放つ。やがて貝紫が舶来すると聖徳太子の時代に、冠位十二階の最高位に紫が置かれた。

徳川幕府は秀忠の時代に、位の高い僧侶にだけ紫衣の着用を許す公家諸法度を制定して、1627年、家光の時代には紫衣事件が注目を集めた。権威を 誇示する朝廷は当時の高僧に紫衣着用の勅許を与えたが、それにより、沢庵和尚など、山形県出羽国へ流刑となった。

 

権力、制度による禁色と対比して、民俗学者柳田國男は、「天然の禁色」と名付けた民の自発的な禁色について着目した。

当時の日本人は鮮やかな色彩に、わざわざくすみをかけて、地味な色彩を用いるなど、色彩についての鋭敏な日本人の気質を、純白に対する日本人の姿勢にも見ている。白色の衣類、例えばカミシモを、イロギ、イロカミシモ、と隠語化された言葉が用いられた。ここに、色彩に対する畏怖の念を読み取ることができる、という。

”柳田はその生涯を通じて、良い社会を形成してゆく基盤の力を、「法令で社会制度を作れるかのごとく誤認する権力の手法でなく、民衆自身の自発的、感覚的な心性のうちに見出そうとした”

とのことだ。

 

再びインディオ

貝紫は現在、北緯16度、グァテマラの東西に広がる長い海岸のうち、400㎞くらいの部分で採取することができる。

いまでも、メキシコのインディオたちは成人になり、好きな人ができると貝紫を贈るために、往復二ヶ月間、人生に一度の旅に出るがそれがこの海外だ。この地に今も貝が生息するわけは、インディオが紫を採取する際に、文明人のように叩き潰さず、少しづつ刺激して、液体を手になすりつけて染料を採取し、貝を生きたまま放していたからだ。

”存在するものたちに対するデリカシー、世界に対する感受性の強さのためだった”

 

魔のない世界

社会学マックス・ヴェーバーは、脱魔術化と近代化に関する著書を残しているが、この脱魔術化(エントツァウベルンク)という言葉をドイツの詩人シラーの表現から借りている。

シラーの詩で世界中で知られているものに、ベートーヴェンの第九、第4楽章、大晦日に合唱される名曲がある。

第4楽章、邦題で言うところの「歓喜」の主題で歌われる詩だ。

「お前の歓喜の魔力(ツァウベル)は時の流れが厳しく分断したものを、もう一度結び合せる。お前の柔らかな翼が停まるところでは、すべての人間は兄弟となる」という詩だ。

20世紀後半、ドイツは、ドイツと西ドイツに分裂させられてきた。ある年から東西ドイツの統一チームとして参加したのだが、その選手が金メダルを取った時には、国家の代わりに、この第4楽章が演奏されてきた。

1989年ベルリンの壁が崩壊した時、この歌が鳴り響く。1986年の東京サミットでも、当時のEC代表が空港のタラップから降りてくる時に、国家の代わりにこの合唱部分が演奏された。先方の選定だと思われる。

シラーの詩の合唱が、多くの戦争をしてきた幾百年の西欧の歴史に終始を打ち共同体を作ろうという理念の表現だったからだ。一方、ヴェーバーの記すような脱魔術化=魔のない世界、は近代の合理主義を見据えたアンビバレンス(両価性)な価値を捉えている。

 

ツァウベル(魔力)の行方

泉鏡花という作家がいるが、彼女は近代化日本の中で異次元の世界の無限と、それから、近代人間自身の内にある「ツァウベル」とその運命を描いた作家だった。彼女の追悼に合わせて柳田は、

「結局人間のただの道を、歩めとこそ責め立てるものが、ことに都の生活には満ちていた。あれはあれ、これは是、、そうもあろうが、こうも思う、と。二つを生き分けて何の屈託もなく…」と書いている。

見田氏は、近代化によって聖域が葬られるような矛盾(両価性)は、「獲得するものの巨大と、喪失するものの巨大の、双方を見晴るかす空間へ、僕たちの思考を挑発してやまない」としめます。

 

上記、たった新書の1/4程度の箇所ですけど。濃い!

