イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

『コロナ時代の哲学』(大澤真幸・國分功一郎)

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Miyashita park


【マチノキッド学習会
19:終了】

テーマ図書:『コロナ時代の哲学』(2020 大澤真幸 左右社)

参加者:4

 この会は、読書会ではなく「学習会」と称しています。

 それは、過去の文人のものの捉え方や思考術に学ぶ会なので、そういう意味を込めて「学習会」としています。
 研究者は、昔の学者の、そしてその学者は、さらにまた昔の人々の言葉を引用して、知恵を繋ぎます。
 その言葉の系譜がわかるようになると、テーマ図書もグッと楽しめます。
この辺りにも学習会ではフォーカスしてます。

 また、思想書の場合は、情報というよりも問題の処方箋というか、利害調整の視点を学ぶ事に近い気がします。

 今回のトピックの一つ、イタリアの新聞に寄稿した、哲学者アガンベンの提起した問いは、新型コロナウィルス対策への批判を起点とするものでした。

 このアガンベンというおじさんは、亡くなった人々への配慮もリスペクトも感じられない政策当局に苦言を呈します。
 新聞への寄稿後には怒涛の非難を浴びました。俗にいう炎上です。
 アガンベンは「移動の自由」の制限に厳しい言葉を寄稿しました。

 移動の自由が、どんなに大切なのか議論されずに、規制だけが実施されていく世界は、「生存だけを価値として認める社会」でなくてなんなのか。と、警鐘を鳴らしたのでした。
 図書の中で、対談の相手となる國分功一郎さん曰く「アガンベンはアブのようにぶんぶんとうるさい存在」だろう、と表現しています。これは、哲学者ソクラテス自身が語った言葉らしいです。…アブ笑

 今回の図書の中で、イタリアで話題となったこの経緯を紹介しつつ、メルケル首相のテレビ演説を紹介します。COVIT-19の猛威の振るう中、行われた異例の演説でした。

 アガンベンおじさんの警鐘をまるまる解きほぐすような演説内容で、炎上して老害と思われたような彼の意義を浮き立たせるかのような演説でした。「バランスの取れたスピーチ」と國分さんが仰ることも肯けます。

 なにより、世界各地で起こるいろいろな衝突や非難を、ないものとして扱わず、どうしたら利害を調整できるのか、その和解を実現するためには、どのような文脈を語る必要があるのかに、着目されていたのだと思います。

 現実味ある視点から、大澤さんと國分さんの対話は進行しており、良書だと思わされました。

 メルケルの演説の抜粋は、マチノキッドリサーチに掲載中。
 全文はドイツ大使館のHPから読むことができます。そちらもリンク先を掲載しているので、興味ある人はごらんください。

  なお、今回の学習会で話題となったトピックは、このブログからは溢れるほどでした。ビオスとゾーエー、そして「剥き出しの生」、剥き出しの生が、どのように公共の世界観を抱いていくのか等。著書に触れられる内容に、議論が深まりました。
 ありがとうございました。

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

 

『人間の建設』(1965 岡潔 小林秀雄)

  7月30日
 マチノキッドリサーチの学習会では、
新潮文庫『人間の建設』(2010)を取り上げました。
 数学者の岡潔(1901~1978)氏評論家の小林秀雄(1902~1983)氏との昭和40年の対談録です。

 学習会では、希望者の作成したレジュメを中心に話題を取り上げ、参加者と雑談しながら進行します。他には、こちらの関連資料も活用しました。

小林秀雄の肉声音源
・「知情意」と「真善美」が和訳された西周全集
・関連書籍・・・夏目漱石『文芸の哲学的基礎』etc.

