イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

Laïcité

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(2019.2.5updated)

 勤め先となる図書館で、あるきっかけからポスト構造主義の話になりました。
 先駆者、ジル・ドゥルーズ氏の名前を出すと、スタバのコーヒーのサイズの読み方くらい、覚えにくいと言われました。笑

 その流れもあり、別の日、また他の図書館員さんに、ライシテって知ってる?と聞かれました。もしかするとパン屋の名前かな、と思いましたが、それはさておき。
日本語にうまく変えられない、共存と共生の違いの問題を扱っている言葉だと教えていただきました。

 その方から、白水社の『シャルリ・エブド事件を考える』を勧めていただいたので、書架から拾ってきました。日本十進分類の請求番号は316.1カ

 300番台は"政治"、16は"国家と個人"の分類です。

 熟練の図書館員の方なら本を手に取らずに、この図書の内容を想像できるんですよね。熟練なら…

 ところで、その本の中で話題となるLaïcité(ライシテ)。この言葉は、フランス語で、世俗主義を意味します。

 フランスに住む方々には馴染みのある言葉なのだそうです。そもそも、フランス共和国憲法第1条に書かれた内容が、このライシテの主義に基づきます。

"フランスは、不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出自、人種あるいは宗教の区別なく、すべての市民の法の前の平等を保障する。"

 これが1条の抜粋です。

 単に世俗主義というと、日本の文化のように、宗教性を持たない感じに思われますが、そうでなく。

"宗教共生の原理"

 なのだそうです。
 なぜこの言葉を取り上げたか。

 この言葉は、予期せぬところで、同時に両義的な解釈を生んだ言葉だからです。
 歴史的には「イスラモフォビア」(ムスリムの差別)との関連を生みました。

 例えば、 2004年には、公立学校で、宗教的標章の着用が禁止されましたが、具体的にはイスラム教徒のスカーフ着用が禁止になりました。送り迎えをする親の服装については問われるものではなかったのですが、その後、生徒だけでなく、スカーフそのもの是非が問われるような議論に発展しました。もともと宗教に対する寛容の精神から生まれた方針が、結果的に少数派の文化の抑圧につながる局面を生みました。

 今や、Laïcitéは、原義から横滑りして、宗教性の否定などを含意する言葉に変わりつつあるそうです。

 ちなみに、 字義に反する意味を、同時にその言葉に含む"差異"の問題は、ポスト構造主義の哲学の話題の一つであり、社会学ではアンビバレンス(=両義的)と形容する、まさにタイムリーな話題でした。

 シャルリ・エブド事件の直前に、ラッパーのメディーヌは下記のような歌詞を発表しました。

マグレブ出身のあんたの髭、この国じゃ好かれないぜ、俺の妹のスカーフ、この国じゃ嫌われる、あんたの黒い信仰もこの国じゃダメだ、ご婦人とご紳士のカップルも、この国じゃ好かれない、みんな天国へ行こう、天国へ行こう…」
....(Dont like と Don’t laïc に二重の意味を含んでいて、後者の意味は「ライシテしない」つまり「宗教色を捨てない」という歌意と解釈できる。言い換えれば、フランスのライシテ(世俗主義)を皮肉るようなリリックになっている。(陣野俊史)


 言葉に血を通わせることに大きな価値がある、と思わされる「316.3カ」となりました。迫る2016参議院選でも、誰かからの借り物の言葉でなく、血の通った言葉を語る候補者に、票を投じたいと思わされます。

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

シャルリ・エブド事件を考える: ふらんす特別編集

 

スナップワーク

f:id:keitarrow:20160602000350j:plain学術系スナップショットブログ始めて、一年経過したところです。

現在、卒業して2年が経つので、受け入れてもらえるかはわからないのですけど、卒論を書き直しています。

********

追記:

論文"リゾームのカント"を、立教大学、現代心理学部、当時お世話になった宇野邦一先生に、届けさせて頂きました。

キェルケゴール型の人たちへ

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図書館員として働きながら、いろんな図書が市内の分館や地下書庫をめぐって、行き来して、手に触れていきます。
仕事後『キェルケゴールを学ぶ人のために』を手にとって読んでみました。

Søren Kierkegaard (1813~1855)

