イノウエさん好奇心blog(2018.3.1〜)

MachinoKid Research 「学習会」公式ブログ ゼロから始める「Humanitas/人文科学」研究

拝啓、マルティン・ハイデガー

(2020.5.12 updated)
 ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーのとある文献を読み、この著作から引用をはじめる前に、自分に思い当たる幾つかのことを備忘録にまとめることにした。
 
ものの「機能と機能以上の何か」について

 ある日、「UCCKEY COFFEE以外、ネットで豆が買えない」と、落胆するコーヒー豆にこだわる友人と話をした時のことである。
 普段からコーヒーの美味しさを伝え合ってきた友人との会話だっただけに、その時点から、自分の冷蔵庫に鎮座する豆が、UCCのお徳用だったことは墓場までもっていくレベルとなった。

 ところで、コーヒー、タバコ、お酒など、楽しむことを目的に造られたこれらの製品は、嗜好品と呼ばれ、必需品とは区別されてきた。それは、人間生活にとって最低限必要な機能以上の何かであることに思いが広がった。


 趣味のDIYに用いる道具、お気に入りの食器、身に付けるブランドも、鑑賞したり、所有したりするだけで楽しめることがある。そこには機能以上の価値がある。場合によっては、水をグラスに入れて眺めて充実感を抱ける人にとっては、水でさえも水以上のものになるだろう。
 これらは、嗜好品ではない。けれど「嗜好性」はあるのだ。 
 必需品と嗜好品の区別は明確である。だが「嗜好性」に着目すれば途端に不明瞭になる。この線引きの難しさはもどかしいので、一旦ここで整理したい。

 店頭に並ぶ商品は、商品の機能や特徴が明確でなければ、売り上げにつながらない。
 一方、一人一人の経験に依存する「機能以上の何か」は十人十色である。
 どうしたら、多様な人それぞれの興味の領域を、商品化(機能化)できるかを売り手は考えた、と仮定する。考えた際、人の五感の中でも特に生理的な感覚や、専門家の評価のような、評価の定量化しやすい分野に関しては、商品化を進められることがわかった、と想像できる。例えば「鎮静効果」や「文化的たしなみ」としての機能があることに着目できた機能以上の何かは、ハーブティーとなり、現代美術と分野を設けられただろう。

 ものから感じられる十人十色の機能以上の領域だが、全て機能に置き換えられるわけでもない。ハーブティーにならないティーもあれば、芸術にならない創作もある。そこで、刺激や効能や、ステイタスやブランドが、嗜好性のあるものを嗜好品や芸術としての役割を付与するものの、そのロールモデルに収まりきれないもともとの余剰の嗜好性は、ずっと宙ぶらりんに、市場で亡霊のように漂っているのだ。

 ここまで確認すると、「機能と機能以上の何か」について、前者を左辺、後者を右辺ととれば、必需品がもつ明確な価値の方向へ、娯楽の要素が抽出されて商品開発へと進み、右辺と左辺の配分が右から左へ、機能以上のものから機能の方向へと移っているのがわかる。
 それでもまだ余る嗜好性に関して、人々の意見は分かれていく。それを重要だという人もいれば、断捨離する人もいる。この辺りが「機能と機能以上の何か」に対する損益分岐点なのだ。  

別の見方
 「機能と機能以上の何か」について言えば、前者は、定量的な価値を扱うので理系やAIの分野が、後者は、曖昧模糊な価値を扱うので文系の分野が扱いそうなものなのだけれど、そういうわけにもいかない。
 価値の平準化を推奨して経済効果を上げるため、文系の能力はソリューションや最適化の問題に費やされてしまうから、結局は文系の領域だと思われた余剰の価値の補強の問題については開発研究が進まず、次第に、文系の屋台骨が細っていく、そんな見立てもできる。

 イノウエは、少しづつではあるけれど、機能以上の価値の領域に、需要を見つけようとする一人だ。それも、人それぞれの主観的な視点、愛着、詩的感覚、想像力を、そのまま残す形でだ。そのために、哲学や疑問を広めている。
 そんな折、この物の二つの面「機能と機能以上の何か」は、すでに綿密にギリシャ時代に考えられてきたことがわかった。また、現代ではマルティン・ハイデガーが、とある著作の中で取り上げたイシューだと知った。批判も多い哲学者であるけれど、現代で取りざたされる問題に重なる部分が多くある。
 だとすれば、この問題は伝統的に引き継がれている現代の主要問題の一つだろう。それは、いたって日常的な課題なのだ。

 そういうわけで、あらためて、機能以上の価値に、需要を見つける文系の挑戦は、まだ、はじまったばかりだと思わされる。
 そんな思いにかられる読書体験となった。
 その著作は『芸術作品の根源』(平凡社ライブリー)マルティン・ハイデッガー
 

 



新田義貞と渋沢栄一

f:id:Inoue3:20200402114247j:plain *今月の学習会はお休みです

 こんにちは。

 埼玉県の深谷市に詳しい方なら知ってるかもしれません。

 この土地にまつわる逸話は多くあります。
 中には、明治新政府の外交官、井上モンタこと、井上馨(1836-1915)によって構想された上州遷都論という壮大なものまでありました。
 この論は、深谷市の北部、群馬県太田市を含めた一帯に、首都東京の機能をすべて移してしまおうというものでした。明治19年の話です(お詳しい方の話をお聞きしたいです)