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 『人間の建設』では、多岐に渡るエピソードが取り上げられます。
 アインシュタインベルクソンについて。
 ピカソゴッホやモネー について。
 相反する命題が両立する話など。
 なかでも、お二人が、常に気を留めた点を一つ挙げるとすれば情緒についてです。それも
自己中心的な個性と、個性の基の主観の関係で語られる情緒。
 どちらも個性に関わるもの
ですが、この違いを、お二人は峻別していきます✨

(人には)固有の色というものがある。その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものである… 『人間の建設』P14

 原始的時代が僕の記憶の中にあるのです。…もういっぺんそこにつからないと、電気がつかないことがある。あまり人為的なことをやっていますと、人間は弱るんです。弱るから、そこへ帰ろうということが起こってくる。『同書』P133

 「深いところから来る固有の色」、「人為的ではない原始の記憶」、このような語句が人の情緒を表す際に用いられており、興味深いです。 
 また、情緒に関連して、感情を土台に据えた抽象と、そうでない抽象が何なのかも語られます。

岡:

 ポアンカレの先生にエルミートという数学者がいましたが、ポアンカレは、エルミートの語るや、いかなる抽象的な概念といえども、なお生けるが如くであったと言っておりますが、そう言う時は、抽象的と言う気がしない。対象の内容が超自然界の実在であるあいだはよいのです。それを越えますと、内容が空疎になります。
『同書』P25
 

 哲学用語らしき語句、「超自然界の実在」と指摘がありますが、実感のある観念を意味しつつ、それ以上の意味を含むようです。
 この辺の用語はポスト構造主義以降の、思弁的実在論などと関係するでしょうか?興味深いところです。
 いずれにしても、人の主観の奥深いところの実在に、岡が触れていることがわかります。
 さらに、記憶にまつわる話は、このような言葉の中に描かれます。

小林:

 芭蕉「不易流行」という有名な言葉がありますね。徘徊には不易と流行とが両方必要だと言う。幼時を思い出さない詩人というものはいないのです、一人もいないのです。そうしないと詩的言語というものが成立しないのです。『同書』P132

c.f『不易流行』蕉風俳諧の理念の一。新古を超越した落ち着きのあるものが不易,そのときどきの風尚に従って斬新さを発揮したものが流行と説かれる。不易と流行とは根元において結合すべきであるとするもの。(コトバンク) 


  過去の古典も常に流行を取り入れていたと読めそうです。何となくわかるような気もします。
 上記のような抜粋は、雑多なテーマを扱っているようで、彼らの着想は常に、主観の深いところと関係します。
 意識するかしないかの深層へ言及しますので、概念化しずらい領域についての話題になったと思いますが、世間に知られているような概念、例えば無意識美学という言葉を使用せず、印象としては、お二人の自分なりの言葉が編まれていたように思いました。

 皆さんにも、おすすめしたい一冊でした。
 みずみずしい文章に触れられるかと思います。

 

次回学習会:『コロナ時代の哲学』

www.machinokid.net

人間の建設

人間の建設

 

『それを真の名で呼ぶならば』(2020 レベッカ・ソルニット)

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 (Updated.8.1)

 レベッカ・ソルニットのいう「無邪気な冷笑=Naive cynicism」を、人は誰もが経験していると言えそうだ。なぜなら、この人がこれだけ言うのだから。
 「わからない」ことを恐れる自分が、どこかにいるはずなのだ。

 今回のマチノキッド学習会では、
レベッカ・ソルニット(1961~)著『それを真の名で呼ぶならば』(2020 岩波書店を取り上げさせていただきました。

 とあるシンクタンクの統計、社会の通説、ご意見番の主張など、それらを見聞きして、短絡的に判断をして、本来なら可能性の芽があった自分の未来を諦めてしまうことがあるのかもしれない。 

 そう思わせるような、下記の記述に目が止まりました。

 私たちは、ニュースメディアなどの社会通念の提供者たちが、過去より未来を報告したがる時代に生きている。

 彼らは世論調査をし、続いてどうなるかを報じるために誤った分析をする。黒人の大統領候補が選挙に勝つのは不可能だとか…
 私たちの方も、そうした予言を甘んじて受け入れている。彼らが最も報じたくないのは、「実際にはわからない」ということだ。『それを真の名で呼ぶならば』P66

 評論家以外の人々もまた、…非常に強い確信をもって、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する。

 こういった発言の背後にあるマインドセットを、私は「無邪気な冷笑」と呼ぶ。  

 …冷笑は、何よりもまず自分をアピールするスタイルの一種だ。

 冷笑家は、…ニュアンスや複雑さを明確な二元論に押し込もうとする…

 私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒の間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。 
『同書』 P67