デンマーク語は、読み方難しいので、日本では、セーレン・キルケゴールとも言われます。
ぼくは、この人、好きです。主観がビビッときます。

第一回目のブログにも引用させて頂いた、この人は、『反復』の哲学を、恋になぞらえたりします。

実存主義創始者とも言われますが、そう説明されると難しいです。
日々の生活を血の通ったものにしようとした人、と言われると分かりやすいです。

ところで、この人、自分にとっては不思議なことを起こす人です。

それまで書かれていなかったのに、ある日、自分の直面する発見を誰かと共有したいと思わせられた時、改めてその文面に目を通すと、突如、自分の体験がその中に浮かび上がる、という魔法をかけてくれる人です。

僕は、写真が好きですが、前は日本一好きだと言えました。毎日、写真のことで頭がいっぱいでした。

人並みかそれ以上かビジュアルに対する感度が高かったと思うのですけど、今は、このブログを始めた通り、活字にワクワクします。

キルケゴールはそれを見透かすように、
自然の感覚の中で生き生きする状態から、
善きものに対して生き生きする状態へ移りゆく人たちのことを書き綴ります。

この状態で、謙虚でない状態を、アイロニーと呼ぶらしいのですが、この状態をあっさりと批判します。(理由:善きものは教科書どおりになりやすいから)

もう一つの状態があります。それは、聖なるものによって生き生き、させられる状態で、これをフモールと呼びます。こっちも謙虚でない状態を批判します。

本当に人生に血を通わせて生きる人たちはそのどちらも備えるとのことで、贅沢なことを言います。ちなみにフモールはユーモアの元になった単語です。

自分の話に戻ると、以前は確かに自然と写真を撮ることで充実していたけれど、もう一歩深く、社会に関わろうとした時、哲学や社会心理学の世界に足を踏み入れることになりました。

その世界には、知識の積み重ねが次々に社会で起きていることを噛み砕いてくれる楽しみがあったので、ワクワクしました。それと同時に、いつの間にか教科書のような答えに縛られてしまうこともありました。

キルケゴールは、善きものが、言葉を媒介して一定の選択肢に絞られることや、その危うさに無頓着になってしまう状況に警鐘を鳴らしました。

このような指摘を受けると、わかったような気になっていたり、漠然と、アイロニーの状態に陥る人々の中に、自分がいるのかと思わされて、さらにハッとして面白くなります。


興味ある人はブログ1回目に目を通してください。キルケゴールの視点がもう少し分かると思います。

ありがとうございやす。
ということで、キルケ兄さん。
またまた、面白かったです。
ついていきやす。


All we need is somebody to lean on.
(誰だって頼る人が必要よね)
デンマークのMØの歌に出てくる詩が思い出されたのでリンク掲載しますー
(文脈はまるで違います)
www.youtube.com

キェルケゴールを学ぶ人のために

キェルケゴールを学ぶ人のために

人それぞれと人らしさ

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何か日常生活で意見がすれ違ったり、友達と喧嘩したりしたとき、はたまた議論が煮詰まった時「人それぞれだから」という言葉で、話を終わりにすることってないですか?

今回は、「人それぞれ」の深い意味を教えてくれる哲学を紹介します。
人それぞれと言っても、同じ人間だから共通する心があるだろう、そんな予想が立ちますね。これまでの学者はどのように考えたのかを、追ってみます。

そもそも人類に共通する何かを探求するような、人間を俯瞰したような考えに興味がある人とない人がいます。
それを、MAP LOVER とMAP HATER とある学者は表現しました。(福岡伸一、2012)
この、世の中の俯瞰図を好む人と、好まない人がいるという話は、実はすでに紀元前 400年頃から語られている哲学の人気テーマの一つです。
知恵を身につけようとする人は、むしろその全体像を知らないで良いと考える人たちにとって害となる、という内容です。(プラトン, B.C427~B.C357)

なので、いろいろな人がいてそのタイプの違いで主張も分かれますが、それを含めて、哲学一般は答えを探求していきます。

例えば、MAP HATERに好まれるような「人それぞれ」は、宗教的な価値観から解放された近代哲学で重宝されました。フランスの哲学者サルトル(1905~1980)は実存主義という哲学を主張しました。それは結果的には、「人それぞれ」の個人主義的な解釈を世間に広めるものとなりました。

個人主義的な意味での「人それぞれ」って、なんだか味気なくないですか?その時代、個人の主体性=実存という言葉だけでは、人の本性を説明できないことを、同じフランスのレヴィ=ストロース(1908~2009)が言及しました。