ぜひ、面白がってみてください。

 

 

 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

アブラハム・パウロ・イエス・危口

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(4.15, updated)

2016年度、自分が最もインスパイアされた記事は、「法に背く罪と、法に委ねる罪がある」といった内容の記事でした。

この内容は、『やっぱりふしぎなキリスト教』に織り込まれたキリスト教の研究者、大貫隆氏の話の中で触れられたものです。
ちなみに大貫氏の語るエピソードの出典は、遡ること事2000年、ユダヤ教から派生したばかりの初期のキリスト教を布教したパウロの視点です。

ユダヤ教の熱心な律法学者だったパウロですが、面白いです。

ところで、持論で恐縮ですけど、自分はこんなことをよく思います。
「思い悩んで出した結論が正しかったときは、それを初めから正しいと知って出した結論よりも価値がある」と。
この考え、べつに特別な視点でもなく、大勢の平均的な感覚かもしれません。

例えば、世の中にある大切な事が、どれも制度化されたら、それは楽かもしれないが、きっとつまらない、と大勢の人が思うかもしれません。

親孝行は大事だからといって義務化したり、挨拶をしない人や投票に行かない人に例えば、懲罰を課そう、とする方針も同様に批判されます。

良いと思われることを予め定める社会より、人の自由や、考える力から生まれる意見のほうが価値があると思う人が多いから、だと思います。

ところで、この話を元にすると、物事をわかりやすくする仕組み(規則etc.)は、できるだけ少なくした方が善い。その方が、人を育てるはずだ。と言う主張も生まれそうですが、実際はどうでしょうか?

その視点から言えば、例えば、商品の価値は解りやすいほど売れるかもしれない、けれどきっとつまらない。とか。
娯楽は、アッと驚く刺激的なものの方が解りやすいかもしれないけど飽きるだろう。など。
そんな感想も多くなりそうですが、どうでしょうか?

...法律も決まりごとも、減っていくというよりはむしろ増えているような気がします。経験や、愛情や、人を思いやる力があれば、決してやらないはずのことを僕らは結果してしまうから、かもしれないです。

短い時間で、インパクトを与える表現も増え続けているような気がなんとなくします。いずれ飽きる事まで考えて、僕らは娯楽や消費活動を楽しんだりできないから、だと思います。

どうやら現実はそんな身体感覚が、法律に対しても、娯楽に対しても、文化に対しても、その基盤となる分かりやすさのテイストを要請していると、言えそうです。

ちなみに自分は現代心理学の学士(大卒)の立場なのですけど、ひとまず、この最小単位の身体感覚迎合主義のようなものを、面白がってます。これをひとまずマイクロポピュリズムと言っておこうと思います。

そんな現実に直面しているさなか。
大貫隆さんの指摘は辛辣でした。

さっそく、パウロの話ですが、彼はこんなことを言います。

掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。
そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は、掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。
ローマの信徒への手紙7章9節~11節

辛辣すぎて面白いです。

掟によって彼は、死んだそうです。
ルールそのものは、善と悪を区別して、罪を定量的に計測できるようにします。
おかげで生活は円滑になります。ただ、この”秤”を人が持つことで、同時に、パウロは根源的な罪が生まれると考えました。

大貫氏の言葉を通すと、「信仰的競争心を生むエゴイズム」を助長する、そうです。ユダヤ教徒の慣例を背景に語ります。

「掟」とは、モーセ律法に含まれる、ほとんど無数の個々の条項が信仰的真面目さの尺度とされているあり方のことである。それは容易に人間を信仰的真面目さの競争に誘うことによって、人間のエゴイズム、つまりパウロが単数形でいう根源的な「罪」を誘発する力となる。
『受難の意味』P40 東京大学出版会

パウロはこの罪に侵食されることを人の生死と結びつけました。生きていても殺されているという、発想になってます。

そしてパウロは、キリストが十字架に掛かって死んだ事例を、反対に、身体が死んでも生きる状態の象徴として位置付けて、例の根源的な罪から解放される、キリスト教の贖罪信仰をローマを始め、地中海沿岸へと布教したのだそうです。