 上記の、シニシズム=冷笑、に加え、さらに、自由主義社会のもと発生する「孤独のイデオロギー」や、その他の的確だと思わされる様々なコラムを通して、現代の症状に彼女は名をつけていきます。
 ますます、曖昧なこと、不確実なこと、未知なことへの関心が高まるのでした。
=================
*『孤独のイデオロギー』に関する引用を追加

 …物事は他の物事につながっておらず、人も他の人につながっておらず、すべては繋がっていない方が良いのだという思想が見つかる。
 彼らの核になっている価値観は、各人の自由と自己責任だ。つまり、自分は一人きりであり、自分がやりたいことは自分でやる、というものだ。
 ありとあらゆる不合理な考え方は、この「輝かしい断絶」から生まれる。この世界観に従えば、真実でさえ、セルフ・メイド・マンが自分に都合が良いように創作してもかまわない独立したものだという結論に達する。
 これが私たちが未だに保守と呼んでいる、現代のイデオロギーである。『同書』P54

孤立のイデオロギーを前進させ続けているのは極端さである…

 そして、孤立主義者は自由市場の原理主義を継続させるという真実を好む。ブッシュ時代の勝利主義の熱狂の最中に、ある匿名の上級顧問(多分カール・ローヴであろう)が、ロン・サスキンド
「我々は今、帝国である。我々が行動するとき、我々は現実を作るのだ」と語った…
 「自由」とは、自分の選択肢を制限するものが何も無くなることの言い換えにすぎない。『同書』P64

 誰でも生まれる時は医療機関に世話になり、日常生活では様々な製品やサービスの恩恵を受けているので、孤立主義者はその事実をどう捉えるのか、疑問です。が、現実は複雑です。

 とある気候変動対策運動のグループが、エルニーニョの発生と熱帯地域の紛争回数との相関関係について、プレスリリースを発表した際の話です。

 プレスリリースを受け取ったのと同じ週、エクソンモービル社が方針報告書を公表した。
 …エクソンは「我が社の全ての炭化水素鉱床は、現在も今後も「取り残される」ことはないという自信があります。我々は、これらの資源を生産するのは、全世界の増加するエネルギー需要に応えるためにも必要不可欠だと確信しています」と書いた。
 「取り残された資源」とは、地下にまだ残っている石炭、石油、天然ガスなど近未来中に採掘して燃やすことを決めないと無価値になってしまう化石燃料資源のことだ。『同書』P107 

 「世界の需要のための必要性」を強調することで、気候変動の原因を問題にせず、採掘を貫く大企業の姿勢が描かれています。アメリカのパリ条約を脱退した理由も思い出されます。

 経済性や必要性と、人命や環境保全とを、どう両立させていくか。という視点に立てば、今のコロナ禍にも視野は広がります。

 休業補償がなければ店は閉められない、という飲食店オーナーの現状も、どちらも、合意形成に必要な対策が十分に講じられていない点では通じるものがあります。
 Co2削減問題と温暖化の因果関係に専門家の意見も分かれている現状ですが、相反する立場の主張を思えば、本当に起きていることが視野に入ってくるように思います。
拙い感想となり、結論があるわけではないですが、

『それを真の名で呼ぶならば』
 読み応えのある著作でした。 

 

 それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力

 
 

 

『芸術作品の根源』(1960 マルティン・ハイデガー )

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音や騒音の殺到を聞き取るのではない…われわれは三発エンジンの飛行機を聞くのであり…我々にとってはあらゆる感覚よりも、物そのもののほうがはるかに近いのである(マルティン・ハイデッガー
 
 "われわれは芸術の本質が何かを問うている"

 平凡社『芸術作品の根源』(関口浩訳)を取り上げる。本書は、序言、本編、後記、補遺と、ハイデガーの講義を聴講していたハンス・ゲオルグ・ガダマー氏による解説、訳者の後記からなる。
 ガダマー氏によれば、本編の第一章は、時期的に、最後に書かれたものである。本書を通して論じられる幾つかの基本的な認識の類型を整理していることから、認識構造の分析論と捉えて良いと思われる。この章では、従来の認識の在り方を吟味した上で、さらに真理に関わる認識がどのようなものかに言及する。