人間の多様性についての認識は、むしろ自己のアイデンティティの罠にひっかかっている人の方にときにはより容易に見えるものである。
しかしそれは、人間の普遍性の認識への扉を閉ざすことになる。ところがサルトルは、自分のコギトの虜となっている。(レヴィ=ストロース、1962、La pensée sauvage、邦題 :『野生の思考』

コギト:cogito ergo sum(我思うゆえに我あり)の"我"

そこまで言うなら、すべての人に備わる共通性(普遍性)ってなに?
という話になります。

それを、たとえば「趣味」だ。
と論じたのは国連の構想を最初に公表したドイツの哲学者、イマヌエル・カント(1724~1804)です。

カントは前時代の哲学者でしたが、すでに、「趣味」≒その人らしさ、の性質を、「主観的普遍妥当性」と呼ばれる性質を用いて分析していました。(カント, 1790)
ちなみにカントは、人は誰も寿命がある、人はみんな違う個性があるという事実としての客観的な普遍性と、心の問題を扱う主観的な普遍性とを区別しました。

さらに、人の主観はそれぞれの在り方で人類に共通する美しさや道徳に関わる。との旨をカントは分析しました。

ある人の美しいと思うものが結果的に誰にとっても美しいものであるような美意識を、僕たちは備えている。なんてキザな主旨のことも言います。これが、主観的普遍妥当性の性質です。

MAP LOVERは、この性質に興味を抱くので体系や全体像を知覚しやすく、
MAP HATERは、そんなものを必要としないので気にも止めません。諸説ありますが、この感覚は"分量"の差がある、との旨をカントは記述します。

なので「人それぞれ」を単に「人それぞれだからお互いを尊重しよう」と解釈するよりも、

その人らしさを失わないそれぞれの生き方を尊重しよう

と解釈したほうが面白いぞ、と哲学は語りかけます。
この哲学は、ぼくらは人それぞれと同時に"人らしさ"を共有していて、本質的なものに向けられた共感の力を備える。ということを意味してます。

賛否はさておき、こんな風に、それぞれの個別性と普遍性の関係について、歴史的にも議論を経ていたというのは、カント、サルトルレヴィ=ストロース、その後の、ジル・ドゥルーズなどを読んでみたところの自分の拙い見解ですが、まったくもって面白いですよね。



それから、私事で恐縮ですが、今年度から地元の図書館で働くことになりました。良い本を知るきっかけにしたいです。

野生の思考

野生の思考

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

たむくるや むしりたがりし 赤い花

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自分が社会学系の本を好きになったきっかけは、ある本です。大学へ入学したての頃、社会学部の方に薦めてもらった見田宗介先生の『社会学入門』という新書です。その中で紹介されていたある俳句が目に留まりました。

手向くるや むしりたがりし 赤い花

まず、この句を読んでどのように思えたか。

...

...口ぽかーん

 

だったのを覚えてます。
もともと少年ジャンプしか読んでこなかったので仕方ないです。

 

ところで、この句、どんな意味が込められてると思いますか?

手向(たむ)くるとは、有難いものに手を向ける=供える。
あとの部分は、むしりたがった赤い花、

を意味するそうです。これだけ聞いてもパッとしません。

 

この句は、小林一茶が、可愛がっていた幼子が亡くなったときに詠まれた俳句なのだそうです。

さらにあるエピソードがこの本の中で紹介されます。
民俗学者レヴィ=ストロースが著書『野生の思考』を執筆しているときのことです。

 

アメリカの原住民は、自分たちと白人の違いについて、現代人の着目する違いよりも先に「白人は平気で花を折るが自分たちは花を折らない」ということを挙げた、とのことです。

 

これは比較社会学の核心に触れる問題なのだそうですが、それはそうと見田先生は、その句の読まれた江戸時代にも花が咲き乱れていた、と補足します。
そして、それは畏(おそ)れと感動に満ちたものの一つだった、なので、幼い子でも花をむしることは止められていた。だから、この句は

「あんなにむしりたがっていた赤い花だよ」

と一茶がその子に手渡すように詠んだ句だ、と紹介されて、改めてその句を読んでみると

...
たむくるや むしりたがりし 赤い花
...

素晴らしい句だ..