ところで、価値の客観的な尺度を元にした競争社会は、ポピュリズム、効率化、データ志向の現代社会の風潮と重なります。

あらかじめ良いと知覚できるものを、人が無批判に追いかけることのリスクは、エゴが強くなって、回り回って人に余裕がなくなる。そんなとこでしょうか。何れにしてもパウロの言う死ですね。

この根本的な罪から抜け出す方法は、パウロは信仰だといいます。
自分には正直よくわかりませんが、漠然とですけど、大貫さんのおかげで、キリスト教誕生の背景が少しわかった気がしました。

よく分かる論旨と、わからない論旨が混ざった、とても自分の好きなジャンルの話でした。


ちなみに、哲学や芸術の分野はすでに、この手の「善と美の対立」の話や「善いこと」に集中する「権力構造」への批判を、政策や作風の中で取り込もうと創意工夫をしてます。

哲学の分野で言えば、キルケゴールの反復の哲学もそうですし、絶えず血の通った選択を日常生活に求めた、ニーチェ永劫回帰の哲学も、物事に血を通わせるアイディアに富んでいて面白いです。

芸術の分野で言えば、娯楽に潜む権力構造を、舞台と観客の配置に置き換えて考察した、例えば、劇団、悪魔のしるしの故・危口統之さんが腐心していたことにも顕著で、面白いです。危口さんのインタビュー記事が、下に紹介した『えんぶ』などでも紹介されていますが、その他、ゲンロンカフェで鼎談される生前のコメントなども面白いです。
先日、41歳と若くして他界されましたが、彼に対して、今も好奇心が膨らみます。


受難の意味―アブラハム・イエス・パウロ

受難の意味―アブラハム・イエス・パウロ

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

えんぶ 2016年 12 月号 [雑誌]

えんぶ 2016年 12 月号 [雑誌]

2017年新宿ガザ地区

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 2009年1月16日、イスラエルのニュース番組「チャンネル10」の放送中、コメンテーターのシュロミ・エルダーは突然、電話をとった。相手は友人であり、ガザのジャバリア難民キャンプ出身のイゼルディン・アブエライシュ医師だった。医師は、封鎖され報道機関の立ち入りが許されないガザから日々近況を報告していた。「ああシュロミ、ああ神よ...家が爆撃された。私の娘が殺された。私たちが何をしたというのか。...神よ」
 生放送されたこの映像は、瞬く間に他局やネットを通して全世界に拡散された。この映像を見たイスラエル南部、スデロット出身の女性はこう語る。「イスラエル社会の大半の人々が見たくなかった」「見えなかったパレスチナの人の苦しみが声と顔を持ってしまった。それはもう憎むべき敵ではなく、一人の人間、一つの物語、一つの悲劇、そしてあまりに大きな痛みだった」イスラエル人をはじめ全世界の視聴者たちは、封鎖化されるガザへの攻撃で家族を失ったパレスチナ人の痛苦の実態を目の当たりにすることになったのである。

2014 ラジ・スラー講演会 資料集
『ガザに生きる自由と尊厳を求めて』P27 黒田くるみ


上記の惨事に襲われたアブエライシュ医師は、下記のように、表明しました。

「もし娘たちがパレスチナイスラエルが和平に向かう道のりの最後の犠牲者だったと知ることができたなら、私は彼女たちの死を受け入れることができるだろう。たとえ、イスラエル人全員に復讐できたとして、それで娘たちは帰ってくるのだろうか。憎しみは病だ。それは治癒と平和を妨げる。」
イゼルディン・アブエライシュ


アブエライシュ医師にとっての問題の解決法は、憎しみを憎しみで復讐する方法でなく、治癒する方法に変えるものでした。

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(2017.12.11 update)
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改めて、
一般的に、複雑だと思われる問題に対して、私たちは、多くの場合は諦めてしまいます。