 ハイデガーは従来の認識の仕方を、下記の類型に識別する。

 1. 物には様々な特徴があると認識する仕方
 2. 物から直接知覚できる要素のみを認識する仕方
 3. 物の形と素材といった把握作用によって認識する仕方

 3こそ、物そのものの本質、上部(形相-客観)と下部(質料-主観)に、我々を関わらせる認識なのだが、あまりに伝統的な認識であるために、結果、「通俗的にして自明なものとなってしまって」いると、ハイデガーは論じる。 
 すでに語られてきた古くからの哲学的認識のあり方を知ることで、認識を「先取り」してしまい、物の本質を遠ざけるからだ。
 本書で言及される真の認識の眼差しは、例えば、そっとしておく(auf sich beruhen lassen)ことを含むのである。
 第一部で語られた物の認識の在り方を捕捉できれば、難解と言われる本書の全体像が理解しやすくなるだろう。

 二部、三部を通して、ハイデガーは、物そのものの、本質を隠す働きに着目する。それを「伏蔵」(verborgen)という概念を用いて論じ、さらに、物そのものの本質の開かれていく性質を、「不伏蔵性」(Unverborgenheit)という概念を用いて提示していく。

 美とは真理が不伏蔵性としてその本質を発揮するひとつの仕方である

『芸術作品の根源』P88

 人の認識と物との関係、ハイデガーの言う「物性」が見えてくると、自然によって生み出された神羅万象も、人間の作った道具も、そして、創作を通して生み出された芸術も、その本質が何かを問えるようになる。
 特に芸術作品に関して、それ以外の物の性質と区別して、このように述べる。

 われわれは芸術の本質を問うている。
 我々はなぜそのように問うのか。われわれが問うのは、次のような問いをいっそう本来的に問えるようになるためである。すなわち、芸術はわれわれの歴史的な現存在の根源であるのか、否か。
『同書』P129

 この問いには、「芸術」は人間が人間であることを裏付ける根拠(根源)を持つと、期待されているのが、読み取れる。

  この省察による知は、芸術の生成にとって先駆的にして不可避的な準備なのである。

 ただそのような知のみが、作品に空間を、創作者に道を、見守るものに立場を用意するのである。

『同書』P129 

 本書で描かれる知のあり方は、物の多元的な価値に出会わせる視点を養うはずだ。自然物、道具、芸術の本質を捉える示唆に満ちているからだ。

 ハイデガーは『芸術作品の根源』を言い表すのにふさわしいと考えた、ある詩の一片を引用して、三つの章を、終える。

 ヘルダーリンはそれをこう言うことによって名づけている。

「根源の近くに住むものは、その場所を去りがたい。」

『同書』P130

 本書では、物質と認識の間で経験される考察と葛藤が描かれている。俗に言う「多様性」を論じる際に、理解を深める手がかりとなるに違いない。

 

 

 

拝啓、マルティン・ハイデガー

(2020.5.12 updated)
 ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーのとある文献を読み、この著作から引用をはじめる前に、自分に思い当たる幾つかのことを備忘録にまとめることにした。
 
ものの「機能と機能以上の何か」について

 ある日、「UCCKEY COFFEE以外、ネットで豆が買えない」と、落胆するコーヒー豆にこだわる友人と話をした時のことである。
 普段からコーヒーの美味しさを伝え合ってきた友人との会話だっただけに、その時点から、自分の冷蔵庫に鎮座する豆が、UCCのお徳用だったことは墓場までもっていくレベルとなった。

 ところで、コーヒー、タバコ、お酒など、楽しむことを目的に造られたこれらの製品は、嗜好品と呼ばれ、必需品とは区別されてきた。それは、人間生活にとって最低限必要な機能以上の何かであることに思いが広がった。


 趣味のDIYに用いる道具、お気に入りの食器、身に付けるブランドも、鑑賞したり、所有したりするだけで楽しめることがある。そこには機能以上の価値がある。場合によっては、水をグラスに入れて眺めて充実感を抱ける人にとっては、水でさえも水以上のものになるだろう。
 これらは、嗜好品ではない。けれど「嗜好性」はあるのだ。 
 必需品と嗜好品の区別は明確である。だが「嗜好性」に着目すれば途端に不明瞭になる。この線引きの難しさはもどかしいので、一旦ここで整理したい。