 

と思わされたんで、不思議です。ところで、今では意味を知ったので、面白いと思わされますが、それまで写真ばかり撮っていた自分には新鮮でした。フレームの中に、良い感じで活字が混ざってきた感じがしました。


 

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)

 

 

ういういしさ哲学

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自分は学士の学位なので、専門家とはいえないキャリアですけど、それでも、実践的と思える哲学に出会ったら、大学4年間の講義を参考に、文献紹介をしたいと思います。

ところが今回、あえて過去の自分の手記から、とあるエピソードを紹介することにしました。自分なり後から読み返してみて、初々しい哲学が、面白かったんです。

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当時、20代前半の自分。
所属して間もない事務所から、初めて海外ロケの撮影が舞い込んできた。
行き先は、パリとミラノだった。
それを聞いて浮き足立ったのも束の間、結局のところ、帰りの飛行機の中では、窓ガラスに腹をたてることになった。

空はくすんだように見えて景色も楽しめない。曇り空なのか、ガラスの方が汚れているのか、思った以上に視界が悪い。フライトアテンダントの仕事に若干、腹を立てた。そもそもFAが窓拭きの仕事を任されているのかは知らない。ただ気分は冴えなかった。その気持ちの発端は、実は、ある人との出会いにあった。

現地で同行したスタッフさんの一人、フリーのライターさんは初めて顔を合わせる人だったけれど、最初の挨拶の時には、すっかり見入ってしまった。艶やかで魅惑的な雰囲気を放っていたからだ。
どんな関係なのかは知らないけれど、クライアントの大手広告代理店、そこのディレクターさんと懇意の仲のようだった。
彼女は容姿端麗だけれど、なによりも色気がある人だった、それも男ウケする色気、俗にいうフェロモンの量が尋常じゃない人だった。なんとなく、気をとめるようになっていた。


初日
自分は新人カメラマンの立場。仕事に専念することだけを考えた。
この日、そのライターさんと知り合うことになる。

2日目
パリのホテルで、早くも自分は彼女から相談を受けていた。仕事の進め方とか、写真は縦位置に統一したほうが映える、とか、レイアウトに関してのことだった。

3日目
彼女が例のディレクターさんに呼ばれていた。
後から聞けば、現場の空気があまり良くないとのことだった。さらに、その現場を乱す原因の一端が、そのライターさんにあるかもしれない、とのことだった。たまたまその時、ホテルのロビーでいっしょにいた彼女は一言「いってくるね」と残して、ホテルの一室に向かった。その後ろ姿を今も覚えてる。
体のラインがなんというか肉欲感があって、その容姿を目にすると撮影対象の某女優さんでさえ霞んで見えた。

4日目
仕事の後、ホテルに戻ると電話が鳴った。ライターの彼女から相談がある、とのことだった。部屋に行くと、そこで悩みを打ちあけられた。
なんとなく想像していたことと大して変わらない、思った通りのはなしだった。
それよりも問題は、下着の透けてみえるシャツを着て、酒を勧めてくることだった。笑
素肌がより色っぽく見える。目がくらむ。

5日目
ミラノにロケ地は移動。
仕事内容は、某メイカーのワインカクテルを紹介していく旅で、女優さんが現地のスタイルで案内していくというもの。女性誌各社に同時にビジュアルを寄稿して、カクテルの流行を作り出すという流れだった。
赤文字系と言われる女性誌7、8社が、同時に記事を連動させる。すると読者はそれを流行だと錯覚するそうだ。"広告代理店らしい"面白みが詰まった仕事だった。

ところで、仕事後、ホテルの客室に戻ると電話が鳴った。その日、別の現場で取材を終えた彼女の話は、仕事のことだけでなく、とりとめがなかった。彼女の部屋へ行くと、彼女はパジャマ姿だった、素肌ばかりが気になり....ぼくは、完全に彼女に肩入れしていた。

6日目
その日、彼女は現場にも、他の現場にもいなかった。

7日目
ミラノに来てからは怒涛の仕事量だった。半ば浮かれそうになっていた自分には良い薬になった。クライアントの指示のまま、良い結果を出せた。彼女は一足先に帰国したと、話を聞いた。

8日目
帰りの飛行機の中では、後悔していた。
ミラノに移動した5日目の夜は不思議だった。ホテルの部屋の内線が鳴って、彼女の部屋に赴いて、そのままドアをノックして、言われるがまま中に入ったのだけど、そこには落ち込んだ表情の彼女が立っていた。顔を覗くと疲れが滲み出ていた。

単刀直入に要件を話してくれた。
例の広告代理店のディレクターの話だった。
「ヤツはわたしとヤりたくて迫ってくる」のだそうだ。そして彼女は困惑していた。
その日は、まるで違う一面をぼくに見せてきた。彼女の作ってる詩を聴かせてくれたり、iTunesで雑多な曲を聴いて感想を言い合ったりした。