1. 複雑な問題は解決の方法がない
2. もしあったとしても理想論でしかない
3. 考えるだけ徒労に終わる

など。

ですが、アブエライシュ氏の応対のわずかでも参考にできるなら受け取り方も変わります。

1. 複雑な問題も解決の糸口になる創意工夫がある
2. もし解決策が理想論なら、理想に向けた小さな努力ができる
3. 自分の行動を変えることができる

イスラエルの砲撃で苦しむガザ地区の記事は、アブエライシュ医師が、想像力を選んだことを伝えるものでした。

復讐ではなく治癒の方法を選び、三人の娘の命を争いをなくすための犠牲と考えた、その想像力です。

彼の苦しさは計り知れませんが、彼の問題への対処する姿は、自分の感覚と想像力を通して、自分なりの行動に移したいと思います。

僕は、ブログを書きます。


資料をお貸ししていただいた図書館員さん、今回もありがとうございました。

イノウエさんは具体的にはブログを書きます

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 1月20日のワシントンポストは、「神は壁を否定していない」と語るある牧師さんと、トランプ氏が対談したことを話題にしておりました。
"God not against building walls"

 ...神はそんなふうに思うんですかね。

 ところで今日ぼくは、自分の目標を書こうと思います。それは"その人らしさ"を世の中に増やすことです。当たり前のことを言うようですけど、読んでいただいた人と共有できることがあるかもしれない、と思うので、もうすこし噛み砕きます。
(2/4updated)
 そもそも、世の中にはいろいろな人がいて、人それぞれの価値観を持っているので、他人に必要以上に関心を向ける必要はないかもしれないです。二丁目にできたラーメン屋は立地が悪い、まもなく潰れるだろう、とか、難民受け入れを表明した時のドイツの外交官は評価できる、と発言したりすることは、本当は必要ないのかもしれないです。
 やるべきことを仕損じると痛い目にあいますけど、余計なことに気を配って失敗した場合はなおさらだからです。そのことを分かっていれば余計なことに首を突っ込まないほうが良いはずです。
 恋人の誕生日、余計なことに気をとられて一度プレゼントを渡し忘れたとしたら、殺伐とした空気が数時間とか1日を通して流れるでしょうか、否、場合によっては次の年の誕生日まで響くと思われます。
 だから、「自分のしなければならないことも出来ないうちに、中途半端に他人に気をかけないほうが良い」と、世間で言われるようなことも常識的に思えてきます。リスクのありそうな世界と自分のいる世界との間に壁を作る常識です。

 ですが、大勢の人と同じで、自分のこれまで見てきた世界は違うものでした。もっと心地の良い世界です。
 何が違うのかというと、それは良い意味で、もっといい加減な世界でした。例えば、ぼくの父親の世界です。父は、月刊ムーという雑誌を好んで読んでいました。その雑誌には、ヒマラヤに800歳の聖者が今も生きてる、という記事を載せるレアな雑誌でした。聖者に興味を示す父は、夜はバラエティ番組を放映するテレビ画面に向かって注文をつけたり、電源をつけっぱなしで寝たりするような、ただの人間でした。父が、ある日、「天網恢々疎にして漏らさず」この言葉の意味わかるか?と尋ねてきました。

 それは中国の諺で、意味するところは、「天の網は、目が粗いけれど全てを覆い尽くす、転じて、肝心なのは大局で見ること」なのだそうです。
 正直、何が何だか、今も、よくわからないですが、変わった状況や人に触れ続けてきました。高校時代のA石やK藤も同じです。とにかく血気盛んな変な人間が、周囲を取り巻く世界でした。
 その世界は、壁には穴だらけで雑多なものが入り混ざる環境でした、「人それぞれ」と、簡単に縦割りで全肯定できない世界で、それより、余計な関心が横に広がるような世界だったと自分には思えます。隣の高校にすごい奴がいる、などいろいろな余計な噂話に関心を寄せていました。
 それは日本野鳥の会の人が探鳥会に集まったり、みうらじゅんが”いやげもの”を集めたりする世界に近い気がします。分かりやすく言うと、楽しく散歩が続けられる環境です。
 
 というわけで、明確な価値を強くする世界でなく、輪郭のおぼろげな、その人らしさの価値をより広げていきたい、というのが、今更ながら掲げるわけではないですが、自分の目標です。探究心や問いかけの価値を他の人と味わったり楽しんだりすることが実践方法です。
 具体的な方法は、自分にとってはブログを書くことです。他の記事←

 徐々に、露骨に、排外的な方針に傾くテレビで放映される風潮に、うっかり触発されましたが。

 シェアできるものがあると思って書きました。同感〜、と思っていただける人がいたら、ぜひとも、このサイトを宣伝してやってください。同時に、それぞれの工夫で、自分らしさを濃くできたらうれしいです。
 