 店頭に並ぶ商品は、商品の機能や特徴が明確でなければ、売り上げにつながらない。
 一方、一人一人の経験に依存する「機能以上の何か」は十人十色である。
 どうしたら、多様な人それぞれの興味の領域を、商品化(機能化)できるかを売り手は考えた、と仮定する。考えた際、人の五感の中でも特に生理的な感覚や、専門家の評価のような、評価の定量化しやすい分野に関しては、商品化を進められることがわかった、と想像できる。例えば「鎮静効果」や「文化的たしなみ」としての機能があることに着目できた機能以上の何かは、ハーブティーとなり、現代美術と分野を設けられただろう。

 ものから感じられる十人十色の機能以上の領域だが、全て機能に置き換えられるわけでもない。ハーブティーにならないティーもあれば、芸術にならない創作もある。そこで、刺激や効能や、ステイタスやブランドが、嗜好性のあるものを嗜好品や芸術としての役割を付与するものの、そのロールモデルに収まりきれないもともとの余剰の嗜好性は、ずっと宙ぶらりんに、市場で亡霊のように漂っているのだ。

 ここまで確認すると、「機能と機能以上の何か」について、前者を左辺、後者を右辺ととれば、必需品がもつ明確な価値の方向へ、娯楽の要素が抽出されて商品開発へと進み、右辺と左辺の配分が右から左へ、機能以上のものから機能の方向へと移っているのがわかる。
 それでもまだ余る嗜好性に関して、人々の意見は分かれていく。それを重要だという人もいれば、断捨離する人もいる。この辺りが「機能と機能以上の何か」に対する損益分岐点なのだ。  

別の見方
 「機能と機能以上の何か」について言えば、前者は、定量的な価値を扱うので理系やAIの分野が、後者は、曖昧模糊な価値を扱うので文系の分野が扱いそうなものなのだけれど、そういうわけにもいかない。
 価値の平準化を推奨して経済効果を上げるため、文系の能力はソリューションや最適化の問題に費やされてしまうから、結局は文系の領域だと思われた余剰の価値の補強の問題については開発研究が進まず、次第に、文系の屋台骨が細っていく、そんな見立てもできる。

 イノウエは、少しづつではあるけれど、機能以上の価値の領域に、需要を見つけようとする一人だ。それも、人それぞれの主観的な視点、愛着、詩的感覚、想像力を、そのまま残す形でだ。そのために、哲学や疑問を広めている。
 そんな折、この物の二つの面「機能と機能以上の何か」は、すでに綿密にギリシャ時代に考えられてきたことがわかった。また、現代ではマルティン・ハイデガーが、とある著作の中で取り上げたイシューだと知った。批判も多い哲学者であるけれど、現代で取りざたされる問題に重なる部分が多くある。
 だとすれば、この問題は伝統的に引き継がれている現代の主要問題の一つだろう。それは、いたって日常的な課題なのだ。

 そういうわけで、あらためて、機能以上の価値に、需要を見つける文系の挑戦は、まだ、はじまったばかりだと思わされる。
 そんな思いにかられる読書体験となった。
 その著作は『芸術作品の根源』(平凡社ライブリー)マルティン・ハイデッガー
 

 



新田義貞と渋沢栄一

f:id:Inoue3:20200402114247j:plain *今月の学習会はお休みです

 こんにちは。

 埼玉県の深谷市に詳しい方なら知ってるかもしれません。

 この土地にまつわる逸話は多くあります。
 中には、明治新政府の外交官、井上モンタこと、井上馨(1836-1915)によって構想された上州遷都論という壮大なものまでありました。
 この論は、深谷市の北部、群馬県太田市を含めた一帯に、首都東京の機能をすべて移してしまおうというものでした。明治19年の話です(お詳しい方の話をお聞きしたいです)

 ところで、太田市はかつて新田荘(にったのしょう)と呼ばれた荘園の中心でした。鎌倉後期の武将、新田義貞(1301-1338)の故郷です
 義貞はこの地から倒幕の志士を集め、鎌倉街道を南に進んで、
武家出身の北条氏を倒し幕府を打倒。後世にわたり人気を博した武将でした。現在も、鎌倉の稲村ヶ崎、府中の分倍河原などに史跡が残されます。

