『美と芸術の理論』ーカリアス書簡 シラー著から引用
1793年2月19日
さっそく昨日の話の解釈をすることにしましょう。(昨日の話)
第五の行為が美しいものである理由は(略)まったく我を忘れて、自分の義務を、やすやすとあたかも本能から出たかのように行ったからです。一言で言えば、自由な行為は、心情の自律と現象における自律とが、一致する時に美しい行為となるのです。美的評価においては、あらゆる存在は自己目的とみなされるからです。(略)
上記は、シラーの解説の一部です。
心情の自律、と、現象の自律、について補足:
心情の自律とは、〇〇という目的のためでなく、自発的に自分へ義務を課すことです。また、現象の自律、というのは、見る人に負担をかけたり、考えさせたりしない、むしろ自由さを感じさせる現象です。
筆者補足
まとめると、
自発的な義務を担い、なおかつ、気軽さを伴う行為は、美学的評価を高くする。
さらに噛み砕くと
その人らしい意義ある振る舞いを、さらっとできる人は、かっこいい、と、シラーは言っている様子です。
なお、義務や自律というと、いかにも堅苦しい感じがしますし、シラーが自らその人の学徒と称するカント本人は、それを「結果的に誰にも不利益を被らない行為」いわゆる道徳律、と言います。
さらにこの道徳も人によって、独りよがりになりかねません。なので、経験的に検証することの大事さも語られます。
ところで、シラーの例え話(前のブログ)では、多くの人が同様の責任感を想定しやすい状況として「貧困に窮した人を、助ける」といったデフォルト義務をあつらえました。
命を救う=人類の義務、という図式に前触れなく導入しており、この点に疑問を抱く方がいれば、そういうことだと思います。
例えば、利益を得ることは義務だと思う人、そもそも素通りすることに義務感を感じる人、などもいるかと思いますが、誰の不利益にもならない行為とは、結局、上記でいわれるところの自律的=美的な行動性向に収斂していきます。
そんなこんなで、美を定義づけようとする人たちは、芸術や視聴覚表現と同じように、行動規範に対しても、その「美」を当てはめていたので、面白いです。
『美と芸術と理論』は、書店ではあまり置いていない書籍なので、調布の中央図書館の地下書庫で遭遇できたことが嬉しいです。
彼らの言うところの『美』は、やがて政治哲学の分野でも語られます。
ハンナ・アーレントもその分野を代表する一人です。