 ところで、太田市はかつて新田荘(にったのしょう)と呼ばれた荘園の中心でした。鎌倉後期の武将、新田義貞(1301-1338)の故郷です
 義貞はこの地から倒幕の志士を集め、鎌倉街道を南に進んで、
武家出身の北条氏を倒し幕府を打倒。後世にわたり人気を博した武将でした。現在も、鎌倉の稲村ヶ崎、府中の分倍河原などに史跡が残されます。

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分倍河原鎌倉街道近く

 何より、新田家が清和天皇(850-881)の本家の血筋、いわゆる天皇家嫡流だったことは支持を集めた要因でした。

 

 時代は変わり、その後、戦乱を経た300年後。
 徳川家康(1543-1616)は、自らを、新田の末裔と称します。
 もともと三河松平家の家康が、徳川と姓を改めたのも、この新田荘の、徳川町(当時の得川郷)に由来しました。(典拠)
 さらに、家康没後、三代将軍・家光は家康の言説にならい、日光東照宮の奥殿を、新田荘に移築させます。

 世良田という地に建立され、世良田東照宮が生まれます。

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 この地は、利根川によって賑わった地域でした。
 当時から水運として活用されたこの付近の河原は、近隣から物資が運ばれる要衝だったそうです。徳川御三家の一つ、茨城県水戸藩からの参拝客が少なくなかったと、とある案内人の方から、ご教授いただきました。

 一方、利根川を挟んだ南側が深谷です。
 県境は凹凸で、南岸に県がまたがる地域もあります。この地が利根川の氾濫原だったことがわかります。〇〇島という地名が深谷の北部に多いのですが、かつての中州がそのまま地名に残されたこともわかります。

 その土のおかげか、深谷では藍染の原料がよく採れ、養蚕も賑わいました。また立地から、当時の先端の学問・水戸学も伝わりやすいのでした。

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深谷駅から太田まで車で20分


  水戸学は、先日の学習会 でも知ることになりました。陽明学(中心となる思想は知行合一、実践を重んじる哲学)を基礎にしたものだそうです。その意味では深谷で実業家が育ったのは、水戸学の影響だったのかもしれません。
 例えば、日本の資本主義の父、一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一(1840-1931)は、この深谷、血洗島で生まれます。

 栄一が7歳のころに通い始めた私塾は、10歳年上の尾高惇忠(じゅんちゅう)が塾長を務めていました。
 のちに富岡製糸場の初代工場長を務めた彼もまた、水戸学の学徒でした。栄一氏とは、いとこ関係であり生涯に渡り親交を深める師弟関係でした。

 渋沢家と尾高家藍染に使う藍玉(あいだま)で財を築いた豪農でしたが、この土地は、商業と学問の育つ土地柄だったことが伺えます。
 その後も
栄一氏は出世を遂げます。

 ある日、惇忠氏は、栄一氏に青淵(せいえん)という諱を与えます。そして自らを藍香(らんこう)と名乗るようになりました。

 紀元前の儒学荀子の言葉

 「青は藍より出てて藍より青し」という言葉が思い出されます。凡庸な師から優れた弟子が出るという意)

 栄一は、のちに水戸の徳川慶喜公に仕えるようになり、さらに、維新後は、明治新政府重臣井上馨に起用され、文明開化の日本をともに支えるほどの人物となりました。

 井上馨も、この土地に魅了された一人でした。
 渋沢なしでは組閣は出来ないと、伊藤博文首相の後任を断った経緯が井上馨にはありました。
 彼の構想した上州遷都論も、渋沢栄一の影響があったことは想像に難くありません。

 いまでは、ネギとシネマで有名な、静かな町、深谷ですが、訪ねてみると水が湧き出すかのように、歴史のエピソードが溢れるのでした。きっと、充実した時間を過ごせるかと思います。

 *尾高惇忠生家にてお聞きした話を元に、リサーチをしました。
 たかはしさん、ありがとうございました。


 そんな不思議な土地、深谷へは、池袋から高崎線でたった1時間で行けます。
 外出に良い時期が来たらその時はぜひ、深谷を検討してみてはどうでしょうか?
 東京がいつの日か、この地に移ってくるかもしれません...

  

 

 

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世良田の風景

 

『市場の倫理 統治の倫理』(1992 ジェイン・ジェイコブズ )

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調布PARCO二階


第15回学習会では
 『市場の倫理 統治の倫理』ジェイン・ジェイコブズ, 1951, ちくま学芸文庫/日本経済新聞社をとりあげました。

 参加者で内容を読み返し、意見交換をしたところ話題に尽きないのでした。


ジェイン・ジェイコブズ
 1960年代、ニューヨーク・マンハッタンで断行された都市計画に異を唱え、NY市民の支持を得たジャーナリスト。45歳の時に、街路に息づく生活を元に都市計画のあり方を提唱した『アメリカ大都市の死と生』が代表作となる。路面店のおかげで犯罪率が抑制されることも、子供達が遊べる歩道も、都市になくてはならない要素だと考えた

 『市場の倫理 統治の倫理』は彼女の76歳の時の著作です。
 道徳と、実際の人間生活の矛盾とに着目し、実際にあった事件やエピソードを取り上げるなど、臨場感あふれる問いを展開していきます。

