マチノキッド学習会
10回目を終了しました。
毎回、充実するにはするのですが…
実は、回を重ねるごとに、その度合いが増しつつあります。
テーマは毎回違いますが、ふとした折に過去の学習会のテーマが思い出されるからです。
それは、今回も例に漏れませんでした。感無量です。
歴史上の、多くの学者に重宝された文献であればなおさら、一つの一つの文体の難解さに応じるように、その視点は膨らみます。気がつけば、活字でできた広大な言論空間が、海原となって眼下に広がります。
あれ?
ぼくらはその海原を走る船の上で、酸素ボンベを背負うダイバーじゃないですか。
舳先に座り、背中からくるっと落ちます。さぁダイブです。
ボチャン!!
図書は『日本政治思想史研究』、江戸時代の文学や思想を中心に取り上げたものです。
実家の父と会ったとき
今回の学習会で見聞きした内容を伝えてみました。
充実してるって言うなら驚かせてみろ
と、いわんばかり。
まさに一触即発の臨戦態勢です。
この図書に出てきた単語を、口頭で訥々と並べました。
数打てば当たります。
ひきが良かったワードは「赤穂浪士」でした。
かすかな興味の兆しを感じ取ったので、半ば計算ずくで赤穂浪士のことを、「アカホロウシ」と、読み違えてみました。
すると、
「それは、アコウロウシだな…」
と、身を乗り出して頂いたのです。
まずは、一本釣りで仕留めました。
あとは、潮の流れに任せます。
赤穂浪士の討ち入りは、ご承知の通り「忠臣蔵」として有名ですが。
当時も、センセーショナルでした。
「赤穂浪士」とは藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇を取るべく、かつて江戸幕府に仕えていた吉良上野介(きらこうずけのすけ)の屋敷へ、討ち入りを果たした46名の赤穂藩士(兵庫県)のことです。
彼らに、どのような裁きが下されたのか。
1703年当時、江戸が注目した事件でした。
5代将軍、徳川綱吉に仕えた側用人(そばようにん)、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、彼らの処遇を考慮するにあたり、15名ほどの儒学者から意見を取り入れたと言われます。中でも、当時、爆発的な影響を誇ったと言われる儒学者が、荻生徂徠(おぎゅうそらい:1666-1728)でした。
もし、「打首」となれば、武士にとって屈辱の裁きです。
一方、多くの学者は、死罪には当たらないと考えたそうです。
(レギュラー参加の情報筋Mさんから)
著者、丸山眞男氏はこの時の、徂徠に照準をあわせます。
徂徠は、武士の正義心と幕府の法治体制の双方を考えて切腹を進言したのでした。
その後、調べたところ、大石内蔵助含め17名を引き取った切腹所の細川家では、潤沢な食事をふるまい、酒まで用意し、切腹には格式の高い三枚畳みを用意したとのことです。罪人といえども志士たちは英雄でした。
どうして、荻生徂徠の判断に、丸山氏は着目したのか。
それは、ずばり!
徂徠の視点には、公的哲学と私的心情が備わるからです。
公と私の特徴は、以降、徂徠学を継承する蘐園(けんえん)学派の、太宰春台(だざいしゅんだい)や、服部南郭(はっとりなんかく)等の学者によって、それぞれ、政治学、文芸詩学に受け継がれることになりました。
この公私の特徴は後に台頭する国学に影響したと丸山氏は考えます。
本居宣長の国学とは、政治学か文芸詩学か、と問われれば、なんと答えるでしょうか。
そもそも、本居宣長の「もののあはれ」とは一体なんなのでしょうか?
結論から言えば、徂徠の影響は、より私的心情を扱った文芸の方に強まり、そして儒学を排斥した国学の形で、ついに勃興したのでした。
本居宣長(もとおりのりなが:1730-1801)は幕政に対して従順な姿勢を示しました。”この世では今のめぐみに感謝して変わった振る舞いは慎みなさい”
と詠める歌です。
宣長の時代、将軍は8代から11代まで転々としました。政治哲学は思想史から離れたのかもしれません。
日常のありがたみを感じる情緒豊かな私的心情の側面が、「もののあはれ」に反映されたのでした。
万人が「穏ひしく楽しく世をわたらふ」た上代を理想とする宣長のオプティミズムの方法的根底はまさにこの「もののあはれ」に存するのである。P173
さて国学の思想にダイビングしたばかりではありますが、日本人だからなのでしょうか、西洋哲学ばかり傾倒していた自分には、より面白く思えました。
日本人は、もともと政治に対して意見を言わない国民性だ!
と指摘されることもあります。最近は変わってきているでしょうか。
その理由は、江戸後期に進行した政治からの思想哲学ばなれ、といった状況と、少なからず関係しているかもしれませんね。興味深いところです。
そして父が関心を示したのは、「赤穂浪士」というよりも、実は太極・・・
だったのです。太極ってなに?
王仁和尚(わにおしょう)の時代に百済より伝来された儒学は、南宋の朱熹(1130-1200)によって体系化されました。宋学とも呼ばれる朱熹の朱子学は、道教の陰陽の太極図を用いて理と気を区別するものでした。そして、1199年、日本に伝来し、徳川の時代になり儒学神道として興隆しました。
朱熹による体系は、人間の一人一人の天然の性が、太極の理(=秩序)を担う、と考えるところにあります。これが、おなじみ性即理(せいそくり)ですね………
この体系の特徴は、政治哲学のような高尚な知恵を誰もが備えている、と考える所にありました。結果的には、性善説が説かれ、学問に勤しむリゴリズム(厳粛主義)が浸透したと、丸山氏は分析します。
に着目した国学の誕生背景には、鎌倉時代より続いた朱熹の太極の理学があり、厳粛主義の影響があり、その反動があったと、見てとれるのでした。
目の前にある存在を、まさに存在として受け止める、あるいは、血を通わす…という実存思想が、この言葉の背景で見え隠れする。
そう思うと、またまた、前回までの西洋哲学との関係に思いが至ります。
というわけで言葉が言葉を生んでいく「学び」の循環がありそうです。
学習会を繰り返して、人を驚かせる魔法を身につけるわけではないですが。
人の言葉を大事にできるようになる。気がします。
それが、そのまま社会貢献につながると、言っても、的外れでもないのかもしれません、言い過ぎでしょうか。
学習会に来る人が一人でも増えたらうれしいです。言葉遊び、だと思って遊びに来てください。一生ものの言葉に会えます。
ザッバーン!
いいスキューバダイビングでした。
また良い活字の海に飛び込みたいと思います。
追記:こちらの集いで発表させていただくことになりました。
ご興味ある方がおりましたら、ぜひ覗きにいらしてください
ご静聴ありがとうございました。