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サイクス=ピコ協定と総選挙

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(2020/1/12 UPDATED)

 一週間ほど前、勤務させていただく市内図書館に予約していたとある本が届きました。半年かけて招聘されたその本とは、『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(池内恵、2016)です。

 2014年の夏。中東で勃興したイスラム国(IS)の誕生背景がこの図書を眺めると良くわかります。IS樹立の際に掲げられた「サイクス=ピコを越える」という黒装束の教徒のメッセージは何だったのでしょうか。
 現在の、不安定な世界の不思議を紐解くには、この『サイクス=ピコ協定』を始めとする大国の密約や帝国主義の凄みを知っておくことが助けになると思います。現在、日本の置かれている国際的な立場を知るためにも、この本は有意義でした。

 余談ですが、先般、北朝鮮に対して、『対話は通じない』と安倍総理が演説しており、その理由をいくつかの点から述べています。
 対話を続けようとしても、拉致問題は棚上げされたまま、相手には取り合う姿勢がない、などです。

 この著書に描かれた歴史に顕著なことは、外交は緊密に絡み合う大国のパワーバランスを、利害関係を調整して、どう利用して活用するか、ということでした。それが驚くような方法を用いて展開されているのがわかります。平和を維持するための外交も、二国間だけの対話で功を奏すものではないことが、想像されるのでした。

 特に朝鮮半島は、日本と同様、冷戦時代から対立の前線となる要衝だと思われます。イノウエの知るわずかな情報ですが、北朝鮮は過去、シリアと原発の開発技術で情報共有がなされていました。現在もその背景が続くとすれば、ロシアも利害関係にあります。とすれば、日本の対話する方向は多岐に渡るはずです。

 ところで、北朝鮮問題とは、まったく別に見えるサイバー空間でも、現在、米国とロシアの情報戦の苛烈さは増しており、10月に入って「アメリカがイスラム国殲滅の障害になる情報」をロシアが発表するほどです。
https://www.google.co.jp/amp/www.newsweek.com/russia-says-us-main-obstacle-final-annihilation-isis-678472%3Famp=1

 焦点の当たらない部分でも常に大国同士のせめぎ合いがなされているので、『対話は通じない』場合は、米露または中国に、どのように働きかけて不毛だったかを論拠にする方が、適切だと思えたのでした。池内さんなら、どう考えるでしょうか。

 ところで、「サイクス=ピコ協定」とはいったい、なんだったのか?本題に入ります。

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 この協定が、中東の混迷を招いた諸悪の根源と、報じられることがある、と著者は言います。

 かつて中東に広大な領土を占有したオスマン・トルコの国土を、第一次大戦後、戦勝国でどのように分割するかを決めたものが、この『サイクス=ピコ協定』でした。
が、実際には二転三転するものでした。

 1916年に合意を得たこの協定は、もともと、秘密裏に英仏露によって取り交わされましたが、1917年のロシア革命で露が離脱し、その後、レーニン率いるボリシェヴィキ政権がこの密約の存在を暴露します。
 そこで世間で言われるところの、勝手な国境の線引き。現在のトルコの大部分とシリア、そしてレバノンが、フランス領。
 イラク、ヨルダン、アラビア半島の大部分がイギリス領。
 コーカサスの南の一部やトルコ(アナトリア半島)の首都がロシア。
 首都とはコンスタンティノープルで、黒海と地中海を結ぶボスポラス•ダーダネルス海峡をロシアの領土とするはずだった密約を、世間が知ることになりました。

 ロシア帝国の崩壊後、フランスもイギリスも、サイクス=ピコ協定を結んだものの、それを実施する戦力や統治力を残しておらず、1920年には、諸地域に生活する人種や民族の、より自然な民族分布に近い国境が画策されるようになりました。その変更を条約化したのが、セーブル条約(1920)です。

 池内氏は、もし、現在の中東の混迷を、サイクス=ピコ協定など大国の恣意的な国境の線引きにあるとすれば、セーブル条約が誕生したことによって、後世の問題は解決されたはずだと、示唆します。

 セーブル条約の通りであれば現在、新聞紙面で取りざたされるクルド人の独立の問題となるクルディスタンも建国されるはずでした。

 では、このセーブル条約を破綻に追いやったのは、どこか、といえばオスマン帝国瓦解後のトルコ民族でした。彼らはオスマントルコの中心地だった、コンスタンティノープルを始めとするアナトリア半島全域を、実力で取り返し、トルコ共和国として延命したからです。裏を返せばトルコよりも強い統治主体がなかったからとも言えます。

 1923年、ほぼ現在の中東の国境と同様の区分けを用いたローザンヌ条約が採用されることになりました。

 また、サイクス=ピコ協定に向けられた批判の中心には、イギリスの二枚舌外交の問題があると言われます。いわゆる、ナショナリズムを煽り敵国の統制力を撹乱させた取引で、同時に同じ土地を別人種に与える約束をしたと言われますが、よくよく状況を見てみると、アラブ人の国はヒジャーズ国、のちにその血族の統治によるヨルダンとイラク国の譲渡がなされ、ユダヤ人の国、つまりイスラエル建国も、アラビア半島と重ならない地域に区分けされたので、約束は結果的には、反故にされず取引が成立しました。


フサイン=マクマホン協定を元にイギリスの先導したアラブ人(ファイサル1世率いる)部隊は、一時イギリス領を越え、フランス領マダガスカルにまで侵略するも、ヒジャーズ国と引き換えに撤退している)

 ちなみに、戦時中フランスはオスマン帝国内のキリスト教徒に対して、レバノンという国の建国を約束して、実行しました。

 この著書に書かれた史実だけを元に考察すれば、大国の問題は、二枚舌外交というよりも、もともと建国される地域で生活を営んでいた建国の民族以外の民族を排除してしまったことにあると、言えそうです。
 

 バルフォア宣言に基づくイスラエル建国にとってのパレスチナ難民、ローザンヌ条約以降のイラクやヨルダンのハーシム家スンニ派)に対するその他のスンニ派の排除によって、のちにビシャース王国は侵略され、現在のIS誕生の引き金となったからです。

 帝政オスマントルコ時代の圧倒的な勢力の元では、玉石混合の民族分布で、バランスが保たれていたものの、個々の民族や血統の結束と自治権を生かした結果、悲願の建国と引き換えに、今度はそれまでその地で生活していた少数派の人々の恨みを買ってしまう。これが、第一次世界大戦後に中東で起きた問題の中心だった、と感想を持ちました。

 こうして、巨大なイスラム帝国だったオスマントルコの衰退に合わせて生まれたサイクス=ピコ協定の強制力は脆弱で、ある時期、実現するかに思われたより自然な民族の繁茂に合わせた区画は、最終的にはトルコによって覆され、大国の二枚舌による杜撰な外交という批判は、当時は辛うじてではあっても、かつて解決されていた問題を、再び掘り起こした指摘だったことになります。

 さらに現在のイスラム系過激派組織の多数を占めるスンニ派に対しては、そもそも建国の約束まで果たしていた、という事になる。

 サイクス=ピコ協定そのものが諸悪の根源という指摘は、その全てが当てはまるわけではないと言えそうです。

 そんな感想を持たせる史実の証左が、豊富に記されていて、勉強になりました。建国に踏み切ることは多く禍根が残る。同一民族の文化の良さの価値と、見合いにした時に、いったい、何を守ろうとしたのか、改めてぶれない知恵が求められていることに痛感させられたのでした。

 

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【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)

【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 (新潮選書)