¥切り下げ政策だったんだ

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(2017.1.11 加筆)
新年あけましておめでとうございます。

仏、歴史学エマニュエル・トッドが著書の中で、面白いこと言ってました。

「自国通貨を切下げられないこと」が、EU連合の破綻の主な原因なのだと。そして、日本の金融政策を引き合いに出して評価してました。

どういうことか。

なし崩れ傾向にある今のEU問題を、ヨーロッパ統合の理念の問題や、ポピュリズム台頭の問題として焦点を当てるのでなく、加盟国が通貨切り下げ能力を失った、という銀行の仕組みに焦点を当てます。

ここでは、成功例として対照的な、第二次安倍政権をある程度評価します。ちなみに、2012年12月26日発足当時、70円代だった円は2017年1月、現在110円代後半となり、株価は2倍、貿易収支にとってはプラスに働いています。
実際のところ肝心の、労働者賃金の中央値も、物価も上がっていないので、トッドさんの本心はわからないですが。
ひとまずアベノミクスを説明するのに用いられてきた言葉、トリクルダウン、三本の矢、成長戦略などに変えて、トッド氏はこの政権の政策を「円切下げ政策」という一言で語ります。
枝葉末節した捉え方で、気持ちいいです。

ちなみに、EUではギリシャ財政破綻が話題になりましたけど、観光立国であるギリシャが自国通貨ドラクマを発行できなくなった結果、財政難に瀕したときに通貨安の恩恵を受けられず、観光客を誘致できなくなり、財政難に拍車をかけた、という事実を見れば、わかりやすいです。
もしドラクマのままだったら、財政難に直面したときに、今の日本のように通貨の流通量を多くして、自国通貨安を招くことができました。すると債務は膨らむけれど、その分、割安になる観光業が活性化して、国外からのインバウンドを得やすい)

この自国通貨発行の裁量の問題は、今後のEU問題、特に貿易や観光で潤う地域にとっては死活問題だということに気がつかされました。
通貨の役割って面白い!

というわけで、エマニュエル・トッド歴史学者の視点で見る経済解釈、大局で見てる感が面白いです。


ポピュリズム台頭までの哲学史

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12月4日、日本時間22時。
オーストリアでは大統領選挙、イタリアでは憲法の改正の是非を問う国民選挙が間もなく始まる。
どちらも、自国のEU離脱を促す排外主義的な政権樹立の可能性が秘められているのだが、Brexitやトランプ氏の勝利など、昨今取りざたされるポピュリズム政治台頭の背景を、経済格差や金融の仕組みなど形而下学の諸問題からでなく、僕の知るところの哲学史から追ってみようと思います。


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人々を魅了した哲学の歴史
(2017.2.5updated)

●~16世紀
宗教的価値観(西欧・近代以前)
➡︎人々は律法や教義を価値の中心に据えていた。

●17世紀〜
経験主義(イギリス)
➡︎金銭や既に価値の認められるものや快適さ、など即物的な価値に基づく利己心が判断の基準にされやすかった。
「人は、真っ白な状態(タブラ=ラサ)で生まれてくる」ジョン・ロック(1632~1704)
「パン屋がパンを売るのは、博愛の心からではなく利己心からである」アダム・スミス(1723~1790. 『国富論』)

大陸合理主義
(フランス・ドイツ=神聖ローマ帝国
➡︎人は、生まれた時から理念によって本質に関わることができると考えられた。
「物を見る時に絶えず理念が働いている」ライプニッツ(1646~1716)


●18世紀
カントの哲学
➡︎ドイツの哲学者イマヌエル・カントによって経験主義と合理主義が統合された。

人は三つの能力(分析力・理性・判断力を含めた体系的能力)を通して、主観と美意識を働かせ、さらに世界平和や優れた芸術を産み出したり評価できると考えた。

1. 分析力(...悟性)は、瞬時に物事を分析する力、例えば、利益を把握する、経験主義の視点
2. 理性は、物事を推論立てる能力、夢や将来の構想を描く、合理主義の視点
3. 判断力は、道徳や美学的なセンスを伴う能力。例えば、公共哲学や芸術の視点