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分倍河原鎌倉街道近く

 何より、新田家が清和天皇(850-881)の本家の血筋、いわゆる天皇家嫡流だったことは支持を集めた要因でした。

 

 時代は変わり、その後、戦乱を経た300年後。
 徳川家康(1543-1616)は、自らを、新田の末裔と称します。
 もともと三河松平家の家康が、徳川と姓を改めたのも、この新田荘の、徳川町(当時の得川郷)に由来しました。(典拠)
 さらに、家康没後、三代将軍・家光は家康の言説にならい、日光東照宮の奥殿を、新田荘に移築させます。

 世良田という地に建立され、世良田東照宮が生まれます。

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 この地は、利根川によって賑わった地域でした。
 当時から水運として活用されたこの付近の河原は、近隣から物資が運ばれる要衝だったそうです。徳川御三家の一つ、茨城県水戸藩からの参拝客が少なくなかったと、とある案内人の方から、ご教授いただきました。

 一方、利根川を挟んだ南側が深谷です。
 県境は凹凸で、南岸に県がまたがる地域もあります。この地が利根川の氾濫原だったことがわかります。〇〇島という地名が深谷の北部に多いのですが、かつての中州がそのまま地名に残されたこともわかります。

 その土のおかげか、深谷では藍染の原料がよく採れ、養蚕も賑わいました。また立地から、当時の先端の学問・水戸学も伝わりやすいのでした。

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深谷駅から太田まで車で20分


  水戸学は、先日の学習会 でも知ることになりました。陽明学(中心となる思想は知行合一、実践を重んじる哲学)を基礎にしたものだそうです。その意味では深谷で実業家が育ったのは、水戸学の影響だったのかもしれません。
 例えば、日本の資本主義の父、一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一(1840-1931)は、この深谷、血洗島で生まれます。

 栄一が7歳のころに通い始めた私塾は、10歳年上の尾高惇忠(じゅんちゅう)が塾長を務めていました。
 のちに富岡製糸場の初代工場長を務めた彼もまた、水戸学の学徒でした。栄一氏とは、いとこ関係であり生涯に渡り親交を深める師弟関係でした。

 渋沢家と尾高家藍染に使う藍玉(あいだま)で財を築いた豪農でしたが、この土地は、商業と学問の育つ土地柄だったことが伺えます。
 その後も
栄一氏は出世を遂げます。

 ある日、惇忠氏は、栄一氏に青淵(せいえん)という諱を与えます。そして自らを藍香(らんこう)と名乗るようになりました。

 紀元前の儒学荀子の言葉

 「青は藍より出てて藍より青し」という言葉が思い出されます。凡庸な師から優れた弟子が出るという意)

 栄一は、のちに水戸の徳川慶喜公に仕えるようになり、さらに、維新後は、明治新政府重臣井上馨に起用され、文明開化の日本をともに支えるほどの人物となりました。

 井上馨も、この土地に魅了された一人でした。
 渋沢なしでは組閣は出来ないと、伊藤博文首相の後任を断った経緯が井上馨にはありました。
 彼の構想した上州遷都論も、渋沢栄一の影響があったことは想像に難くありません。

 いまでは、ネギとシネマで有名な、静かな町、深谷ですが、訪ねてみると水が湧き出すかのように、歴史のエピソードが溢れるのでした。きっと、充実した時間を過ごせるかと思います。

 *尾高惇忠生家にてお聞きした話を元に、リサーチをしました。
 たかはしさん、ありがとうございました。


 そんな不思議な土地、深谷へは、池袋から高崎線でたった1時間で行けます。
 外出に良い時期が来たらその時はぜひ、深谷を検討してみてはどうでしょうか?
 東京がいつの日か、この地に移ってくるかもしれません...