 腐敗する権力も、行きすぎた取引も、二つの道徳の不明瞭さに起因すると彼女は、考えました。

 一般的な生産活動には、Trade と Take、(取引と奪取)の方法が用いられます。それぞれ、勤勉な競争を促す市場のルールと、限られた資源・領土を守るための統治のルールに振り分けます。

 市場の倫理は、合意を重んじることや約束を守ることを美徳とします。この原理だけに基づけば、例えば、高利貸し、児童労働、さらには、臓器売買までも肯定されます。
 統治の倫理は、秩序を伴います。例えば、警察組織が挙げられます。この倫理は治安を維持するための強制力を伴います。ここに取引の倫理が侵入すると腐敗します。汚職警察の温床になります。
 そのようなわけで、市場の倫理も、統治の倫理も、私たちの経済活動を支えるために知っておくべきであることを、ジェインは提唱しました。さて二つの倫理を私たちは自覚できるでしょうか。

 以下、取り上げられた実例を抜粋しました。
 いろいろな見方のできるエピソードが掲載されていますので、気になるものがあれば、著作に目を通していただけたら幸いです。
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市場の倫理 統治の倫理

(1998 訳 香西 泰、日経新聞社)

 *ページ数は、ちくま学芸文庫のものとは違います

英題:『System of Survival -- A dialogue on the moral foundations of commerce and politics

 

・NYのとある街、被服産業が潰れかけていた。盗品にタグをつけて転売するマフィアを汚職警察が見逃す。結果、地域の商売が成り立たなくなった。貧困が犯罪を生むこともあるが、その街は犯罪によって貧困となる
(統治の倫理が腐敗)

・PPOWW(天然水源の保全Preserve & Protect Our Wilderness Watershed)森林を守る熱心な活動家が、破壊活動を周知させようと、テレビ局へ、虚偽の情報を演出して着目させた。「システム全体が腐敗している時は正直でいようと思ってもできない」という

(極端な印象操作は、倫理目的のためであれば許されるのか?)

 
イギリス海軍の起源と言われた中世の艦隊は、商人によって組織されたものの指揮権は国王に献じられた

(市場倫理と統治倫理を区別した)

 
・科学の倫理と市場の倫理は似ている
 理由1.データを説明できるものの中でもっとも削ぎ落とされた論理が良いとされるから

 理由2. 新しいアイディア、勤勉さ、無駄を省く誠実さが求められるから

スタンフォード大学の研究費の補助

 補助金助成のため連邦機関は、事前審査が必要だという。
理由:研究内容が政府の顔色を伺うことになるから。市場の倫理に反する 


・高利貸しは良いことか?カルヴァン派は利子貸しを認めた


ウェストミンスター侯爵

 英国で最も裕福と言われる彼らの家族は、自ら売買に従事しなかった。取引遵守は同時に敵国との取引を許すことになる。統治に関する仕事には取引を禁ずる「取引禁忌」が必要だった


・新聞記事

 避妊クリニックの従業員や入院者を、避妊反対デモから守れ、という任務を拒否した警察官のエピソード

 その警官は部内審問を受け、規律違反とされ免職になった。良心的に避妊反対の立場だったので彼は提訴に踏み切り、義務を拒む憲法上の権利があったと主張した。一方、判決では「当人は警察の一員となった日から、服従に良心を優先させる権利を放棄した」と言いわたされた。(公官である以上、規律に服従すべき?ハンナ・アーレントの指摘で重要なところ)


マキャベリの有名な君主への忠告

 彼は忠誠を拒むことも尽くすことも、どちらも意のままにできるものたちの忠誠をどうやって手に入れるかを考えた。上層部からの恐怖や、下層部からの信頼も、あらゆる手段について考えた。彼は、忠誠を、徳の真の賞嘆すべき形態だと見ている


・統治倫理の優先される例:軍医

 軍医は強制的な措置をとることがあるが、民間医師は合意に従う。戦地では軽傷者の治療が優先される。合意のない医療へ P161


・区別される例:イギリスの弁護士

 彼らは統治倫理と商業倫理の混乱を回避して、事務弁護士(solicitors)と法廷弁護士(barristers)を区別する。前者は、税務、契約、法人設立書類、遺言、など。後者は裁判所の事項を扱い、取引を避ける

 

・フランス松露(菌根)の侵入が針葉樹に必要という話。菌根を餌にする小動物、リス、シマリス、ハタネズミを餌食とするフクロウが、生態域の健全か否かを測る指標となる。その意味で、フクロウは示標種と呼ばれる。
 環境順応性の高いツキノワグマや山猫など、生態系の頂点にいる捕食者よりも、示標種を見る方が、生態系単位を決定するのに相応しい。生態系の区分けの仕方について、限られた資源をどのように獲得するかを考えるタイプの人間は、まず先に領土のことを考える。
 市場の倫理を重んじる人、統治の倫理を重んじる人の違いは、その人の気質によるのでは?