1->利己主義になりやすい 
2->理想論になりやすい 
3->平和の視点を育てる

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カント賛成組
● 19世紀
ドイツ観念主義etcフィヒテヘーゲル
➡︎世界精神(理念)が社会を発展させると考えられた(絵に描いたモチだと批判も)
Ex. 国連の基礎を作る。マルクス主義を生む。
共産主義や、普遍的人権の構想、コミュニズムを生むetc

カント批判組 
●20世紀前半
実存主義etcサルトル
➡︎観念主義は絵空事にすぎないと論じられた
「人は何かの目的に従って生きるわけでなく、生きることが目的そのものである」
「人は絶えず自由の刑に処せられている」
「実存は目的(..本質)に先だつ」
サルトル (1905~1980)
(経験主義や個人主義が広まる)
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●20世紀中盤
構造主義実存主義の否定) 
人の主体性は、構造側に決められている、と考えられた。

Ex. 自然界にある無数の元素から少数のものが集まり、例えばタンポポを形成する。同様に無数の音の中から少数の音声が組み合わされ、その地域の言語、例えば日本語が形成される。各々の形成過程は無数から少数が選択され、同種のものを構成するという共通項がある。そのため、人間の主体性にも普遍的な構造が備わっている。と、考えられた。

➡︎比較文化人類学において人間の普遍性は開かれている。
➡︎サルトルを論破。『野生の思考』
レヴィ=ストロース(1908~2009)

●20世紀後半
ポスト構造主義(脱・構築主義
➡︎人の普遍性や体系的な哲学に対して、または実存主義のような内向きの哲学に対して、それらの概念は曖昧なものだと指摘した。

ドゥルーズ(1925~1995)
・人の主体性は非連続と連続の混ざるリゾーム状態。
・人は矛盾する
・考え抜かれた賛成票と思いつきの賛成票には差異がある。
・普遍性には、奇跡のニュアンスが含まれる
これらのことに着目しよう!見直そう!
➡︎
Ex.「反復」「差異」「記憶」の概念を導入する。etc

現代
・ポスト構造主義の哲学によって、言葉には二重の意味があることや、生体の記憶や差異の影響があることが、論じられた。人は、理念をもって生まれるかもしれないし、そうでないかもしれない。
また、実存主義構造主義も、同時に成立するような多くの矛盾を肯定する哲学が直近の哲学である。

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僕の知るところの哲学史は、上記のようなものです。

そこで、なぜ、現在のポピュリズム政治や排外主義に傾向するのか、仮説を立てました。

・ポスト構造主義の哲学が象徴するように現代社会は複雑で、体系的な理解が困難である。

・思考を疲弊させるより、シンプルな理解や、開放感、いわゆるカタルシスを、ぼくらは欲している。

・はっきりと目に見える価値を重宝する経験主義は、判断の基準としやすい。

・結果的に、多様な矛盾を抱える現代の哲学ではなく、複雑な問題を切り離す排外的な哲学を、受け入れやすい。

➡︎ポピュリズム大衆迎合主義)が社会に台頭する
(UK離脱問題、トランプブームetc)

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こういうと身も蓋もないですが、上記の仮説は、ぼくたちが、わかりやすさを求めたり、認知コストを削減することが好き。ってことが背景にあるのかと思います。

なんども歴史は、経験哲学だけに基づくいわゆる利己主義と、知恵への愛情(フィロソフィア)に基づく公益優先の利益重視の立場との間を行ったり来たりしている様子。

そこで昨今離れつつある、フィロソフィアに基づく流れを取り戻すには、一言で言えば、「頭を耕す」という意味での、Culture、Cultivation=「文化を育てる」ことに、尽きると思います。
どうやって?。
という問いに、ポピュリズム社会は直面しつつ。その答えは、一人ひとりがすでに自分の方法で探っているそれ、ですね。
自分にとっては、知恵や命に対する愛情をどう育むか、という問題に直結します。


今年もお世話になりました。
8月には祖母が亡くなり、10月には新しい命が誕生しました。
命の不思議さ、輝きのようなものを感じる年でした。
みなさま、来年もブログ書くのでよろしくお願いします。^^