  

 

 

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世良田の風景

 

『市場の倫理 統治の倫理』(1992 ジェイン・ジェイコブズ )

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調布PARCO二階


第15回学習会では
 『市場の倫理 統治の倫理』ジェイン・ジェイコブズ, 1951, ちくま学芸文庫/日本経済新聞社をとりあげました。

 参加者で内容を読み返し、意見交換をしたところ話題に尽きないのでした。


ジェイン・ジェイコブズ
 1960年代、ニューヨーク・マンハッタンで断行された都市計画に異を唱え、NY市民の支持を得たジャーナリスト。45歳の時に、街路に息づく生活を元に都市計画のあり方を提唱した『アメリカ大都市の死と生』が代表作となる。路面店のおかげで犯罪率が抑制されることも、子供達が遊べる歩道も、都市になくてはならない要素だと考えた

 『市場の倫理 統治の倫理』は彼女の76歳の時の著作です。
 道徳と、実際の人間生活の矛盾とに着目し、実際にあった事件やエピソードを取り上げるなど、臨場感あふれる問いを展開していきます。

 腐敗する権力も、行きすぎた取引も、二つの道徳の不明瞭さに起因すると彼女は、考えました。

 一般的な生産活動には、Trade と Take、(取引と奪取)の方法が用いられます。それぞれ、勤勉な競争を促す市場のルールと、限られた資源・領土を守るための統治のルールに振り分けます。

 市場の倫理は、合意を重んじることや約束を守ることを美徳とします。この原理だけに基づけば、例えば、高利貸し、児童労働、さらには、臓器売買までも肯定されます。
 統治の倫理は、秩序を伴います。例えば、警察組織が挙げられます。この倫理は治安を維持するための強制力を伴います。ここに取引の倫理が侵入すると腐敗します。汚職警察の温床になります。
 そのようなわけで、市場の倫理も、統治の倫理も、私たちの経済活動を支えるために知っておくべきであることを、ジェインは提唱しました。さて二つの倫理を私たちは自覚できるでしょうか。

 以下、取り上げられた実例を抜粋しました。
 いろいろな見方のできるエピソードが掲載されていますので、気になるものがあれば、著作に目を通していただけたら幸いです。
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市場の倫理 統治の倫理

(1998 訳 香西 泰、日経新聞社)

 *ページ数は、ちくま学芸文庫のものとは違います

英題:『System of Survival -- A dialogue on the moral foundations of commerce and politics

 

・NYのとある街、被服産業が潰れかけていた。盗品にタグをつけて転売するマフィアを汚職警察が見逃す。結果、地域の商売が成り立たなくなった。貧困が犯罪を生むこともあるが、その街は犯罪によって貧困となる
(統治の倫理が腐敗)

・PPOWW(天然水源の保全Preserve & Protect Our Wilderness Watershed)森林を守る熱心な活動家が、破壊活動を周知させようと、テレビ局へ、虚偽の情報を演出して着目させた。「システム全体が腐敗している時は正直でいようと思ってもできない」という

(極端な印象操作は、倫理目的のためであれば許されるのか?)

 
イギリス海軍の起源と言われた中世の艦隊は、商人によって組織されたものの指揮権は国王に献じられた

(市場倫理と統治倫理を区別した)

 
・科学の倫理と市場の倫理は似ている
 理由1.データを説明できるものの中でもっとも削ぎ落とされた論理が良いとされるから

 理由2. 新しいアイディア、勤勉さ、無駄を省く誠実さが求められるから

スタンフォード大学の研究費の補助

 補助金助成のため連邦機関は、事前審査が必要だという。
理由:研究内容が政府の顔色を伺うことになるから。市場の倫理に反する 


・高利貸しは良いことか?カルヴァン派は利子貸しを認めた


ウェストミンスター侯爵

 英国で最も裕福と言われる彼らの家族は、自ら売買に従事しなかった。取引遵守は同時に敵国との取引を許すことになる。統治に関する仕事には取引を禁ずる「取引禁忌」が必要だった


・新聞記事

 避妊クリニックの従業員や入院者を、避妊反対デモから守れ、という任務を拒否した警察官のエピソード

 その警官は部内審問を受け、規律違反とされ免職になった。良心的に避妊反対の立場だったので彼は提訴に踏み切り、義務を拒む憲法上の権利があったと主張した。一方、判決では「当人は警察の一員となった日から、服従に良心を優先させる権利を放棄した」と言いわたされた。(公官である以上、規律に服従すべき?ハンナ・アーレントの指摘で重要なところ)


マキャベリの有名な君主への忠告

 彼は忠誠を拒むことも尽くすことも、どちらも意のままにできるものたちの忠誠をどうやって手に入れるかを考えた。上層部からの恐怖や、下層部からの信頼も、あらゆる手段について考えた。彼は、忠誠を、徳の真の賞嘆すべき形態だと見ている