・商業的な道徳が事態を悪化させた例

 貧困国で融資を拡大する銀行は他行に負けじと融資を増大させ、こげつく。


・統治的道徳が事態を悪化させた例

 狩猟民族だったアフリカのイク族に、1950年代のケニア政府は、禁猟区を観光地とし、農耕を勧めた。けれど、イク族には貯蔵の文化がなかった。仮に貯蔵をしても誰かに奪われた。結果、飢餓がせまり、近隣住民が略奪された。その際、イク族の老人は、巧みに遊牧民を対立させ、マサイ族遊牧民が家畜を襲撃し合うように仕向けた。二重スパイになって報酬を稼いだ。イク族は救いがたいほどに腐敗し、手に触れるあらゆるものを腐敗させたという


コングロマリットによる道徳の腐敗

 1960~80年代、投資銀行は、顧客のためと称しM&Aの筋書きを手伝った。また、別の顧客には乗っ取り防止の策定案を手伝った。両方のサービスから膨大な報酬を手にした。イク族の老人のよう

・NY警察のコンサルティング、数年前の話 

 地下鉄の犯罪率減少のため成果主義を取り入れた。一労働時間あたりの逮捕件数を計測した結果、冤罪逮捕が横行した


・Buy-in契約

 軍需産業の元請けは、偽りの入札値を提出し議会を通した。お得意先の米国防省は、当初の価格の何倍もの発注を実施する。これまでの予算が水の泡になると説明し、軍需関係で潤う議員も知らないふりをする。ロッキード社がそうだった


・モーゼは誰にでも理解できるように規則や区別を設定している

 隣のぶどう畑からぶどうをとって味見するのはいいが、それを容器に入れて持ち去るのはいけない。標本採取と奪取との区別をしていいる etc


カースト制では、統治倫理は上部階層の者が担った。一方、倫理選択の許された社会では、個人個人が必要に応じて統治道徳、商業道徳のどちらかを選ぶことができる。そのため、双方の違いを自覚していなければならない。個々人の道徳的理解力が高いことが必要


スコット・フィッツジェラルド曰く「第一級の知性とは相反する二つの考えを同時に持ち、しかも仕事を進める能力を保持すること」だという。P273

 

などなど。

市場の倫理・統治の倫理について、わたしたちは、少なくともそれを自覚できるための、脳トレは、しておいても良さそうだ、と、所見を抱きました。

 

第1章 アームブラスターからの呼び出し

第2章 二組の矛盾する道徳律

第3章 ケート、市場の道徳を論ず

第4章 なぜ二組の道徳律か

第5章 ジャスパーとケート、統治の道徳を論ず

第6章 取引、占取、その混合の怪物

第7章 型に収まらない場合

第8章 統治者気質・商人気質

第9章 アームブラスター、道徳のシステム的腐敗を論ず

第10章 倫理体系に沿った発明・工夫 

第11章 ホーテンス、身分固定と倫理選択を対比

第12章 方法の落とし穴

第13章 ホーテンス、倫理選択を擁護

第14章 計画とシャンパ

 

シンポジウム『25年目のスレブレニツァ』②

 先月1月13日、聴講させていただいたシンポジウムでは、被害者遺族の代表団『スレブレニツァの母』への賠償金の割合について、知ることになりました。(前回のブログ)

 シンポジウムのリンクはこちら⬇︎

昨日1月12日(日)と今日13日(月・祝)の2日間、本研究科主催の公開シンポジウム... - 立教大学大学院 21世紀社会デザイン研究科 | Facebook

 この話題を取り上げる理由は、日常生活で不条理に思うことが仮にあっても、その背景や因果関係を知ると多少なり将来に向けて、今何をしたら良いかが見えてくるからです。
 わからないものを無理にわからなくても良いですが、世の中に対して必要以上に悲観的になったり臭いものに蓋をしたりする、諦観からは抜け出せると思います。
 (今回のブログは世界で最も複雑と言われるバルカン半島の歴史を扱う内容です。誤謬箇所などは随時訂正していきます)

 というわけで本題。

 原告『スレブレニツァの母』とは、ボスニア紛争中のスレブレニツァで亡くなられた8372名以上の犠牲者の遺族の代表団です。
 第1次大戦後、六つの国*で構成された旧ユーゴスラビア連邦は、1980年、カリスマ的指導者、チトー大統領を失うと、各国で独立機運が高まり、崩壊に向かいました。
 ユーゴスラビア崩壊の過程で犠牲となった様々な民族のうち、一部の民族の遺族の代表が『(ジェパと)スレブレニツァの母』です。少し離れた地名、ジェパを含めることもあります。 *スロベニアクロアチア北マケドニアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロ

 80年代に本格化したユーゴスラビア紛争の中で、1991年、いち早く西側に近いスロベニアクロアチアが独立を果たしました。続いてギリシャに接する北マケドニアが独立すると、92年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ国民投票を強行して独立を宣言しました。セルビアコソボ自治州もすでに独立を宣言していましたが、軍事力によって新しく国境を設けることは許されていませんでした(1648年のウェストファーレン条約以降の国際慣行)セルビアも許容できませんでした。にもかかわらず、西洋諸国は介入せざるを得ず、国家樹立を承認する事態となりました。人命保護のための特別な措置だったと言われます。(日本は2008年にコソボ共和国を承認)
 残るセルビア・モンテネグロで連邦は維持されましたが2006年に分裂し、ユーゴスラビアは瓦解しました。

 

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Yugoslavia - wikimedia


 スレブレニツァは、セルビアの国境に接するボスニア・ヘルツェゴビナ東部の4万人弱の街です。クロアチア人(カトリック)、セルビア人(東方正教会)、ボスニャック人(イスラム教)、主に三つの宗派の民族が、共生していました。
 独立の前年、91年に隣国クロアチアが独立していたために、クロアチア人以外の2つの民族セルビア人とボスニャック人の対立が激しさを増しました。ボスニアの東部では、フォチャをはじめとする幾つもの地でボスニャック人の被害が、より甚大となりました。スレブレニツァでは、8千人以上が殺害されました。95年の話です。第二次大戦以降、最大のジェノサイドだと言われます。
 これらの惨事を、日本をはじめ先進国各国は止められませんでした。

