(とある渋谷のカフェ)
フランツ・カフカ(1883-1924)の幼少期の写真を下に掲載しました。
当時の写真館で撮影されたその写真は、背景の装飾がすでに形式的なものになっていたと、哲学者ヴォルター・ベンヤミン(1892-1940)は指摘します。
その指摘は、技術の流行と、その後の、いわゆる「形がい化」の経緯の中で芸術的性格がどのように関わるのかを示すものでした。
現代では、コンピューターサイエンスの延長線上の視聴覚表現が都市のインフラとなりつつありますが、アートとして表現する場合の技術の新規性に対しては、ベンヤミンの論旨は新鮮です。
※アウラの言葉は有名ですが、この語句の最初の記述が下記の引用箇所だと言われます
6歳ぐらいの少年が、一種の温室風景の中に立っている。シュロの葉は、背後でそよぎもしない。~モデルは左手に不釣り合いに大きいツバの広い、スペイン人がかぶるような帽子を持っている。こんなお膳立てをされては、モデルは埋没してしまう他なかっただろう。もしも計り知れぬほど悲しげな両目が、~この風景を圧倒していなかったならば。
(Franz Kafka 1889)~初期の写真に写っている人たちは、まだこの少年ほど孤立無援のうちに世界を見つめてはいなかった。彼らのまわりにはアウラがあった。
~従ってこの揺籃期の写真に関して、それらの「芸術的な完成度」とか「趣味の良さ」とかを強調するのは誤った解釈である。これらの写真がどういう場所で成立したかを考えてみれば良い。そこでは写真家はどの顧客にとってもまず第一に、最新の流派に属する技術者であり、一方、写真家にとってはどの顧客も興隆しつつある階級の一員だった。
アウラとは何か。空間と時間が織りなす不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現れているものである。
(Walter Benjamin 1931『Kleine Geschichte der Photographie』 訳 久保哲司 1998『写真小史』)
こうして、ベンヤミンは
”最新の流派に属する技術者”のまとうアウラを、芸術や趣味の視点から(それを強調して)評価するべきでない、と主張したことがわかります。彼のメディア芸術に対する姿勢が鮮明で面白いですね。そして、アウラを剥ぎ取った最初の写真家を評価します。それが、前回のブログで紹介した。ウジェーヌ・アジェでした。
それにしても、6歳のカフカ氏、物憂げですね。
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