・統治倫理の優先される例:軍医

 軍医は強制的な措置をとることがあるが、民間医師は合意に従う。戦地では軽傷者の治療が優先される。合意のない医療へ P161


・区別される例:イギリスの弁護士

 彼らは統治倫理と商業倫理の混乱を回避して、事務弁護士(solicitors)と法廷弁護士(barristers)を区別する。前者は、税務、契約、法人設立書類、遺言、など。後者は裁判所の事項を扱い、取引を避ける

 

・フランス松露(菌根)の侵入が針葉樹に必要という話。菌根を餌にする小動物、リス、シマリス、ハタネズミを餌食とするフクロウが、生態域の健全か否かを測る指標となる。その意味で、フクロウは示標種と呼ばれる。
 環境順応性の高いツキノワグマや山猫など、生態系の頂点にいる捕食者よりも、示標種を見る方が、生態系単位を決定するのに相応しい。生態系の区分けの仕方について、限られた資源をどのように獲得するかを考えるタイプの人間は、まず先に領土のことを考える。
 市場の倫理を重んじる人、統治の倫理を重んじる人の違いは、その人の気質によるのでは?


・商業的な道徳が事態を悪化させた例

 貧困国で融資を拡大する銀行は他行に負けじと融資を増大させ、こげつく。


・統治的道徳が事態を悪化させた例

 狩猟民族だったアフリカのイク族に、1950年代のケニア政府は、禁猟区を観光地とし、農耕を勧めた。けれど、イク族には貯蔵の文化がなかった。仮に貯蔵をしても誰かに奪われた。結果、飢餓がせまり、近隣住民が略奪された。その際、イク族の老人は、巧みに遊牧民を対立させ、マサイ族遊牧民が家畜を襲撃し合うように仕向けた。二重スパイになって報酬を稼いだ。イク族は救いがたいほどに腐敗し、手に触れるあらゆるものを腐敗させたという


コングロマリットによる道徳の腐敗

 1960~80年代、投資銀行は、顧客のためと称しM&Aの筋書きを手伝った。また、別の顧客には乗っ取り防止の策定案を手伝った。両方のサービスから膨大な報酬を手にした。イク族の老人のよう

・NY警察のコンサルティング、数年前の話 

 地下鉄の犯罪率減少のため成果主義を取り入れた。一労働時間あたりの逮捕件数を計測した結果、冤罪逮捕が横行した


・Buy-in契約

 軍需産業の元請けは、偽りの入札値を提出し議会を通した。お得意先の米国防省は、当初の価格の何倍もの発注を実施する。これまでの予算が水の泡になると説明し、軍需関係で潤う議員も知らないふりをする。ロッキード社がそうだった


・モーゼは誰にでも理解できるように規則や区別を設定している

 隣のぶどう畑からぶどうをとって味見するのはいいが、それを容器に入れて持ち去るのはいけない。標本採取と奪取との区別をしていいる etc


カースト制では、統治倫理は上部階層の者が担った。一方、倫理選択の許された社会では、個人個人が必要に応じて統治道徳、商業道徳のどちらかを選ぶことができる。そのため、双方の違いを自覚していなければならない。個々人の道徳的理解力が高いことが必要


スコット・フィッツジェラルド曰く「第一級の知性とは相反する二つの考えを同時に持ち、しかも仕事を進める能力を保持すること」だという。P273

 

などなど。

市場の倫理・統治の倫理について、わたしたちは、少なくともそれを自覚できるための、脳トレは、しておいても良さそうだ、と、所見を抱きました。

 

第1章 アームブラスターからの呼び出し

第2章 二組の矛盾する道徳律

第3章 ケート、市場の道徳を論ず

第4章 なぜ二組の道徳律か

第5章 ジャスパーとケート、統治の道徳を論ず

第6章 取引、占取、その混合の怪物

第7章 型に収まらない場合

第8章 統治者気質・商人気質

第9章 アームブラスター、道徳のシステム的腐敗を論ず

第10章 倫理体系に沿った発明・工夫 

第11章 ホーテンス、身分固定と倫理選択を対比

第12章 方法の落とし穴

第13章 ホーテンス、倫理選択を擁護

第14章 計画とシャンパ