 2007年、オランダ・ハーグ地方裁判所にて、遺族団は提訴しました。派兵を要請した国連と現場の任務に就いたオランダ軍に対して住民の保護責任をめぐり賠償を求めるものでした。
 虐殺をなかったものとするセルビア政府のために、それが行われたかどうかを示す証拠を揃える必要もありました。
 以下は雑駁な進捗です。
 2014年 ハーグ地裁は自国オランダ軍の責任を認める
 2017年 賠償割合が定まる。被告・原告ともに折り合わない
 2019年 最高裁の判決が下される。原告『スレブレニツァの母』に支払われる賠償額は請求額の10%と決定される

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https://www.getyourguide.jp/sarajevo-l2281/srebrenica-massacre-and-drina-canyon-tour-from-sarajevo-t139268/

 シンポジウムでは、この判定の根拠として、国連の責任が免除されている点に着目されました。下記の条項と、さらに国内法規で、具体化されていたことを、知ることができました。(登壇者、岡田陽平さんの報告から)

国連憲章 第105条

1. この機構は、その目的の達成に必要な特権及び免除を各加盟国の領域において亨有する。
2. これと同様に、国際連合加盟国の代表者及びこの機構の職員は、この機構に関連する自己の任務を独立に遂行するために必要な特権及び免除を亨有する。
3. 総会は、本条1及び2の適用に関する細目を決定するために勧告をし、又はそのために国際連合加盟国に条約を提案することができる。

国連憲章テキスト | 国連広報センター


 オランダ政府は、国連の任務で現場に配属されました。その点では、最高裁が、10パーセントだけでも、オランダ軍の単独の過失を認めたことは、被害者側にとって不幸中の幸いだった、という見方もあるかもしれません。(注:下級審では30%と判断されていたが減率している)

「10%」

 

 そもそも国連の免責条項は、妥当なのでしょうか? 

 国連の正当性を知るために、バルカン半島の歴史を確認することにしました。

 国連は創設以来、75年の歴史があります。
 セルビア国教となるギリシャ正教系の民族と、イスラム教系の民族との争いの歴史はざっと700年ですオスマン帝国樹立1299年)ユーゴスラビア紛争に関わる、国連による治安維持の正当性は、この土地の、利害関係の歴史と密接であることは想像に難くありません。そこで、世界史の必要性に直面します。

 バルカン半島の南部は、かつて東ローマ帝国が存在しました。オスマン帝国によって1453年に滅ぼされ、さらにセルビアボスニアも侵略されました。18世紀、パクス・ブリタニカと言われる時代には、中国・インドとの貿易路の確保のために、この地にイギリスが介入することもありました。19-20世紀には、ハプスブルグ家がボスニアを管理下に置き、その後、統治を進めていきました。独立を望むボスニア内のセルビア人は、サラエボ事件を起こします。第1次大戦に突入するも、終戦後、民族主義は強まりました。
 クロアチアナチス・ドイツの傀儡政権が生まれました。そもそもバルカン半島の各地で、ロシアはスラブ人主義を煽り、介入を繰り返してきました。半島はロシアにとっても勢力拡大の要衝だったからです。東西にも南北にも、民族主義的、地政学的な意味を、この半島は荷ってきたとわかります。典拠:世界史の窓

 ボスニア紛争だけを見れば、一方的に加害者側のように見えたセルビア人も、大国の息がかかっていない時期を見つけられないほど、歴史の中では、列強の政治戦略の渦中に位置したのかもしれません。

 なお、資料映像から知ったところ、スレブレニツァでの惨事の時、国連は住民保護のための十分な軍力を行使できませんでした。
 国連軍は無理だとしても、西欧諸国で組織したNATO軍の空爆でさえも、エリツィン大統領から批判を受けるものでした。
 安保理の決定を経ない初めてのNATOの爆撃は咎められ、その後のコソボの独立時のNATO軍事作戦も、2014年のクリミア侵攻時のロシアの口実ともなりました。
 当時の、国連の人命保護の合意形成が十分に築かれなかった理由は、大国の攻防戦の延長にあると言えば、一旦の説明はつきやすいかもしれません。
 なぜなら、歴史は、列強とロシアの攻防が絶え間なくバルカン半島近郊を支配してきたことを、顕著に示すからです。MachinoKidのリンク参照)

  『スレブレニツァの母』にとって加害者側の責任を問うときに、バルカン半島を舞台に繰り広げられた利害の対立が、責任を担う主体の一部だったと仮定すると、問うべき課題に着目しやすくなる、というのが、リサーチ後の所見です。


 
下記にて、列強がロシアの勢力拡大を防いだ時期をベンチマークに、まとめました。

 

www.machinokid.net

 



 

シンポジウム『25年目のスレブレニツァ』①

 2020年113日、シンポジウム『25年目のスレブレニツァ』 に参加しました。国連の平和維持活動の最前線が、どのようになっているのかを知ることができました。司会は、難民を助ける会・理事長、長有紀枝(おさ・ゆきえ)教授でした。