それから、薄暗がりの中で流れに任せてソファに横になって、彼女も寄りかかってきた。結局のところ、一緒にベッドの上で横になった。
髪の毛が顔にかかって、近くにいるだけで溶けそうだった。酒も入っていたし火照った彼女の肌が変な湿度で触れ合ってきた。科学変化を起こしそうだった。そしてなにより、そのままどうにかなりそうだった。まだ会って5日しか経っていない二人が、同じベッドの上で寄り添っている。顔が近づいて頰が触れていた。
そのとき、こんな一言が口をついて出た。
「疲れてるみたいだし、だからといって、そのスキにつけ込むわけにいかないよ。」
と、僕は見栄を切ったのだ。そのあと、他愛のない話が続いて、いつのまにか彼女は眠っていた。

今は飛行機の中、思い出すとため息が出た。
機内の窓ガラスがさらに曇った。もともと、汚れていただけかもしれない。
フライトアテンダントに不満をぶつけながら、自分のプライドの浅はかさを思い知らされた。
もったいないことした。と、本音のため息がこぼれてた。

あんな美人はもう会えないだろう。
そう思うと、余計、視界が悪くなった。

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誰が得するわけじゃないですけど、若気の好奇心と浅い哲学でした。
何が言いたいのかというと、男をからかうな、ってことじゃなく、初々しさがあるって話です。
ちなみに、具体名、背景など、バレて迷惑になると嫌なので、多々変えてます。

来月は、学術系テーマにもどりたいと思います!

ショーペンハウワー2016

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年始はソウルから

 詩人は花をもたらす人に、哲学者その精をもたらす人になぞらえることができる。

2016年、今年も張り切ります。
ところで、なぜ好奇心ブログを書いているのか、簡単に書いてみます。

理由は、言葉はお守りだからです。必要ではないけど持ってるだけで、あるとき効力を発揮するような、お守りです。

例えば、こんな文章に出会ったとき。

 詩人は人生の絵図を人の想像力に描いてみせ、それらすべてを活動させ、(略)これらの絵図に触れて考えを運ぶのに委せる。(略)これに反して哲学者は、詩人のようなやり方で人生そのままを示しはしない。彼らはそこから引き出してきた整頓された思想をもたらし、その上で、彼の読者が彼と同じように、また彼と同じ所まで考えを進めることを要求する。このことのために、彼の読者層はすこぶる小範囲に限られてくる。
 こういうわけで、詩人は花をもたらす人に、哲学者その精をもたらす人になぞらえることができる。

『知性について』ショーペンハウワー P12

もともと自分は仕事で絵を描く機会があるんですが、実際に色や構図を考えるときと、哲学や社会学系の文章を書くときの違いについて、こんな風に思わされる。
その違いは、人の想像力に働きかけるか、理性に働きかけるか、じゃないかと。
そんな風に、なんとなく思わされていたところ。
ちょうど良い流れで、このショーペンハウワーの言葉に遭遇したんです。おかげで、しっくり安心できる言葉の効力に触れました。

ところで、絵を描くとき、文章を書くとき、どちらも自分を駆り立てる何か、共通項があります。

それは、大げさなものではないですが、どちらも共通するところからエネルギーが湧いてきます。そんな風に思うと、また、あるお守りと遭遇します。

 鳥はまだ知らないひなのために巣を作る。ビーバーは目的も解らずに建造物を築く、アリ、ハムスター、ミツバチはそれらの知らない冬のために蓄えを集める。クモやアリ地獄はそれらの知らない将来の獲物のために慎重な計略によるかのように罠を作る。昆虫はやがて生まれてくる幼虫がいつか食物を発見できるような場所に卵を産む。
(略)
 雄のクワガタムシの幼虫は、変態に備えて木に穴をあけるとき、この幼虫はその穴を雌の二倍の大きさにかじりあけ、将来生える角のための余地を確保する。〜動物の本能は自然の持つその他の目的論を我々に最も良く説明してくれる。

『ショーペンハウワー全集2巻 』P294

こんな言葉です。

将来を予測できない動物と、統計予測を用いる人間は、まるで違う生き物ですが、まだ知らないことのために、ワクワクの動機はフル稼働させておきたいです。

好奇心ブログ
今年もよろしくお願いします。