イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

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アブラハム・パウロ・イエス・危口

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(4.15, updated)

2016年度、自分が最もインスパイアされた記事は、「法に背く罪と、法に委ねる罪がある」といった内容の記事でした。

この内容は、『やっぱりふしぎなキリスト教』に織り込まれたキリスト教の研究者、大貫隆氏の話の中で触れられたものです。
ちなみに大貫氏の語るエピソードの出典は、遡ること事2000年、ユダヤ教から派生したばかりの初期のキリスト教を布教したパウロの視点です。

ユダヤ教の熱心な律法学者だったパウロですが、面白いです。

ところで、持論で恐縮ですけど、自分はこんなことをよく思います。
「思い悩んで出した結論が正しかったときは、それを初めから正しいと知って出した結論よりも価値がある」と。
この考え、べつに特別な視点でもなく、大勢の平均的な感覚かもしれません。

例えば、世の中にある大切な事が、どれも制度化されたら、それは楽かもしれないが、きっとつまらない、と大勢の人が思うかもしれません。

親孝行は大事だからといって義務化したり、挨拶をしない人や投票に行かない人に例えば、懲罰を課そう、とする方針も同様に批判されます。

良いと思われることを予め定める社会より、人の自由や、考える力から生まれる意見のほうが価値があると思う人が多いから、だと思います。

ところで、この話を元にすると、物事をわかりやすくする仕組み(規則etc.)は、できるだけ少なくした方が善い。その方が、人を育てるはずだ。と言う主張も生まれそうですが、実際はどうでしょうか?

その視点から言えば、例えば、商品の価値は解りやすいほど売れるかもしれない、けれどきっとつまらない。とか。
娯楽は、アッと驚く刺激的なものの方が解りやすいかもしれないけど飽きるだろう。など。
そんな感想も多くなりそうですが、どうでしょうか?

...法律も決まりごとも、減っていくというよりはむしろ増えているような気がします。経験や、愛情や、人を思いやる力があれば、決してやらないはずのことを僕らは結果してしまうから、かもしれないです。

短い時間で、インパクトを与える表現も増え続けているような気がなんとなくします。いずれ飽きる事まで考えて、僕らは娯楽や消費活動を楽しんだりできないから、だと思います。

どうやら現実はそんな身体感覚が、法律に対しても、娯楽に対しても、文化に対しても、その基盤となる分かりやすさのテイストを要請していると、言えそうです。

ちなみに自分は現代心理学の学士(大卒)の立場なのですけど、ひとまず、この最小単位の身体感覚迎合主義のようなものを、面白がってます。これをひとまずマイクロポピュリズムと言っておこうと思います。

そんな現実に直面しているさなか。
大貫隆さんの指摘は辛辣でした。

さっそく、パウロの話ですが、彼はこんなことを言います。

掟が登場した時、罪が生き返って、私は死にました。
そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は、掟によって機会を得、私を欺き、そして、掟によって私を殺してしまったのです。
ローマの信徒への手紙7章9節~11節

辛辣すぎて面白いです。

掟によって彼は、死んだそうです。
ルールそのものは、善と悪を区別して、罪を定量的に計測できるようにします。
おかげで生活は円滑になります。ただ、この”秤”を人が持つことで、同時に、パウロは根源的な罪が生まれると考えました。

大貫氏の言葉を通すと、「信仰的競争心を生むエゴイズム」を助長する、そうです。ユダヤ教徒の慣例を背景に語ります。

「掟」とは、モーセ律法に含まれる、ほとんど無数の個々の条項が信仰的真面目さの尺度とされているあり方のことである。それは容易に人間を信仰的真面目さの競争に誘うことによって、人間のエゴイズム、つまりパウロが単数形でいう根源的な「罪」を誘発する力となる。
『受難の意味』P40 東京大学出版会

パウロはこの罪に侵食されることを人の生死と結びつけました。生きていても殺されているという、発想になってます。

そしてパウロは、キリストが十字架に掛かって死んだ事例を、反対に、身体が死んでも生きる状態の象徴として位置付けて、例の根源的な罪から解放される、キリスト教の贖罪信仰をローマを始め、地中海沿岸へと布教したのだそうです。

ところで、価値の客観的な尺度を元にした競争社会は、ポピュリズム、効率化、データ志向の現代社会の風潮と重なります。

あらかじめ良いと知覚できるものを、人が無批判に追いかけることのリスクは、エゴが強くなって、回り回って人に余裕がなくなる。そんなとこでしょうか。何れにしてもパウロの言う死ですね。

この根本的な罪から抜け出す方法は、パウロは信仰だといいます。
自分には正直よくわかりませんが、漠然とですけど、大貫さんのおかげで、キリスト教誕生の背景が少しわかった気がしました。

よく分かる論旨と、わからない論旨が混ざった、とても自分の好きなジャンルの話でした。


ちなみに、哲学や芸術の分野はすでに、この手の「善と美の対立」の話や「善いこと」に集中する「権力構造」への批判を、政策や作風の中で取り込もうと創意工夫をしてます。

哲学の分野で言えば、キルケゴールの反復の哲学もそうですし、絶えず血の通った選択を日常生活に求めた、ニーチェ永劫回帰の哲学も、物事に血を通わせるアイディアに富んでいて面白いです。

芸術の分野で言えば、娯楽に潜む権力構造を、舞台と観客の配置に置き換えて考察した、例えば、劇団、悪魔のしるしの故・危口統之さんが腐心していたことにも顕著で、面白いです。危口さんのインタビュー記事が、下に紹介した『えんぶ』などでも紹介されていますが、その他、ゲンロンカフェで鼎談される生前のコメントなども面白いです。
先日、41歳と若くして他界されましたが、彼に対して、今も好奇心が膨らみます。


受難の意味―アブラハム・イエス・パウロ

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やっぱりふしぎなキリスト教 (大澤真幸THINKING O)

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えんぶ 2016年 12 月号 [雑誌]

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