 以前、産経新聞の「産経Express」というタブロイド版があったころ、Campus新聞という枠で、イノウエも記事を書いてました。学内誌SPCの編集者だったからです。当時、取材対象としてお会いしたのが長先生でした。
 紙面は手元にあり、今、読み直しても、先生の人柄も、学ぶことへの臨場感も、感じさせられます。というわけで一部抜粋。

産経Express 2013.3.24

S(SPC編集部) : 今回の震災で、大学生や大学にどんなことができるのだろうかと考えてきました 
O(長先生):「緒方貞子さんを知ってる?国連難民高等弁務官を務めて、今は国際協力機構の理事長です。その緒方さんが、大学生もいるシンポジウムで『学生にとって何ができるのでしょうか』と聞かれたの。なんて言ったと思う?『勉強しなさい。あなたたちのできることは勉強。それが特権』と言ったの」

S : 大学で勉強することが、やるべきことなのでしょうか
O :「大学生だからこそできることとか、大学だからしなければいけないこととか、いろんなことがあると思うんですが、大学生であるということを忘れないでほしい。被災地ではないところにいる人として、自分たちが生きていること、生かされていること、福島や宮城、岩手の人たちが送れなくなってしまった日常を私たちは送ることができている。大学で学べるという当たり前のことへの感謝を忘れてはいけないと思います。それが大前提です。」

(中略)

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 「赤十字国際委員会の副代表だったジャン・ピクテが言っていたんですけれども、人道には『4つの敵』があると。それは『利己心』『想像力の欠如』『認識の欠如』『無関心』。特に、無関心について、『何の悪さもしない。だけど、長期的に見れば弾丸と同じように人を殺す』という、注釈をつけているんです」

S : 「無関心」が最も怖いというのは、東日本大震災(のその後)にも共通しているように思います。
O :「学生には、今の自分に何もできないからといって、関心を失わないでほしい。たとえ被災地に行かなくても、意識さえあれば、できることがある。今はお金がなくても、社会人になって募金したっていいと思う。「私は東北に対して何もできないんだ」とは思わないでほしい。シャッターを閉じないで、一カ所だけでも開けていれば、それが、0か1じゃなく、0か100くらいの差になるんです..

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 当時の話は、よく覚えていますが、それからというもの自分の好奇心も、1でなく100くらいに膨らんでいるように思います。

 そして、この日の会場へとやってまいりました。
 先生は、何年も前にお会いしたときと変わらず、朗らかで軽やかで力強い印象のままでした。ところで、2日間にわたって開催されたこのシンポジウム。

 イノウエは第3セッションに参加いたしました。
 登壇者の方々は、錚々たる顔ぶれです。元、国連事務次長、明石康さんもいらっしゃいました。
 去年亡くなられた、中村哲さん、緒方貞子さん、を思えば、この日が本当に貴重な機会だと思わされるのでした。
 さらに、日本の「集団的自衛権」ついて詳細な研究をされている篠田先生の話も直接お聞きできるので、浮き足立つほどでした。この方の著作からも学ばさせてもらっております。

 改めて、セッションで登壇された方は以下です。

 ・明石康  (元国連事務次長)
 ・岡田陽平 (神戸大学
 ・篠田英朗 (東京外国語大学
 司会:長有紀枝

  1995年、スレブレニツァで事件は起きました。被害者の数も甚大なものでした。しかし、中世から、オスマン帝国・ハプスブルグ家・ロシア帝国の干渉の中心となったバルカン半島の歴史を思えば、どの程度、当時、国際社会から着目されたのかは、わかりません。「またか」という感じだったかもしれません。僕は高校生でバスケに明け暮れていたので平和でした。
 その惨劇から25年目の2020年現在、国連PKOの活動についてや、派遣の根拠など、今回のシンポジウムからは、知ることができました。第3セッションだけでも簡単には語りつくせないものでした。

 去年、2019年。スレブレニツァの被害者へ対する賠償の割合が決まりました。(これは岡田先生のご報告です)

 スレブレニツァでの惨事は、欧州に甚大な被害をもたらせたユーゴスラビア紛争の渦中に起こりました。もともと6つの国の連邦(スロベニアマケドニアクロアチアボスニアセルビアモンテネグロ)が崩壊していく中で、ボスニア紛争につながり、域内のセルビア系住民がイスラム系住民の民族浄化に手を染めることになりました。その地がスレブレニツァでした。
 国連も派兵されていたので、住民を保護できなかった責任は国連にあるかそれとも、当時実務を担ったオランダ軍にあるのか、が問われました。
 この難題は、最終的には、賠償額のうち10%をオランダ軍が負担することで決着がつきました。

 その理由について知るだけでも、歴史と世界情勢が見えてきます。なぜたった10%しか補償されなかったのか。など、次回ブログに記したいと思います。

 世界平和という言葉を口から発するときに、どんな因果関係が実務に関わっているのかを知ることができました。
 最後に国連の拒否権の問題、PKOの根本問題についての質問をさせていただき、皆さんのご意見をお伺いできたことも、良いリサーチの意欲に繋がりました。ありがとうございました。

 

inoue3.hatenablog.com


*-*-*-*《プログラム》*-*-*-*

https://sds.rikkyo.ac.jp/news/2019/so97n10000000hpr.html

 

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研究科のFBより

『日本の名著 30 横井小楠 佐久間象山』(1970 松浦玲)

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池袋・立教大学のヒマラヤスギ

  第13回マチノキッド学習会は『横井小楠』を取り上げました。

 学習会でも取り上げてきたハンナ・アーレントのように、実践を重んじる点で、横井小楠の思想は、「実学」なのでした。

 空回りする知識の理想でなく、現実の仕組みを背景にした「理想」に基づきます。

 社会の実情を見ると困っている人が大勢います。理想が何かを問えば、困窮する人だけでなく、あらゆる紛争が社会から減少することかもしれません。ですが、現実はたやすくは変わりません。

  理想を唱えたとしても、空振りに終わる。そんな落胆を味わうこともあります。そこで、現実社会の行動の大切さに気がつかされます。

 ふと思い出されるのは、目の前で困っている人がいる時のことです。
 落胆していようが溌剌だろうが、人並みにぼくも手助けをすると思います。
 先日、夕暮れ時、バイクのブレーキの音が聞こえ、外に出ると10代らしき男の子がスクーターで横転していました。歩道に移動するのを手伝い、必要な措置をしました。また、10cmくらいの段差で転んだ老父の方にも今週、遭遇しました。肩を貸して、雑談をした程度ですけど、いずれにしても、理想がどうこうではなく、反射的な応対となりました。

 どれほど役立てたかは別にしても、目の前で起きたトラブルには、すぐに対処します。では、目の前にいない多くの人にも、即座に対処できるでしょうか?
 

 目の前で転倒する人を助けることはできます。
 目に見えないところで苦しんでいる人を、助けられる方法は何か?

 と問われたら、ぼくは総括して、こう言います。
 「その人にしかできない職種で、人の役に立つこと」です。
 

 難しい理想を唱える以前に、この小さい方針が大きな効果を生むと思うからです。

 実業家であれば、仕事の無い人に仕事を創り出すこと、経済学者であれば、消費を活性化すること、かもしれません。これに加えて、より効果的に個性を生かせれば、目に見えない第三者をより多く助けられることも自明です。他者と競合しない新しい分野を開拓したり、既存の資源に新しい価値を発見する役目が、個性や独自性にあるからです。

 そういうわけで、ぼくは、小さい活動をする時から、この視点に着目する次第です。そこで、問われるのは、果たしてそれが本当に生産的かどうかです。
 この問いに答えるのが、今回の著書でした。

 横井小楠は、古代に存在した、理想的な学校について、こう論じました。

(堯舜の時代の学校では)その人、固有の徳性に基づいて、人たる職分を尽くさせようとするだけだから、強制して教えることはしなかった
『国是三論・士道』

 と言います。
 この固有の徳性については、士道としても捉えられました。

 人と生まれては必ず父母があり、武士となれば必ず主君がある。君父に仕えて忠孝を尽くすのは人の人たる道であるけれども、これは固有の天性として備わっているのであって、教えられて初めて知るというようなものではない。

 忠孝の道を尽くそうとする天性を、徳性に基づき原理に従って正しく導くのが文の道であり、その心を治め胆を練り、その成果を武技や政治で試してみるのが武の道である。
『国是三論・士道』

  横井小楠の、徳性は、理想(天帝の政治)を実学に繋げる時に不可欠なものでした。

  山川・草木・鳥獣・貨物それぞれの徳性を発揮させて利用し、地をひらき、山野に路をつけ、地上のあらゆるものを皆人間生活を豊かにするため役立てた。
 水・火・木・金・土・穀の六腑、それぞれの効用を尽くし、利用されないものは一つもなかった。これが、天帝を敬し天帝の命を受けて、工作工夫する政治だったのである
『沼山閑話』

  知識ではなくを会得します。

 注意しなければならないのは、「知る」と「合点する」とは違うということです。世界の理は幾千万の物事についてそれぞれ異なっておりしかも一つ一つが変化いたします。

 だから、物事をただ知っているだけでは、いくら数多く知っていても形を見ているにすぎず、活用することができません。合点するというのは、書物を参考としてそのを会得することです。を自分のものにしてしまえば、書物はもうに過ぎません。
『沼山対談』
横井小楠井上毅の談話)

 横井小楠が何かを「利用する」という時は、その時々の利益という考えでなく、「天帝」という言葉の示すように、世界全体を通じた「」に適う豊かさを意味します。
 そのようなわけで、すくなくとも横井小楠の論旨を介せば、ものや個人に固有の「徳性」が、人間の生活の豊かさに影響すると、説かれていたことがわかると思います。

 上記は、学習会でも話された、ほんの一部の小楠の視点になりますが、その視点の力強さを、あらためて確認すると、外見は地味に見えるかもしれませんが、少なくとも心意気は、クリスマスのイルミネーションさながら、華々しい心地です。

 後日、ここでは紹介できない、小楠の壮大な世界観について、現代に活用されるべき!とイノウエの思う論点を、マチノキッドリサーチ内でも、アップデートしようと思います。

 今月も良い文献とお付き合いができたようです。来年の学習会もよろしくお願いいたします。

 

日本の名著〈30〉佐久間象山・横井小楠 (1970年)

日本の名著〈30〉佐久間象山・横井小楠 (1970年)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1970
  • メディア:
 

 

『百学連環を読む』(2016 山本貴光)

 

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隣町、公民館のミュージカル

(11/9 updated)

 第12回マチノキッド学習会も終えることができました。レギュラーとなりつつある4名の方々に参加していただきました。

 前回に引き続き近世、江戸の人々の思想について学んできた学習会ですが、これまでに家康の時代に官学に定められた朱子学のことや、中期に台頭する国学のことや、江戸時代に盛んになった会読(かいどく)が、横井小楠(しょうなん)吉田松陰らに影響を与えたことを、知ることができました。(前回ブログ参照)

 今回のテーマ図書となった『百学連環を読む』(2016, 山本貴光, 三省堂は、江戸末期の哲学者、西周(にしあまね)の講義『百学連環』を、文筆家、山本貴光氏が解説したものです。

 『百学連環』は明治3年に行われた西周氏の口述によるもので、残された記録は西周自身の覚書と、受講した弟子、永見裕(ながみゆたか)の筆録だけでした。

 昭和に入ると、大久保利通の孫、利謙としあき氏が、永見氏の自宅を訪れ、残された筆録を拝借し、覚書とあわせて編纂し、これらが西周全集(第4巻 1986)に集録されました。 

 跡を辿れば、

 西→永見→大久保→山本氏

 という順序に、時を隔てて、文献が届けられたのです。
 まるで聖火リレーのようです。そしてイノウエのブログにたどり着きました。

 

 『百学連環を読む』では、解説の丁寧さが著者の姿勢に見て取れます。

 弟子、永見裕氏の記した表記と覚書の表記の違いや、誤字の一字一句に至るまで、それが生じた背景を推測して、思考の経路をたどるのでした。

  この著書の中で、中心となる和訳語があります。

 それは、『学術』です。

  『学術』という言葉は、著者によれば、すでに江戸中期の貝原益軒かいばらえきけん)の著述にも記されます。(漢語に由来するでしょうか)

 西周は、この語句を、英語の、Science & Art の和訳語に充てました。昨日のトークショー(たまたま学習会の翌週に山本氏のトークショーが行われた)にて話された分類の型でいえば、和訳の3種(翻訳・借用・転用)のうち、もとの漢語を訳語に充てる、転用になるでしょうか。
 著作の中では、儒学で言うところの知行との関係が語られます。

 知は、知恵を得ること、行は、行うことを意味します。江戸中期には、陽明学という儒学の新しい流派によって、「知行合一」という教えが広まりました。言葉のみでなく、言動を一致せよ。といった意味ですが、ひとまずここでは、「知」は内に入ってくるもの、「行」外へ向かうもの、という、明瞭な区別があると述べられます。

 

 学術の根源なるものあり。知行の二つ是なり。知行はいかにしても区別あるものにして、一つと見るあたはざるものなり。知の源は五官の感ずるところより発して、外より内に入りくるものなり。『西周全集第4巻』p14

 

 ゆえに知は先にして、行は後にあらざるべからず。知は過去にして、行は未来なり。学術と知行は、最もよく似たりと雖も、自らその区別なかるべからず。知行は学術の源なり。

 『西周全集第4巻』p14

 

 こうして、儒教の概念「知行」が学術の根源として捉えられたことがわかります。
 その、「知」と「行」が、Input とOutputの関係にあるというわけです。なお、学術は、ScienceとArtのもともとのラテン語由来の意味、「学は知るための知識、術は作るための知識」の語義を持ちます。ここにも、知る=入力、作る=出力の関係が見られます。

science, scimus ut sciamus, in art, scimus ut producamus.(『西周 全集』P13)

ラテン語訳:「学では、知ルタメニ知り、術では、ツクルタメニ知る」(『百学連環を読む』p119、山本貴光訳)

 

 ところで、学術と、学術の根源となる知行とは、具体的には何が違うのか?という疑問も起こるかもしれません。


 そこで「学」が、知識全般に対応する「知」とは違い、精緻に組み立てられた矛盾を含まない真理であることが述べられます。一方、「
術」は行為の遂行のために組織立てられたものであると述べられます。この点で、知行と、学術は、区別されていることがわかります。
 学術は、知行の広がりから不確定なものを削り、より厳密なものとしたことが、下記の引用からも理解できると思います。

「学」とは、認識を補って完全にするためのものであり、形式の観点からは論理が完全であるという性質を、内容の観点からは真理という性質を備えている」山本貴光訳)p90

「術」とは、規則を組織立てたものであり、ある行為の遂行を容易にすることに役立つものだ」山本貴光訳)p99

 幾つかの用語を体系的に充当した西周の分類は、堅固な体系を持っていると思えたのでした。
 ひとまず、この辺にて終わりたいと思います。

 口述表記に近い山本さんの文体のおかげで、一つ一つの訳語が、配役を命ぜられた役者のようでした。訳語が生き生きと自分の役目を演じるかのうように思えました。
 たまたま、先週、隣町で鑑賞したミュージカルの影響でしょうか、まるで劇場に訪れたような不思議な読書体験となりました。
 

 著書の後半では、さらに、「術」が「技術・藝術」に分類されていく過程なども語られていて興味深いです。
 「芸術」が昨今語られるリベラルアーツの訳語として生まれたことも、西周の視点だったことがわかります。

 備忘録として、下記に概念の分類を図示しました。解説、詳細は、ぜひ本書をご覧ください。
 文明開化の日本に、和洋中の文化の折衷される過程を、辿っていただけると思います。

 

 

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知行・学術・識と才についての参考資料

 

「百学連環」を読む

「百学連環」を読む